「これ……」

 結婚してから僕も仕事が忙しくなって、中々デートにも行けなかった。そんなたまのデートで陽咲が来てた服。いつもとあまり変わらない僕に対して陽咲は目一杯お洒落をしてた。「どう? 可愛いでしょ?」そんな風に冗談交じりに言う君。
 でも本当は結婚してから一緒に居る事が当たり前になって、その中で昔を思い出すように――特別な日だと思ってくれてたって知ってる。それ以来、僕の中でただのデートから特別なデートに変わった。恋人時代の時はデートが特別で大切だったけど、結婚してからの方がそうなんだって思った。夫婦から恋人へ戻る日だ。それがどう違うのかは分からないけど、初心を思い出すって言うのがそうなのかな。
 僕の中でその服は陽咲にとって特別な日を表す服のひとつってイメージだ。
 それからも次から次へと見ていくと後半にはあの服もあった。丁度、さっき陽咲が話していた想い出の日。結婚記念日の特別な夜に彼女が来ていたドレス。そこまでガッチリとした物じゃないけど、普段着るにはあまりにもフォーマルな服だ。
 そして最後までざっくりだけど見終えた僕は郷愁にも似た懐旧の念に満たされた心を胸に傍にあったベッドへと倒れるように寝転がった。
 今ではすっかり大きすぎるダブルベッド。僕はいつもならすぐそこで寝てるはずの陽咲の幻へと手を伸ばす。今でも彼女の寝ていた場所を空けて寝ている。淋し気にぽつりと空いた隣の空間。朝起きた時にそれを見るのが辛い。
 でもいつでも僕の中では、そこに陽咲はいた。手を伸ばせば想像の中で重なり合う手。

『いつかこの間に子どもがいて、三人で寝たいね』

 いつの日か、陽咲がそんな事を言っていたのを思い出す。
 その時の僕はわざとらしく距離を詰めると彼女に手を回した。

『じゃあ今の内に二人っきりを楽しんどかないと』
『大丈夫だよ。あっという間に二人っきりに戻ってるって。子どもの成長は早いっていうじゃん』

 記憶の中で笑う君の手が頬に触れる。
 僕は上から手を重ね合わせようとするが、それは記憶の中でしかなかった。

「三人どころか、僕一人ぼっちだよ……」

 目頭が熱くなり、歪む視界には誰も居ない。生暖かな感覚が鼻根を横へとなぞり、目尻からシーツに滲む。
 未だに消える事の無い痛み。生傷のように残り続けそれが癒える事は無い。この苦しみから少しでも逃れたかったはずなのに、あの事故がまるで昨日のようだ。まだ陽咲がいないという現実を受け入れ切れてなくて、静まり返った家とベッドの空白を見ては実感し、心と共に泪を流す。
 僕は陽咲から目を逸らすように寝返りを打ち天井を見上げた。雑に濡れた双眸を拭うが、またすぐにそっと蟀谷へと哀情の道が描かれる。
 そして小さく鼻を啜る音さえ誤魔化せない静けさの中、僕はこれまで会っては食事をし話をしてきた彼女達を思い出していた。全員が素敵で魅力的な女性。もし陽咲より先に会っていたら、僕はあの中の誰かの隣で眠っていたのかもしれない。そう思えるような女性達だった。
 でも僕は陽咲と出会い、彼女を心から愛してる。どうしても彼女達じゃダメなんだ。陽咲じゃないとダメなんだ。
 そう。陽咲に似ていてもダメ。最初、怜奈さんからまるで陽咲といるような感覚を感じた時もしかしたらってどこかで思いもしたけど、最後にはやっぱりダメだって分かった。
 君に似た人だとか、君と一緒にいるような人だとか、君を思い出すような人だとかじゃない。君なんだ。

「君以外じゃダメなんだよ……。陽咲」

 僕の中で君という存在は余りにも大きくて、余りにも愛しくて、余りにも無視できない。他の人じゃどうしても君から視線を逸らさせる事が出来ない。
 まるで君は――そう。太陽だ。余りにも明るくて周りの星は見えない。一等星でさえ辛うじて見える程度で、到底その存在には敵わない。
 あの日の夜、家路に就きながら僕は分かってしまったんだ。他なんていない。もう僕には君しかいないって。どんな美人でもどれだけ人気のある女優さんでも、僕の中で君に勝るような女性は存在しない。
 僕はもう……君色に染め上げられてしまった。ちょっとやそっとじゃ塗り替えれない素敵な色。
 そんな陽咲が他の彼女達と近づけば近づく程、遠ざかっていくような気がする。握っていた手からするりと抜け、そのまま消えてしまいそうな。
 それが僕は怖かった。子どものように嫌だって思ったんだ。だから目の前の彼女達を無視してでもまた、その手を掴んでしまう。
 だからかもしれない。こんなにも辛いのは。未だに心に残った傷が息を吹き返しては、自分で引裂いてしまいたい程に苦しいのかも。
 家で一人過ごしている時、君を想わない瞬間は無い。家に帰りドアを開ける時、夕食の良い匂いと料理する音、そして君の一言が聞こえるかもしれないって期待してしまう。未だに朝起きたらまず、隣を見てしまう。僕の為に少し早めに起きる君の寝顔が見たくて、僕も一緒に早起きしていた。もうそんな必要も意味もないのに、まだあの時間に目が覚めてしまう。あの時と違って、そこに幸せはなくただ辛く悲痛な思いをするだけなのに……。
 いつまで経っても僕は、君のいない世界に慣れる事が出来ない。新鮮な悲愴感が胸を満たし――溺れてゆく。苦しくて、切なくて、辛くて……。
 でも僕は君を手放せない。多分、今の僕は例え君が荊棘を纏っていたとしても、手を広げ抱き締めただろう。尖鋭な棘がこの身に突き刺さるとしても。何度でも。悶える程の痛みと引き換えに微かな君を僕は求めてしまう。
 だけどもう、これ以上は……。



 僕はそっと目を閉じた。



「――もう終わりにしよう」

 あまりにも小さなその声は、壁や天井へと辿り着く前に襲い掛かった沈黙に呑み込まれてしまった。



 一秒、二秒と沈黙に紛れる僕。



「でもあと少しだけ……」