もう何が込み上げて来て、何が僕を動かしているのかも分からない。怒りなのか、悲しみなのか、苦しみなのか、辛さなのか、自分の感情じゃないみたいに見えない。それは混沌とした黯い何かだった。
 ただ気が付けばそうやって声を荒げてしまっていた。
 ただそれに抗えず溢れ出すがままに言葉が口から弾丸のように放たれてゆく。

「何の為って……だから君の為だよ」
「僕は……どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく辛いんだよ」
「だからそれを――」
「違う!」

 僕が遮った事で陽咲は黙り、一瞬の間が空いた。

「君がいるから苦しいんだよ」
「え?」
「最初は良かったよ。また君とこうして会えて凄く嬉しくて、幸せだった」
「じゃあ何で?」
「君がもういないから」

 意味が分からない、言葉にこそしなかったものの狐面越しからでもそんな雰囲気を感じた。

「あの日、僕は君を失った。苦しくて、辛くて、黯くて、何も無くて。ただ毎日を機械的に生きるだけだった。でも今はこうして君と会えて、話が出来てる。あの頃に戻ったみたいだ……みたいだった。けど、やっぱり君はもういないんだ。この場所を離れれて家に帰れば、僕を待ってるのは暗く静まり返った部屋。あの日々とは違いそこに君はいない。夜寝る時も、朝起きた時だって。隣は空いたまま」
「だから私は――」
「違う! 君とこうして会ってるから、話してるから――僕は君を感じられらる。でも家に帰っても、君はいない。ただ君の感覚が胸に残ってるだけだ。それを抱えたままの僕はあの――君を失ったばかりの頃に戻ったみたいで……。もう君はいないはずなのにどうしても会いたくて、触れたくて……堪らない。そしてまたここで君と会って話しっては幸せなあの日々が戻って来る。けど、やっぱりこの時間が終わればまた繰り返しだ。それに今はもうこうしてる時でさえ辛いんだ。目の前に君がいるのに抱き合う事も触れ合う事も、笑みさえも見る事が出来なくて……。まるで生殺しにでもされてる気分だよ」
「分かるよ。だから私は君の為に」
「分かってないよ!」

 その言葉に反応し、僕はまた声を荒げた。

「こうして君と会う事でどれだけ苦しいかなんて。僕がどれだけ君を愛してるかなんて……分かるはずない。――それに君の為、君の為っていうけど、本当は陽咲が安心したいだけなんじゃない? 僕がどう思ってるかなんて関係無くて、ただ僕の隣に新しい人がいるのを見てもう大丈夫だって思いたいだけなんだ。本当は僕の事なんてどうでもいいんだよ! ……こんな事なら、ここで君と会えない方が良かった」

 気が付けば燃え盛る激情。押し出された言葉達の姿も覚えてないままの僕は、我に返るのに数秒かかった。徐々に――静寂の中、微かだけど大きく繰り返す口呼吸が聞こえてくる。身を顰め始める激情と共に段々とつい先程の出来事が鮮明になっていく。同時に湧き上がる悔恨の念が胸を満たしていくのを感じた。
 そして僕は沈む夕日のように顔を上げる。
 幸いに、とでも言うべきかじっと僕を見つめる陽咲の表情は狐面で見えなかった。

「……ごめんね」

 目が合うと余りにも弱々しい涙声が身を顰めながら呟く。
 咄嗟に僕は彼女へ手を伸ばすが、同時にその体は一歩後ろへ。その最中から既に薄れゆく彼女の姿が消えてしまうはあっという間だった。
 まだ夕日が見守る中、一人残された僕は少し手を伸ばしたまま陽咲がいた空間をただ見つめ続ける。
 そして寂しく開いたままの手を軋む程に握り締めた。

 その夜、ベッドに寝転がりながら僕は隣の空白を見つめていた。記憶越しの陽咲を見つめながら胸を絞めつけるのはいつもと違う心憂さ。目を閉じれば陽咲の最後の瞬間が何度も繰り返されれる。

『……ごめんね』

 感情の波に呑まれ勢いのまま彼女を傷付けてしまった。そんな悔恨の念に今の僕は絞め付けられていた。

「もしあれが最後になっちゃったら……」

 考えたくもない事が頭を過り、口から零れ落ちる。


 それは四日後の事だった。ずっとあの日が頭から離れず、気が付けば溜息を零してしまっていたが、僕は未だにあの場所へは行けずにいた。後悔してるのに会うのが怖くて一日また一日と時間だけを無駄にしてしまっていたのだ。
 でもその日、仕事を持ち帰り早く会社を出た僕は石段を上がっていた。これまでのどの日よりも重い足取り。最後の彼女を意識とは関係なく思い出しては、この石段だけでも何度か溜息を零していた。
 そして石段を上り切ると目の前に伸びるあの道。
 ここを進めばその先には陽咲が――いないかもしれない。もうそこに彼女は居なくて、二度と会えないのかもしれない。あれが僕らの最後の別れだったのかも。
 そう思うと進もうとした右足は左足の隣へと戻り、僕は踵を返した。ついさっき上ったばかりの石段を相変わらずの足取りで下りていく。
 するとそれは最後の踊り場を進んでいる時の事だった。下りる間ずっと俯かせていた視線の端に人影が映り、僕は何となく顔を上げた。
 そこにいたのは丁度、踵を返そうとする空さんだった。

「空さん!」

 踊り場で足を止めた僕は彼女の姿に声を掛ける。背を向け歩き出そうとしていた空さんは、動きを止めると半身で振り返った。
 僕は少し早足で石段を下りると空さんの元へ。

「もしかして陽咲のお墓参り? 場所分かる?」

 でも空さんは少し顔を曇らせ視線を逸らしては僅かに顔を俯かせた。

「……いや」
「じゃあ案内しよっか?」
「いや、いい。やっぱ今日はいいや」

 いつもとは違うどこか沈んだ声。

「そう。――じゃあもしよかったら呑みにでも」

 例え一時でもこんな気持ちを忘れられたら。今の僕は少しでも現実から逃げたかった。お酒で何もかも忘れてしまって。それがただ問題を明日に持ち越すだけだとしても――今だけ楽になれればそれでいい。

「いいよ」

 それから僕らは居酒屋へと向かった。空さんが行きたいって言ったから行ったけど、よりにもよってそこはあの陽咲との想い出の場所。刺激された記憶が陽咲との想い出を思い出し、それに釣られるように忘れたい事までもが頭を埋め尽くす。
 だから個室に入り最初からお酒を掻っ食らった。そんな僕に合わせてくれているのか空さんも同じように酒を呷る。
 でもお酒というのは偉大で時間が経てばここがどこだって気にしないぐらいには酔いが良い感じに回ってきていた。

「そう言えばあんた。この前、レストラン来てたっしょ? フレンチの」

 他愛ない会話をしながら只管にお酒を呑んでいると、空さんは思い出したようにそんな事を訊いて来た。
 最初は何のことか分からなかったが、フレンチという単語に記憶が蘇る。

「え? もしかしてベル……何とかってとこ?」

 その話がまさか空さんから出てくるとは思いもしていなかった僕は、自分が間違ってると思いながらも正確には思い出せないあのレストランの名前を口にした。

「そう。ベル リュンヌ。女の人と」
「えっ? 何で知ってるの?」
「アタシあそこで働いてるから」
「えっ!」

 質問よりも更に予想外な言葉に思わず大声が出る。
 そう言えば空さんがどこでどんな仕事をしてるのかは聞いた事がなかった。でもまさかあそこで働いてたなんて……。僕は多少の落ち着きを取り戻すと記憶を思い返し周りを通ったウェイターを思い出してみる。でも(正直、全くといって良い程に覚えてないが)自分の席に料理を運んで来た人はもちろんの事、空さんらしきウェイターは見当たらなかった気がする。

「少なくとも僕の近くは通ってないよね?」
「まぁ。っていうかアタシそもそもホールじゃないし」
「え? という事は」

 僕は思わず言葉じゃなくてジェスチャーで料理をして見せた。

「助手も助手だけどね。別に料理人目指してる訳じゃないし」

 空さんが料理人をしてる事も驚きだったが、あんなスゴイ場所で働いてる事に驚きを隠せなかった僕はとりあえずお酒を呷った。

「空さんって料理上手いだね。いや、上手いってレベルじゃないか。あんな場所で働いてる訳だし」
「だからそんなんじゃないって。――そんな事よりあんた、あの人と付き合ってんの?」
「あぁ。いや。あの人は上司の……まぁ、お見合いみたいなやつかな。って言ってもあの一回きりだけどね」

 先に言葉の続きが頭に浮かび口にする前に更にお酒を呑む。

「やっぱり僕には陽咲しかいなくて……」

 そんな事を言いつつ脳裏で否定するように再生されるあの言葉と声。

「そっか……」

 空さんの言葉を最後に僕らはどこか重く気まずいような沈黙に包み込まれると、互いに手持ち無沙汰のように何度もお酒を口にした。