「えっ?」

 そんな沈黙の中を一瞬だが彩夏の声が駆け抜ける。

「――いやいや」

 それから僕を除く三人の声が合わせたように綺麗に揃い響いた。
 そして代表して彩夏が叫ぶ。

「聞いてないですよ!」
「別に訊かれてないし」
「え? あ、相手は誰なんすか?」

 戸惑いを隠せない翔琉の声は若干ながら震えていた。

「誰って。三つ年下の奴」
「何してる人なんですか?」
「んー。画家兼イラストレーター? アタシは違いとか分かってないけど、本人はそう言ってるかな」
「じゃあもしかして、絵を描くための別荘とか――」
「ない」

 どこか期待交じりの圭介に対して先輩は喰い気味に否定した。

「ふつーに家で仕事して――まぁ、ついでにちょっとした家事とかやってくれてるって感じ。後は、アイツの趣味でもあるし料理は作ってくれるかな」
「もしかして僕らが入社する時にはもうそうだったんですか?」
「そう」
「何で言ってくれないんすか!」
「別に訊かれてないし」

 依然と驚きを隠せない僕らの質問攻めに対し淡々と答えていく先輩。
 すると残りのお酒を呷りグラスを叩きつけるように置いた彩夏が先輩を突き刺すように指差した。

「おかしい! だって先輩は仕事一筋で恋愛なんて興味ない、休日だって結局は寝て過ごして、気が付いたら取り返しのつかない年齢まで独身だった。って感じじゃないですか! そんな先輩が結婚だなんて!」

 そのまま宇宙まで飛んでいけそうな酔いの勢いに任せ放たれた言葉の数々。それは決して怒声という訳ではなく、酔っ払いのウザ絡みと言うのが近い気がする。
 だが僕ら三人は止めに入る訳でも茶化し場を和ませる訳でもなく、なるべく音を立てぬように二人を交互に見ては事の展開を見守った。

「アンタ――。明日から残業ね」
「絶対、あたしが先に結婚するって思ってたのに……」

 静かに仕事倍増の刑を言い渡された彩夏だったが、(聞いてないのだろう)倒れるように座ると突然、テーブルに突っ伏し涙声で呟いた。
 かと思えば又もや突然、顔を上げた。その表情はぽかぽかとした春陽のように穏やかな笑み。最早、彼女の心情を理解するのは不可能だった。

「そーいえば先輩って昔、ショートだったんですよね? その時の写真とか無いんですか?」
「ない」
「えー! 彩夏見てみたぁーい!」

 何故か普段の合コンで使う声と口調をし、甘えた上目遣いで先輩へねだり始めた彩夏。
 そんな彼女をただじっと見ながら先輩はお酒を呑んでは枝豆を口へ運ぶ。その無言のまま進んでいく時間はもう二度と音は帰ってこないと言うようだった。

「何か言ってくださいよ」

 だが痺れを切らした彩夏が責任を取ってと言うべきか、再び会話をこの場へ戻した。

「イラつくわ」

 そして枝豆を口に入れる合間の一言がそう告げた。

「あっ、そーいえば」

 すると一緒になって沈黙に溶け込んでいた圭介はそう声を零し、スマホを手に取り弄り始めた。

「流石に先輩のはある訳ないけど、彩夏の昔の写真なら持ってるぜー」

 そう言って僕ら三人へスマホの画面を差し出し見せた。

「は? ちょっ――」

 透かさず慌てた彩夏が手を伸ばすが、一歩先に翔琉がスマホを手に取った。僕と先輩は翔琉へと身を寄せ、その写真へと視線を落とす。
 そこに映っていたのは、絵に描いたヤンキー姿の彩夏。それはもう漫画で見るようなヤンキー姿。

「気合入ってるなぁ」
「それ中学――って!」

 圭介の言葉を遮り見ずとも分かるぐらいで響いた彩夏に叩かれる音。

「はぁ? 何勝手に見せてんのよ!」

 更にもう一発。さっきの先輩への声とは異なり明らかに苛立っていた。

「別にいいだろ。昔のなんだし」
「こんな如何にもなヤンキーって今時いるんだ」
「そうですよね。でも僕は何だか似合ってる気もするなぁ」
「まぁオレらのとこは結構な田舎だったってのもあるかも」
「あるかもじゃないっての!」
「いてーって! それはいてーって!」

 チラッと顔を上げてみると丁度、彩夏が圭介に対しヘッドロックを決めてるとこだった。

「おっ」

 弾んだ翔琉の声に再度スマホへ視線を落としてみるとそこにはさっきとは打って変わり、制服姿にロングヘアの彩夏が映っていた。全体的に控えめで清潔感がある所謂、清楚系ってやつだと思う。にしてもさっきのを見た後だからか一瞬、誰だか分からない程の変貌だ。

「なぁ、これは?」

 そう尋ねながらスマホを見せる翔琉に、彩夏は一度手を止め二人の視線が同時に向いた。

「それは、高校一年の時」
「てか何でそれもまだ持ってんのよ!」

 そして再度、締められた圭介の苦しそうな声が部屋へ響いた。それからすぐにテーブルを何度か叩くギブアップの合図にしょうがないと言った雰囲気で彩夏は彼を解放した。
 少し咳をしながら息を整える圭介とお酒を呑む彩夏。

「ちなみにその次が中学どヤンキーからの高校は清楚系になろうとしたこいつの最終形態」

 まだ懲りてないのか圭介はスマホを取ると画面を操作しながらそう言いもう一枚を見せた。直後、無言で横から飛んで来た手に頭を叩かれたのは言わなくてもいいだろう。
 そのスマホに映っていたのは、今の彩夏から容易に想像できる高校時代といった風貌の彼女。

「あーあ。折角の酔いも醒めちゃった。それもこれも全部、兄貴の所為だわ」
「こいつアニキの影響であんな感じになってたんだよな」

 過去の過ちを消し去る。そんな勢いで彩夏は酒を呷った。

「はぁ~あぁ~。でも先輩はいいなぁ。この後、家に帰ったら愛しの旦那さんが帰りを待っててくれてぇ」

 少し口をすぼめながらも夢見る少女のような表情を浮かべた彩夏。

「あたし達なんて家に帰っても、待ってるのは真っ暗で静まり返った部屋ですよ? 冬はやけに冷えてるし」
「あぁー。なんかテンション下がってきたわー」

 彩夏の言葉と溜息に釣られ隣で翔琉も大きな溜息を零した。二人の吐き出した哀愁の分、重くなったようにも感じる空気。
 だがそんな中、一人だけ動じず――むしろ勝ち誇った表情をしていた圭介は悠々と彩夏の肩へ叩くように手を置いた。

「帰りを待ってくれてる人がいるっていうのはいいぞ」
「うっさい変態」

 切り捨てるような言葉と共に払い除けられた圭介の手。

「誰が変態だ!」
「待ってくれてる『人』じゃなくて『植物』でしょーが」
「だとしてもオレは変態じゃねー」
「あんだけ大量の観葉植物持ってて、しかも一個一個に名前付けてるってだけで十分変態でしょうが。しかも全部、女の名前だし」
「謝れ! それは世界の観葉植物愛好家に! 名前ぐらいいいだろ。それだけ愛情注いでるんだよ。植物だって生きてるんだ!」
「確かに謝らないと。植物に読み聞かせして、一緒に映画見て、毎日それ相手にしゃべって、変態に失礼かも。あんたはそれを通り越して異常だもん」
「お前は分かってないんだ。一人一人に毎日のように愛情を注げば心が通じ合うんだよ。人と植物なんて壁は愛の前では発泡スチロールだ」

 目を瞑り悟りでも開いたような穏やかな表情でそう語る圭介から感じたのは真っすぐな想いではあった。

「キモっ。あんたまさか植物相手にそういう事までしてないわよね?」
「は? 何だよそういう事って?」

 そんな圭介に言葉の代わりにジェスチャーで伝える彩夏。わざわざ説明されるまでもなくそれだけこの場の全員が理解できた、シンプルな手銃のジェスチャーだった。

「す、するか! 止めろ! そんなんで汚すな!」
「そこまでだったら流石に引いてたわ。良かった。これからもあんたと友達って隠さずに済んで」
「大丈夫。俺はそんな癖があってもちゃーんと友達って言ってやるからな」
「いや、だからねーんだって」
「まっ、そんなどーでもいい事はどっかに捨てて――実際どうなんですか?」

 お酒を片手に大袈裟なジェスチャーで話を終わらせた彩夏は、少し前のめりになりながら先輩の方へ向いた。