翌日。何事もなかったかのように職場で会った先輩と挨拶を交わした僕は、その日もいつも通り仕事に精を出していた。その最中、一息入れようと給湯室へ向かうと丁度、彩夏と翔琉に出くわす。

「おっ。珈琲か?」
「そう」
「じゃあついでに淹れてあげる」

 そう言って自分の分を淹れていた彩夏は続けて僕の分を淹れてくれた。そしていい香りを漂わせたカップを僕へ。

「ありがとう」

 少し遅れて僕と彩夏は珈琲を一口。

「そういや例のあれは駄目だったのか?」

 先に口からカップを遠ざけた翔琉が若干ながらニヤけた表情でそう尋ねる。あのお見合いの事だろう。

「まぁ、そうだね」
「そーかぁ。まぁ、お前はそーゆんじゃねーからな」

 天井を仰ぎながら勿体ないと言うような声を上げるも、納得したような声の翔琉。

「じゃあ。まだあたし達は用済みって訳じゃなさそうだね」

 一方でどこか嬉し気な彩夏。
 でも申し訳ないがそうでもない。

「いやぁ……」
「どうしたんだよ?」

 翔琉の問いかけを聞きながら僕は珈琲をもう一口。

「とりあえず今は、もういいかなって」

 二人は一度、顔を見合わせた。

「いいって? もう相手を探さなくていいって事?」

 どこか恐々とした彩夏の言葉に僕は頷く。

「少し時間を置こうかと思ってね」

 言い訳でもするように僕は付け足した。
 もう一度、顔を見合わせる二人。

「そう言うんならな」
「おっけー。でもまた探して欲しくなったらいつでも言ってね」

 予想以上に潔く、二人は僕の言葉を受け入れてくれた。

「うん。――それじゃあ、僕は仕事に戻るよ」

 そう言って僕はどこか拍子抜けしたように二人に伝え、先に仕事へと戻った。

 そんな一日の夕日が空を染める頃、僕はあの場所で陽咲と会っていた。最初は他愛のない話をして、それからあのお見合いの話。

「へぇー。そんな場所でご飯食べたんだぁ。いいなぁ~」

 話が始まり僕が真っ先にレストランの事を話すと陽咲は羨んだ声でそう言った。そして間を空け、「あっ!」と何かを思い出したようだ。

「あれ覚えてる?」

 あれと言われてもすぐにピンとくるものは無く小首を傾げた僕だったが、もしかしたらとあれを思い出した。

「もしかして結婚記念日の?」

 それは僕も食事をしながら思い出したあれだ。

「そうそう!」

 伝わったのがよほど嬉しかったのか陽咲はやや前のめりになっていた。

「あそこ良かったよねぇ~。料理も美味しかったし、雰囲気も良い感じで。ちょっと緊張したけど――」

 陽咲はあの日の事を懐かしそうに話していた。それを聞きながら同時に僕の脳裏でもあの夜が自動的に再生される。静けさの中に紛れるように聞こえてくる話し声と料理を楽しむ音。大きな窓の外では星空と満月が煌めき、街に灯った光が夜景を彩っていた。
 そしてテーブルを挟み向こう側には陽咲。服装にメイク、アクセサリー。いつもと違うその雰囲気に僕は少しばかり緊張し、また恋をしていた。君は綺麗だと夜景を指差すけど、僕はそんな君を見てた。弾んだ声、驚きながらも笑う表情。手を伸ばせば――その手に触れられた。
 そんな彼女は今、目の前にいて話をしてる。あの時と同じように楽し気に。
 でも今は、違う。あの時より近くにいるのに、表情の変わらぬ狐面が笑みを遮り、抱き締める事はおろかその手を握る事さえ出来ない。
 ここで陽咲と再会してどれくらいが経っただろう。最初は僅かな時間でもこうして話せるだけで救われた。彼女を失い黯く覆われた心に光が差したようで、毎日に色が戻ったようで――幸せだった。鮮やかな表情を見れなくとも、その顔に触れ、その手を握り、その体を抱き締められなくとも――構わない。ただ君という存在を傍に感じれるだけで充分。
 でもその巻き付いた制約は気付かぬ内に僕を絞め付けていた。

『結局は苦しいだけになるかもって』

 先輩の言う通りなのかもしれない。その結局がまさに僕の心を蝕んでいる。付けが回ってきた、とでも言うんだろうか。
 陽咲を見ていると段々と……。

「――ねぇ? ねぇってば!」

 思索に耽りぼーっとした僕を叩き起こすような声で僕は我に返った。覗き込む狐面と目が合うと一瞬遅れで何事も無かったかのように笑みを浮かべる。

「ん? どうした?」
「どうしたじゃないよ。ちゃんと聞いてる?」
「うん。もちろん」
「うっそだぁー。絶対聞いてなかったでしょ? どうしたの? 疲れてる?」
「いや……別に」
「そう? ならいいんだけど……。それじゃあ――」
「実は――用事があるのを、忘れちゃっててさ」

 それは気が付けば口にしていた言葉だった。自分でもどうしてそんな事を言ったのかは分からない。当然そんな用事なんてない。強いて言えばまだやらないといけない仕事が残ってるぐらいで。

「なんだ。じゃあ行かないとね。私より現実を優先しなきゃ」

 それはまるで自分がただの空想とでも言うような、どこか冗談交じりのような言い方だった。けど、あながち冗談って訳でもなさそうで、言うなれば照れ隠しのようなものだったのかもしれない。

「また来るよ」
「うん。じゃあね」
「じゃあ」

 そうやってお互いに手を振り合って別れる事で、少しだけ彼女が本当に戻って来たような気がした。いつもみたいについさっきまで楽しく話していた陽咲が嘘のように消えてしまうのと違って、本当に彼女がそこにいるような気が少しだけした。
 そして初めて彼女に背を向け僕はここまでの道へと歩き出す。いつもと違う感覚にどこか違和感を感じ、途中で一度足を止めると後ろを振り返った。そこにはまだ陽咲がいて、振り返った僕へ手を振ってくれた。
 彼女に手を振り返し、僕はそのまま家へと帰った。

 ドアを開け、踏み入れる我が家。ドアの閉まる音が鳴り響いた後、しんっと静まり返った家中はあの日から変わらない。あの場所で陽咲に会おうともこの家だけは依然と彼女を失ったままだ。
 この静寂にはまだ絶望も感嘆も淋しさも残ったまま。訴えかけるような静けさがいつでもここには広がっている。料理を作る音も隣から聞こえてくる声もない。この沈黙と静寂が、僕に囁くんだ。もう陽咲はいないって。さっきまで話をしていたはずなのに……耳に残る陽咲の声。惨酷な現実と幸福な理想の狭間にいるような気分だ。
 それは陽咲を失った直後に似ていた。まだ陽咲の温もりがあるのに、もうそこに彼女は居ない。それは砂漠の様に喉が渇いた状態の中、目の前で美味しそうに水を飲まれているような苦しさ。もし自分ごと世界を消してしまえるボタンがあったのなら何の躊躇も無く押してしまえるぐらい僕は打ち拉がれていた。
 それを呼び起こすかのように帰宅した家は静まり返っている。
 でも今日は特段と胸が苦しい。というよりさっきまで陽咲を目の前に感じた結局の鼓動をより強く感じる。咄嗟に胸を抑えるけど、そんなの何の意味も無い。
 僕は虚しくも苦しい気持ちを抱えたまま寝室へと行くとスーツを脱ぐためにクローゼットを開けた。そしてスーツを脱ぎ仕舞うと取り敢えずの部屋着を身に着ける。
 そしてそのままクローゼットを閉じようとしたその時。僕はふと目に入ったそれに手を止めた。
 それは未だに片付けられてない陽咲の服。僕は適当に掻き分けながらその数々へと目を通していった。

「これ、よく着てたやつだ」

 彼女のお気に入りの服だ。普段からちょっと外に行く時も着てたっけ。

「うわっ! これあったなぁ」

 それはデートの時にたまたま入ったお店で陽咲が一目惚れして買った服で昔はよく着てた。