「で、でもあの時の花見はホント綺麗だったよね。いい場所だったし」

 それは僕がまだ完全には目の前の女性を陽咲だと信じ切れてなかったからなんだろう。彼女に対して感じた気持ちにどこか罪悪感のようなモノを感じ話を戻さずにはいられなかった。したことは無いし、する気も無い――でもきっとこれは浮気の罪悪感と同じなんだろう。そう思うだけで僕は何故か浮気をしてしまったような気持ちになっていた。
 だから若干ながら焦り無理矢理に話を戻したのだろう。

「そうだね。舞い散る桜の花びらもそうだったけど、周りの騒がしい感じも何だか私は花見に来てるなぁって思えて良かったかな」
「そう言えば酔って熱唱してる人いたよね」
「いたいた! でもあの人、結構歌上手くてさ。逆にちょっと笑っちゃった」
「歌い終わったら周りの人から拍手貰ってたからね。――でも僕は帰り際にたまたま見つけた一本の桜の木の下で静かに過ごした二人だけの時間が一番良かったかなぁ」

 あれは花見から駅までの道のりで偶然見つけた一本の桜の木。その下で足を止めてちょっとだけ二人だけの静かな花見をした時の事。

「賑やかなのも良かったけど、やっぱり僕は陽咲と二人で静かに桜の花に囲まれてたあの時間が一番幸せだったよ」

 手を繋いだ僕らは桜を見上げ――そして桃色の雨の中、目が合い抱き合った。口付けを交わし、もう一度抱き合う。

「うん。私も」

 記憶だけでもそれは僕にとって最高の瞬間だった。目の前に広がる夕焼けのように色鮮やかで褪せる事の無い確かな想い出。
 それから僕らはお互いに黙り少しの間、自然と静寂に包み込まれた。彼女が何を考えていたのかは分からない。でも僕はどれか特定の記憶じゃなくて陽咲と過ごした日々の幸せを懐古しながら思い出していた。あの温かな春陽を浴びるように心地好い幸せを。家に帰れば陽咲がいる。それだけで仕事の疲れなんて関係ないし、毎日が煌めていた。
 僕にとって陽咲は――なんて言えばいんだろう? 人生を照らす太陽? 生きる希望? ――いや、もっと単純でいい。僕の好きな人。僕の恋をしている人。僕の愛してる人。
 でももう陽咲はいない。あの日々はもう戻ってこない。
 その事実は心へ深々と突き刺さり、さっきまでの朗らかな気持ちと相反した黯いモノが傷口から溢れ出した。霧のようにじわりじわりと広がっていくのを感じる。このままだと湧き上がる感情を抑え切れず、雨が降り出すかもしれない。この場をしんみりとさせ彼女に気を遣わせてしまうかもしれない。
 だから僕は少しでも気を逸らそうと彼女へ顔を向け何の考えもないまま声を掛けた。

「あのさ(そう言えば)」

 でもその言葉は彼女の声と重なり合い、結果的に相手が蒔いてくれた会話の種の成長を止めてしまった。
 あっ、二人して声にはしなかったがそう言うとそのまま口を閉じ、流れ始める沈黙。でも僕は特に何を話そうか決めてなかったのもあり彼女へ向け差し出す手振りをした。

「先どうぞ(先にいいよ)」

 だけどまたしても鏡映しのように僕らは声を重ね合わせた。
 でも今度、僕らを包み込んだのは静寂じゃなくて笑い声だった。二人して堪え切れないと言うように笑い出し、さっきまでのどこか気まずささえ感じる雰囲気とは一転。和やかさが僕らを包み込む。

「いいよ。先にどうぞ」

 笑いの余韻を残しながら僕は彼女に再度そう伝えた。元より僕には話そうとした話題はないのだから。

「いや、別に大した事じゃないんだけどさ。ただ桜も良かったけど、紅葉も綺麗で良かったよねって言おうとしただけ。君は?」
「あぁー、うん。僕も同じ事、言おうと思ってた」

 そんなに直ぐ訊かれるとは思ってなかったらから答えの用意は無かった。だからつい偶然だと言うようにそう答えていた。生返事の後に付け加えられた掻き集めの言葉。何か適当に想い出の事でも言えばよかったのかもしれないけど、思い付くよりも先に口が動いてしまってた。
 でも僕の返事を聞いた彼女は、また零すように笑い出す。ついていけず僕は一人小首を傾げ彼女を見ていた。

「なに?」
「本当は?」
「何が?」
「本当は何を言おうとしたの?」
「えっ?」

 心を読まれたような気分だった。一驚としながらも僅かに目を瞠る。

「ちょっと考えてから嘘付く癖。しかも考えてる時は適当に喋ってる」

 あぁー、うーん、えーっと、んー。彼女は肩を竦めるように両手を広げ首を左右に傾げながら言葉を口にしていった。

「相変わらず分かり易いね」

 どこか嬉しそうにしながら彼女はそう言った。そんな彼女を僕は既視感にも似た感覚に包まれながら見つめていた。
 確かあれは不意にちょっとしたサプライズをしようと計画してた時の事。陽咲は笑いながら僕が嘘を付くのが下手だと言い、何を隠してるのかと訊いて来た。何とか回避を試みるも問い詰められた僕は結局、サプライズをする前に計画を打ち明ける羽目に。
 その時の記憶が走馬灯のように一瞬にして脳裏を過る。同時に気恥ずかしさと懐かしさの混じり合った感情が波紋のように広がるのを感じた。

「それで? 何を言おうとしたの?」
「――いや、別に。正直、何も考えてなかった。何も言う事は無かったかな」
「なるほど。そう言う事ね。じゃああの時の紅葉覚えてる? 綺麗だったよね」

 僕の本当の言葉を聞いた彼女は話を紅葉へと戻し、何事も無かったかのように会話を続けた。少し遅れて僕も脳裏にあの日の記憶を思い出す。

「そうだね。色鮮やかで、僕の好きな季節」
「そうだね。君は秋が好きで、私は春が好き」
「好きな季節が秋と春。僕らって正反対だよね」

 僕は声は出さず笑いを零しながら記憶の自分の言葉をなぞった。

「でも私は君が好きで、君は私が好き。あんまり変わらないよ」

 するとそれに答えるように彼女はあの時の陽咲の言葉をなぞり返した。

「僕と君は正反対?」

 僕は期待と一驚を胸に記憶通りの言葉を返した。

「うーん。どうだろうね。でも自分と自分以外って考えればみんな反対側に居るんじゃない?」

 その言葉の後、僕は思わず黙り込んだ。その一連の流れは記憶を再現するようなやり取りで、僕と陽咲しか知らないはず。
 それから少しの間、僕と彼女の間には細やかな沈黙が流れた。それから僕がまた新たな想い出の話題を切り出し会話は再会。夕日が水平線に顔を埋め始めるまで続いた。

「あっ。そろそろだね」

 それは不意に飛び込んできた。どこか軽く、夕暮れのような声。沈みゆく夕日を見つめそう呟いた彼女の体は半透明。別れが近い事を物語っていた。

「また明日も会えるかな?」

 そんな彼女を見つめながら僕は気が付けばそう尋ねていた。
 時間を掛け夕日に焼かれながらこっちを向いた狐面。でもほんの数秒間――彼女は無言で、その静けさの中、僕は何も語らぬその面と見つめ合った。見慣れたと思ってはいたけれど、やっぱりそれは奇妙でまるで何かの物語の中に入り込んだような気分にさせられた。

「君が会いにきてくれたらね」

 沈黙を破り僕を我に返したその声は少し控え目で、抑え切れてない分の嬉々とした声色を僅かに帯びていた。同時に狐面は斜め下へと逸れる。そして再び訪れた沈黙。知らない内にどこかむず痒いような雰囲気が僕らを包み込んでいた。

「じゃあまた明日、同じ時間に」

 得体の知れない直ぐにでもどうにかしたいその空気に急かされるように、僕は声を出さずにはいられなかった。

「うん。またね」

 そして彼女はその言葉を最後に夕日と共に姿を消した。僕の見つめる先に残ったさっきまでの彼女は幻だと言うような虚空。一歩、つい先程まで彼女がそこに居たはずの場所へ重い足取りを進める。じぃっと見つめたまま、二歩と。そしてゆっくりと手を伸ばしてみるが、当然ながら僕の掌は空を切った。
 そんな僕の傍でそれでもなお赤みを帯びる薄明の空。それはまるで消えてしまった夕日の残り香を嗅ぐようだった。もう沈みきってしまったはずの夕日が今でもまだあの空の中には残っているのだろう。