そして僕の知らないとこで着実に進んでいたお見合い話は、遂にその日を迎えた。結局、先輩が忘れたお陰で僕は相手の顔を知らぬまま指定された待ち合わせ場所で、いつものとは違うスーツ姿を身に纏い僕は立っていた。

「はぁー」

 これから行き慣れてないようなレストランへ行き、上司の上司の友人の娘さんとお見合い。考えるだけで溜息が零れてしまった。緊張と色んな事に対する不安が混じり合い最早、良く分からない。

「蒼汰さん」

 すると聞き慣れない声に名前を呼ばれ、僕はその声の方へと顔を向ける。
 そこには一人の女性が立っていた。立ち姿から指先に至るまで意識の行き届いた綺麗な立ち姿。行き交う人々からは少し浮いたドレスコードに身を包んでおり、一目で彼女が相手の人だと分かった。

「榊さん……ですか?」

 あっちは僕の顔を知っていたようだけど、知らない僕はつい確認する返事をした。

「怜奈でいいですよ」

 優しく柔らかな声が少し笑い交じりに言う。

「はい。あっ、初めまして。旭川蒼汰です」

 緊張も相俟って固くなっているのが自分でも分かり、恥ずかしい。
 でも榊――怜奈さんはそんな僕に上品な笑みを零し、既に楽しそうにしてくれていた。

「初めまして、榊怜奈です」

 遅れて綺麗なお辞儀をする怜奈さん。
 一秒。二秒――彼女の頭が上がってからもお互いに黙りっぱなしで僕らの間には何とも言えない空気が生まれつつあった。

「それじゃあ行きましょうか。車が待ってるので、レストランまではそれで」
「はい」

 緊張でまだ微かに強張った声で返事をすると、怜奈さんの後に続きすぐ傍に停まっていた黒塗りの如何にもな高級車へ。僕らが乗り込むと運転手にしては齢のいった男性がゆっくりと車を発進させる。運転手付きの高級車。予想以上に凄い人だと再認識した僕の緊張は更に高まり、レストランまでの数十分、車内は殆どが沈黙に支配されていた。
 それからレストラン『ベル リュンヌ』に到着するが、これまた人生で来たことも無ければ来る予定も無いような場所が僕を待ち構えていた。思わず外観で既に圧倒されてしまう僕。

「行きましょうか」

 そんな僕を怜奈さんの声がリードする。

「すみません。僕、こういう場所には不慣れで」

 車からお店までの短い道中、僕は若干の情けなさを感じながらも余りにも余裕がなく、つい正直に怜奈さんへ本当の事を言った。ここまでで既にそれを隠して手慣れた雰囲気を醸し出すにはあまりも異世界的過ぎたから。どう思われようと正直に言っておくことにした。後は、怜奈さんに恥を掻かせないように努力するだけだ。
 でも怜奈さんは最初と変わらず優しく柔らかな笑みを零す。

「大丈夫ですよ。気にせず楽しんで下さい。って正直に言って私もあんまり慣れてるという訳じゃないんですけど」

 どこか恥ずかし気な怜奈さん。
 ここは男らしくリードして――なんてものはお店へ入る前から捨て去った僕は完全に怜奈さんに頼りっきりで初めての高級レストランの席へと着いた。情けない話だけど、当然ながら注文も全て任せっきりだ。
 初めてのフレンチレストランで、僕とは雲泥の差と言ってもいいような女性とお見合い。終始、緊張しっ放しで色んな事に気を遣って料理の味なんて微塵も分からないんだろうな。そんな事を思いながら始まった食事。
 でも最初に感じた通り彼女が柔らかで優しく、こんな僕との食事を楽しんでくれてるからだろうか。いつしか僕も自然と緊張が和らぎ変に何かを気にする事無く、楽しむことが出来た。
 更に不慣れな僕を理解してくれてるのが伝わり、食べ方が分からない料理に関しては視線で真似るように言い一歩先に食べ始め教えてくれた。

「それ私も知ってます」
「本当ですか? あれ面白いですよね」

 しかも彼女は僕が想像していたようなお嬢様というよりごく身近な一般の人に近く、変にズレが生じることも無かった。むしろ映画やドラマなどは合う部分も多く、自然と弾む会話。それは身構えていた僕の意表を突くかのように有り触れた――親近感の湧く話題ばかりだった。

「何だか怜奈さんって思ってたよりも普通なんですね」

 当然ながら僕は誉め言葉のつもりで「普通」と言ったんだけど、耳に入って来た自分の声でハッとした。それが自分の意図したように聞こえないかもしれないと気が付いたから。だから慌てて訂正しようとした。
 でもそんな僕を抑え付けるように怜奈さんの返事が一足先に返ってきた。

「ガッカリしました?」

 少し揶揄うような微笑みを浮かべた怜奈さん。その表情のお陰で僕の中にあった焦りは静かに身を顰めていった。

「いえ、もっとこう……違うのかなって思ってたので。ちゃんと話が出来てむしろ安心してます。知らない話ばかりだったらどうしようって思ってたので」
「別に私はお嬢様じゃないですよ?」

 そう言って「ふふっ」と口元に手をやり上品に笑うその姿は、どこか陽咲を髣髴とさせた。ほんの一瞬だけだけど、それが何故だかは分からない。
 でもその一瞬だけで僕は懐かしさと恋しさに心を僅かに締め付けられるのを感じた。結婚記念日に(ここまでじゃないけど)良いレストランに行って、こうして向かい合って食事をしたことがある。いつも綺麗なのに着飾った陽咲は夜景なんて見えないぐらいに――。

「――蒼汰さん?」

 怜奈さんの声に名前を呼ばれ、僕はハッと我に返った。

「どうかしましたか?」
「……いえ。何でもないです」

 それからも僕はフレンチのフルコースを最後まで楽しむと同時に、怜奈さんとの会話もまた同じように楽しんだ。こんなに緊張するような場所で食べると言う動作にでさえ意識を向けなければいけない中、僕がこれだけ楽しめたのは彼女のお陰なんだろう。そういうとこも含めて怜奈さんという女性は、素晴らしい人だった。
 柔らかで品のある笑みで良く笑い、穏やかな雰囲気はこっちまで心安らぐ。会話はどれも興味の糸を巧みに手繰り寄せるような話をしてくれたり、一方で僕が話をすれば次から次へと言葉が溢れ出してしまう程に気持ち良く聞いてくれた。
 それは怜奈さんとの食事の最中、彼女を思い出してしまったからだろうか。それとも本当にそうなのか。怜奈さんはどこか陽咲に似ている気がした。心のどこかで陽咲を思い出し、一緒に食事をしてるような……そんな感じがした。そんな曖昧な感覚がそう感じさせたのか。それとも怜奈さんの僅かに陽咲を髣髴とさせるとこから、僕が勝手に繋げてしまったのか。
 どうなのかは分からないけど。

「本当に大丈夫なんですか?」
「はい。散歩がてら少し歩きたい気分なので」
「それじゃあ……今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「僕の方こそ、楽しかったです。ありがとうございました」

 怜奈さんに続いてお辞儀を返す。顔が上がり目が合うと、怜奈さんはテーブルを照らすキャンドルのように優しい笑みを浮かべた。

「では、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」

 最後の言葉を交わすと彼女は、ここまで来た車へ乗り込んだ。
 そして車が走り去るのを見送り僕は歩き出す。無数の星の中でたった一つ、替えの効かない満月に照らされながら今夜の事を思い出し、僕は帰路に就いた。
 もし陽咲に出会ってなかったとしたら。僕はこのお見合いに心を踊らせていたかもしれない。怜奈さんと一緒になれば逆玉なんて事は関係なく、ただ純粋に楽しくて――何より居心地が良かった。例え居酒屋でも屋台だとしても、ファーストフード店でさえも同じだと思う。
 これまでの誰よりも怜奈さんには心惹かれ。
 これまでの誰よりも緩んだ気持ちで楽しめ。
 これまでの誰よりも――陽咲に似ていた。
 そう。陽咲に似ていたはずなのに……。