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小学五年の頃、僕らのクラスは崩壊していた。それでも、大きな問題にならなかった。なぜなら、茅野智が五年二組を支配していたからだ。
大袈裟な響き。しかし、クラスの様を客観的に見てもそう言い表すのが的確だった。
果たして、クラスの三分の一がいじめられている状況は、〝いじめ〟と呼んでいいのだろうか。だから僕は、自分たちはいじめられていたのではなく、支配されていたのだと思っている。
茅野は親の事情で東京から転校してきた。普通、転校生がいじめられそうなものだが、茅野は違った。転校してきた初週から既に取り巻きをつくり、クラスの顔となっていった。
彼は別に身体が大きいわけでもないし、特別容姿が整っているわけでも無い。至って普通の十歳の男の子だ。ただ、人を見る目があった。自分に逆らえなそうな弱者を味方につけ、一人では敵わないであろう芹沢を多人数でいじめた。
いじめの内容については、特に語っても仕方がない。言ってしまえば、テンプレート的なものだ。物を隠し、昼休みは教室を締め切って円を描くようにして対象を囲んで床に這いつくばらせる。放課後は公園で全裸にひん剥いて暴行。
そんな期間を二週間ほど続け、茅野は芹沢に言った。
――湯之原を連れてきたら、仲間に入れてやる。
湯之原は僕から見て、クラスで芹沢の次に体格が良い人だった。そして、芹沢と入れ替わるように湯之原へのいじめが始まる。
湯之原へのいじめはやっぱり二週間で別の人に移り変わった。次の標的はクラスで三番目に身体の大きな男の子だった。
狡猾で、上手いやり口だと思う。最初にクラスで一番強そうな人物を多人数で捕まえ、その後は徐々に上から一つずつゆっくりと摘んでいく。二週間という期間は、きっとぎりぎり一人で耐えられる長さなのだろう。そして、自分より立場の弱い人物を売れば、自分へのいじめは終わる。だから、連鎖は止まらない。
茅野のいじめは男子と並行して女子にも行われていたらしい。そっちに関しては、僕はあまり知らないが、結果的にクラスの三分の一が、茅野とどんどん膨れ上がっていく取り巻きによっていじめを受けた。
途中から、誰も疑問に思わなくなっていたんだと思う。それより、次は自分なんじゃないかという不安だけが、日々を埋め尽くしていた。
きっと、担任も早いうちに気づいていたはずだ。そして、見て見ぬふりが自分の立場にとって最善だと判断した。担任すらも、茅野の意のままだった。
そして、小学六年。卒業の二週間前。いじめの対象だった白木に茅野は言った。
「次は加賀のどちらかを連れて来い」
昼休み、茅野が言い放った言葉に、僕はただ教室の端で奏汰と一緒に震えることしか出来なかった。ついに順番が回ってきてしまった。あと少しで卒業だというのに、神様はどうしてこんな仕打ちをするのだろう。
もはや、僕らの中で茅野は神様よりも大きな存在になっていた。人の強い悪意に晒されたことのない僕らは、抵抗の術を知らない。なまじ理性を持ち合わせる年頃だから、親や先生に相談するなんてことは逆に出来なかった。そういう人間を茅野は選んでいたのだ。だからこそ、二年近い期間、茅野の独裁が続いた。その最後の締めくくりが、僕か奏汰のどちらかだったというだけの話。
この時の僕には、奏汰のことを考える余裕なんて無かった。これまで繰り返し行われた非道の数々を思い起こし、その被害者を自分に置き換えて絶望する。これから卒業まで、耐えなければいけない。その覚悟だけはあった。
床に這った白木が恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと僕らに向かってくる。その瞳は安堵と歓喜に満ちていた。多分、その瞬間僕は白木のことが嫌いになった。でも、仕方がないことだ。誰も茅野には逆らえない。逆の立場なら、僕も白木のような恍惚とした醜い表情を浮かべていたのだろう。
袖口をぎゅっと奏汰が掴んでくる。既に吃逆をしながら涙を垂れ流していた。奏汰は僕と全く同じ。僕の分身。ならばこそ、きっとその胸中も僕と同じで絶望と恐怖に塗れているはず。
一歩、僕が前に出るだけで済む。白木は別にどっちでもいいのだろう。だから、自分の背に奏汰を隠してしまえばいい。白木に目で訴えるだけでもいい。
ぐにゃりと歪む視界の端で、茅野が見えた。その瞬間、僕は踏み出そうとしていた足が固まってしまった。動かしたくても、ぴくりともしない。全身が硬直して、自分の息遣いだけが荒々しく脳内をかき乱れる。
目の前で白木の手が伸びた。ゆっくりと近づくその手は僕の側をすり抜け、奏汰の腕を掴んだ。
「あっ……」
その瞬間、僕は安堵してしまった。同時に金縛りが解ける。
奏汰と目が合う。そして、彼はそっと僕の袖口から手を放す。
胸の奥で、何かが水泡のように浮かび上がって弾けた。
視界がぶわっと滲んだ。溢れ出した涙が止まらなくて、歪んだ視界で連れていかれる奏汰に必死に手を伸ばす。酷い罪悪感と、醜い後悔が遅れて次々と湧き立った。
伸ばした手が、空を掴む。
こんな時ですら声が出せない自分の弱さに、心底嫌気が差した。
その日から、奏汰へのいじめが始まった。
カーテンを閉め切って暗くなった教室。机が押しのけられて開けた空間の中心に奏汰がいた。奏汰を取り囲むように群れる支配者たち。もちろん、茅野だけが一歩前に躍り出ている。
泣きながら上履きの裏を舐める奏汰。それを見て茅野は心底つまらなそうに奏汰の脇腹を蹴り飛ばす。横向きに倒れてうずくまる奏汰に向けて、さらに何度か足を振り抜く。
奏汰のすすり泣く声だけが、しんしんと教室に響いた。僕を含む大勢が、それを見て見ぬふりして息をひそめている。
全員が分かっていた。これはあってはいけないことなのだと。もはや当たり前になった光景を前にしても、その共通認識が変わることは絶対にない。ただ、どうしても動けない。光の遮られた薄暗い空間で、声を発することがどういうことなのか、みんな理解している。
見ていて何もしないのは加害者と同じ。そんなことを言えるのは、この恐怖を経験したことがない奴らの戯言だ。
午後の授業は頭に一切入ってこなかった。家まで帰った記憶も曖昧だ。
一体、誰が何を間違えたのだろうか。どうすれば、茅野に悟られずに奏汰を助けられるのか。そんなことを数日考え続けた。
結局、答えなんて出るはずがなく、その間も奏汰へのいじめは続く。
日を追うごとに奏汰の目から光が失われていった。それを傍らで見続け、僕もどうにかなりそうだった。その感情に、僕はまた自分への苛立ちが募る。
素直に罵倒してもらえたなら、どんなに良かったのだろう。しかし、奏汰は僕に何も言わなかった。罵りも、懇願も、泣き言も一切。
その日の朝は、いつも家を出る時間に奏汰が部屋から出てこなかった。電気が消された家が静まり返っている。朝なのに、なぜか真夜中のようだった。
階段を上がる。なぜか音を立てないように慎重だったことを覚えている。部屋の前で薄く深呼吸をして、軽くドアを叩く。返事はない。
「……入るよ?」
部屋の中は廊下よりも暗かった。奏汰はベッドの隅で膝を抱えてこちらを見ている。僕にすら怯えているように見えた。その姿にようやく、僕は微かに怒りという感情を覚える。
「……学校、どうする?」
僕が訊いていい事じゃない。けれど、気が付いたら言葉が出ていた。
「た、体調悪くて。……休もう、かな」
奏汰の掠れた声に舌が泳ぐ。少しほっとした自分がいた。
「奏弟も、や、休んだら……?」
「僕も休んじゃったら、お母さんとお父さんに疑われちゃうよ」
「で、でも……」
僕も奏汰も分かっている。奏汰が学校を休めば、おのずと標的が僕に移り変わることを。
「……大丈夫。僕は大丈夫だから」
奏汰へ向けて、というより逃げ出しそうな自分に言い聞かせるように反芻した。こういうのはあまり深く考えちゃ駄目なんだ。どうせ、待っているのは地獄の日々。それなら、せめて恐怖の上に張った薄氷のような怒りの分だけでも、満足させておきたかった。
幸いだったのは、僕がある程度心を意図的に閉ざせる性格だったこと。苦痛に対して耐えることが難しくなかったことだ。
教室へ入り、奏汰が休むことを茅野に伝えると、彼は小学生には珍しくスマホを取り出し、一枚の写真を見せてきた。その写真はトイレの中で裸にひん剥かれた、水浸しの奏汰だった。
「お前も休んだら、これを町中にばら撒く」
耳元で告げられた言葉に、それからのことは断片的にしか覚えていない。茅野を力の限り押しのけ、スマホを思いっきり床に投げつけた。光沢を放つ画面にピシッと亀裂が入る。こんなことで足りるはずがない。スマホを拾い上げ、教室を飛び出す。とにかく、時間が欲しかった。
チャイムが鳴り、一時間目が始まるまで美術室の画材置き場に身を潜めた。幸い、一時間目が美術のクラスは無くて、遠くの教室から授業の音が聞こえてくるだけだ。スマホを付けてみる。ぱっと画面が明るくなった。
人気のない廊下をゆっくりと横断し、技術室に忍び込む。工具入れを漁る時に響く金属音だけでも吐きそうになった。
金槌を手に取る。持ち手の木がひんやりと震える手に伝わった。
小学生の僕と同様、茅野もバックアップというものを知らなくてよかったと、後になって思う。
遮光の黒いカーテンを閉め、スマホの画面を付けるとその明るさに目が痛む。僕は手に持った鈍器をひたらすらスマホに叩きつけた。何度も、何度も。一度音を立てたら、誰かが来る前に終わらせて逃げなければならない。だから、狂ったように殴り続けた。
ぶつんっと画面がこと切れる。電源のボタンを押しても付かない。
真っ暗になった室内でようやく息を吐きだすと、心臓がうるさいくらい脈を打つ。少しだけやり返してやったという達成感が疎ましかった。
それからの日々は、あまり思いだしたくはない。最後の標的だからか、僕のしでかした行為のせいか、それともいざ自分がその身に立って初めて分かるものなのか、僕へのいじめは想像よりも苛烈なものだった。
画鋲は刺さっている時よりも、数十分後に襲い掛かるずくずくとした痛みの方が耐えがたいこと。カッターの切り口は燃えるように熱くなること。くだらない痛みばかり覚えている。
毎朝、奏汰に泣きながら引き留められた。もう写真は残っていないのだし、確かに卒業まで親に心配をかけることになってでも休めばよかった。けれど、多分僕は意地になっていたのだと思う。家まで茅野が来ない確証は無いし、そうなれば奏汰にだって危害が及ぶかもしれない。だから、僕は学校へと行き続けた。
確かに辛かった。思いだして、吐き気が催すくらい色々なものが刻み込まれている。それでも、双子とはいえ兄として弟を守らないといけない使命感と、一度は逃げてしまった罪悪感に僕の理性は守られ通した。
中学に入学すると、茅野は父親の転勤で今度は兵庫に引っ越すことになった。こうして、支配の日々は終わりを迎える。
中学生という一つ大人の階段を登った皮切りに、奏汰は目に見えて変わった。きっと、自分を守るために演じることを覚えたのだ。僕と奏汰が入学した中学には、同じ小学校から来た人は少なかったから、とりわけ言及されることもなかった。
それでも、二割側の奏汰は外の世界だけのかりそめの姿だ。家に帰れば、昔と何も変わらない姿だった。だから、安心した。僕は奏汰にとって、信用における人物なのだと認識できる。それだけで満足だ。
だからこそ、壊されてはならない。茅野の後を追いかけるように支配する側へと変貌した芹沢なんかに、奏汰の外壁を崩されるわけにはいかなかった。
だから、僕はいじめとも呼べないただの暴力を受け入れる。
もしかしたら、間違った選択なのかもしれない。歪んだ対処法なのかもしれない。
それでも、僕が小学生の時に学んだことは、ただじっと耐え忍ぶ。それだけだった。