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思えば、夜明け以降も彼女とずっと一緒にいるのは初めての事だった。もちろん、学校でも顔を合わせるのだが、それは言ってしまえば仮の姿みたいなもの。
僕と彼女の関係は、一体何なんだろうか。名前の付けようがない、特別なもの。かといって、そんな大それた何かがあるわけでもない。互いにちょっとずつ、弱いところを曝け出しているだけの奇妙な関係だ。
「はい、ちーず!」
突然、隣で静かだった彼女がスマホを向ける。音もなく、画面が瞬く。
「チェックして?」
「……何の?」
「目瞑ってない? ちゃんと盛れてる?」
あぁ、そうか。
彼女の決め顔は置いておくとして、僕の顔はいたって普通だった。突然だったし、不意を衝かれた真顔に近いものだ。
「分からん。大丈夫なんじゃないかな」
「よし、じゃあいっか」
車両の電光板が次の駅名を示した。同時に流れるアナウンスに耳を傾け、手元の乗車券に目を落とす。
「名古屋まで一瞬だね」
「そりゃ、隣の県だからね。新幹線を使えば一時間もかからないよ」
彼女はスマホに目を落としたまま答えた。
朝の八時半。ちょうど、朝のホームルームが始まったくらいだろうか。僕と彼女は新幹線の中にいた。当たり前だけど、周りを見渡しても自分たちくらいの見た目の人は見当たらない。
周りにはどう見えているのだろうか。二人とも私服ではある。出来ることなら、大学生のカップル程度に見られていると助かるのだが。相当な覚悟をして飛び出してきたのに、職質にあって連れ戻されたりしたんじゃ、あまりに不格好すぎる。それこそ、死にたくなるような恥ずかしさだ。
親には一応、書き置きを残しておいた。元々、奔放な性格だしさほど問題にはならないと思う。特に父親なんかはむしろ息子の成長を喜んでいるかもしれない。ウチの親はそういう性格なのだ。
「出来た! あっ、もう着いちゃった! 早く降りるよ!」
まるで僕を急かすような言いっぷりだが、僕は既に荷物を手に持って立ち上がっている最中だった。彼女のキャリーケースもまとめて二つごろごろと運び、先にホームへ降りる。
「置いて行かないでよー!」
頬を膨らませて怒る彼女は少しだけいじらしかった。
僕は彼女のキャリーケースを渡し、反対の手を取る。何の疑問を抱くでもなく、素直に握り返されたのはちょっぴり嬉しかったりする。
「どしたの? 惚れた?」
「人、多いからさ。はぐれたら面倒だし」
「ふーん、そっか。そういうことにしておきますか」
その実、照れ隠しというわけではなかった。相貌失認の彼女を思ってなんて知られたら、きっとあまり良い気はしないのだろう。
彼女はありのままを僕に望んでいる。それなら、伝えるべきではない。僕が彼女の手を取りたかったという事実は、確かにその通りなのだから。
名古屋駅からさらに電車を乗り継ぎ、外の景色はビル群から再び自然が濃くなる。ゴールデンウィーク明けの朝っぱら、ローカル線は人がほとんどおらず、途中までひと車両貸し切り状態だった。
「そういえば、さっき何かが出来たって言ってなかった?」
「ん? あぁ、これね」
彼女がスマホの画面をすいっとスクロールする。彼女のSNSだった。写真がずらりと並び、その最新の投稿に思わず声が漏れる。
「嘘でしょ……」
それは紛れもなく先ほど新幹線で撮った写真だった。写真の下部には『駆け落ち中』と書かれている。
「これで後戻りできなくなっちゃったね」
意地悪気に笑う彼女。僕はキリキリと痛む胃に無理矢理水を流し込むことで、何とか冷静を保っていた。
果たして、帰って来ることはあるのか。帰りたくない理由が一つ増えてしまった。
「どうしてくれるのさ……」
「ふふっ、いいじゃん、いいじゃん。私は構わないんだよ」
そりゃ、こんな投稿をするくらいなんだ。そうなんだろうけど。
「僕が構うに決まってるじゃん」
「どうして?」
「どうしてって……、それは……」
「私、君のこと結構好きだよ?」
どうしてこんな時ばかり、彼女と目が合ってしまうのだろう。逃げるように目を閉じると、心臓の高鳴りがうるさかった。
名古屋を出てさらに一時間四十分。長い揺れも特別退屈することもなく、僕らはあてのない旅の唯一の目的地に到着した。
同じ駅で降りる人はほとんどが旅行客で、どこか地元を彷彿とさせる。
駅前には土産物屋が何店舗か立ち並び、駅には付属の観光案内所。待ち構えるのは看板を持った旅館のスタッフ。やはり、温泉の観光地は大抵どこも同じ構造らしい。大きな文字で『下呂温泉』と書かれたモニュメントを見て思う。
「流石に長かった。腰痛いや」
「四時間近くかかったからね。僕も身体が痛い」
幸いだったことと言えば、大型連休明けの平日だから、旅行客もほとんどいないことくらいだ。
彼女がここを目的地に決めた理由は聞いていない。尋ねる勇気が僕には無かった。だから、もちろんこの後だってノープランだ。
「流石にチェックインはまだ出来ないから、先に荷物を預けられるか聞きに行こっか」
「ホテルなんていつの間に取ってたの?」
「母親がお客さんに貰ったんだと思うけど、ペアの宿泊券が家にあってね。勝手に使っちゃった。旅費浮いたね」
彼女についていくと、想像を上回るちゃんとした旅館だった。動きを固める僕と、やたらたじろぐ彼女に対しても完璧な接客でもてなされ、荷物を預かってもらう。
「なんてところに泊まろうとしてるんだよ」
「いやー、まさかこれほど良い旅館だったなんて、私も知らなかったんだよ」
彼女は急こう配な坂をゆっくりと下りながら笑ってごまかした。
「それで、この後はどうするの?」
「私の本当の目的はここからまた少し移動しなくちゃいけないからね。今日は観光でもしようよ」
広い山間を流れる川に沿って温泉街がつくられていた。海を主軸にした地元とは正反対で、ようやく旅行気分が芽生える。
食べ歩きの店が多く、近くにはかの有名な白川郷もあり、足が無くても半日程度なら退屈せずに済みそうだった。
「ねえ! 大変だよ! このお店、映え過ぎる!」
なだらかな坂道に立ち並ぶ店は、意外にも若者を意識した外観やコンセプトの店も多くあった。その度に彼女は立ち止まり、SNS用の写真を撮る。結局のところ、達観した考えを持つ彼女もまた年頃の女子高生ということなのだろう。毎回、僕も巻き込んでツーショットは勘弁してもらいたいけれど。
「焼きおにぎりにバターって、とんでもないカロリー爆弾じゃない?」
「いいんだよ、どうせ一日中歩くんだし。買ってくる!」
当たり前だけれど、めちゃくちゃ美味しかった。
「岐阜と言えば飛騨牛! だけど、流石に金銭的に断念かなあ」
バイト禁止の高校生の懐事情は芳しくない。しかも、これから先、何にお金がかかるのか分からないのだ。僕も彼女も出来る限りの軍資金をかき集めてきたけれど、それでも贅沢をするには心もとない。
「旅館の夜ご飯で出てくるんじゃないの?」
「残念ながら、素泊まりプランなんだよね。夜ご飯は外で食べよ」
なるほど、やっぱり飛騨牛は諦めるほかなさそうだ。
不意に、彼女の横顔に吸い込まれた。その様子に気が付いたのか、彼女はわざとらしく僕の手を取って歩き出す。
「見すぎじゃない?」
顔が見えなくても、分かるものなのだろうか。少しうかつだったかもしれない。
「いや、こうして昼間に秋永さんといるのが、すごく不思議で……」
彼女はなるほどという風に頷いた。
「私たち、朝までの関係だもんね」
「嫌な響き過ぎない?」
「ふふっ、本当のことだからしょうがないね」
存外、彼女は元気だ。一口に表現したものの、僕の杞憂を晴らすにはその言葉で十分だった。
彼女はきっと、この旅の中で終着点を探している。それがいつなのかは分からない。全ては彼女の気まぐれ次第。今、不意にそう思うのかもしれないし、もしかしたら軍資金が尽きて路頭に迷うのが先かもしれない。
彼女が決意した時、僕はどうするつもりなのだろうか。自分でも、分からない。止めるのか、黙って見過ごすのか。もしかしたら、一緒に――なんてこともあり得るのかもしれない。
彼女の手を取る右手が、じわりと汗ばむ。まだ夏には早いとは言え、五月も半ばを過ぎた。日によってはいやらしい暑さになることもある。
この数か月で、僕は彼女の見方が随分と変わった。たくさんのことを知ったし、彼女の弱さにも触れた。今の僕は希死念慮を抱く彼女を止めるのだろうか。それとも、彼女に対して芽生えたこの小さな憧れは、僕にも同じ感情を誘発させるのだろうか。
結局、夕飯は洒落たものをなんて出来ず、近くのファミレスで取ることにした。
宿にチェックインし、部屋に通されてようやく僕はペア宿泊券の意味を理解する。
「同じ部屋……になるよね。当たり前か」
「そりゃ、そうでしょ」
当の彼女は一切気にしていないようで、パタパタとせわしなくルームツアーを決行していた。
部屋の入り口を開けると、すぐに優しい色の畳が目に入る。温かみのある和風な照明が部屋全体を包み込み、中央には座卓と座布団が置かれていた。窓の外は暗がりにぼんやりと明るく浮き立つ庭園と、山々が一望出来る。
「うわっ、部屋に露天風呂ついてる! すごい!」
障子を開ける彼女を追いかけるように覗くと、白い湯気がふわりと立ち込めている。二人用の檜桶の露天風呂だった。
「高そうな旅館なだけあるね」
「テ、テンション上がって来たー! どうする? 一緒に入る?」
「そんなわけないじゃん。大浴場行ってくるよ」
「あ、待って。私も一緒に行くよ」
事前に二人で四十分後と決めたので、三十分で出ると彼女は姿はまだなかった。自販機で瓶のコーヒー牛乳を二本買い、彼女を待つ。
僕が彼女を待つというのも、新鮮なことだ。いつも、彼女は先に一人で待っているのだから。
彼女もこんな気持ちだったのかな、と若干そわそわする心地に問いかける。来たら、何を話そう。この後は、どうしよう。そんなことを考えながら、彼女も待っていたのだろうか。
しばらくして、彼女が出てきた。そして、僕の持つコーヒー牛乳を見た瞬間、目を子供の様に輝かせる。
「買っといたよ」
「くぁーっ! 気遣いの鬼過ぎる! ありがとう!」
彼女に一本手渡し、二人そろって蓋を開ける。上機嫌な彼女にずっと褒められていた気がするけれど、僕は湯上りの彼女を必要以上に見ないように必死だった。
部屋に戻ると、大きめの布団が二つ隙間なく敷かれていた。子供の様に布団へダイブする彼女を横目に、僕は布団をずらそうと縁を持つ。
「えっ、何で離しちゃうの?」
「いや、駄目でしょ。流石に」
彼女は首を傾げ、二つの布団の間にまたがるように足を伸ばす。
「いいよ、どうせ無理矢理襲われたら、私は抵抗のしようがないんだからさ。くっ付いてても変わんないよ」
「……しないけど」
「知ってるよ。優しいもんね」
けらけらと彼女が笑う。
僕は諦めて手を放し、彼女の隣に胡坐をかく。
「でも、この旅はずっと私と同室なんだし、本当に我慢が出来なくなったら相談してね。ちゃんと考えるから」
一応、考えてくれはするのかと一瞬、邪な思いがよぎる。
「理性がどうとか、普通にしてたらあり得ない話だから」
「えっ、そうだったんだ。男の人はさ、衝動が抑えられなくなることがあるって聞いてたから、ずっと怖いなって思ってたのに」
「そんなの意志の弱い人の言い訳だよ。もしくは病気」
きっと人は我慢の振り分けが出来るんだと思う。誰だろうが、何でもかんでも耐え続けることなんて出来ない。無意識化で我慢することと、しなくていいことで分けている。その取捨選択が人によって違うだけだ。
「良かった。爛れた旅になってしまうところだったね」
彼女は安心したように布団を被る。眠くはなかったけれど、僕も横になった。薄張りの天井が月明りで青白い。慣れない布団の重さに息が詰まった。
やっぱり、夜の空気はどこか重々しく感じる。
不意に手に何かが触れた。じわっと熱が解ける。それはもう一度僕の手に触れた後、ぎゅっと布団の中で握りしめてくる。
少し早い脈は僕のか、彼女のか。
ややあって、僕は天井を見つめたまま言った。
「どうしたの?」
もぞっと隣で彼女がこちらに寝返りを打つ気配がした。
「手くらい、いいじゃん」
「別に僕はいいけど」
僕しかいないのに何を言ってるんだと思う。
「明日、お父さんに会いに行ってみようかと思って」
ちょっぴり意外だった。
「……そうなんだ」
「うん……」
握った彼女の手が、少しだけ震えている気がした。