あれから僕は毎日のようにあの場所へ通った。仕事の所為で行けない日もあったが、出来る限りあそこを訪れては彼女と言葉を交わした。その日の事を話したり、想い出話をしたり。色んな話をした。話せば話す程、想い出話をすればする程、まるであの日々に戻ったように感じる。いや、この場所で陽咲と話している間はそうだ。あの日々となんら変わらない。
 でも沈む夕日と消えていく彼女を見てると思う。彼女のいなくなった世界で独りぼっちになると思う。間違いなく、あの頃とは違うって。確かに陽咲は……。夕焼けの余韻を眺めながら――あの幸せな時間の余韻の中、たまに泪が零れ落ちる。家に帰った時の静寂が、たまに心を締め付ける。
 それでも陽咲と話しが出来るあの時間は特別だ。一日の中では誤差程度の時間かもしれないけど、僕にとってそれは人生を支える程に大切な掛け替えのない時間。
 改める必要なんてないけど――改めて思う。僕は心の全てで陽咲を愛してるんだって。
 だからこそちょっと辛くなったりもする。でも――僕は今、とても幸せだ。陽咲に会って、話が出来るってだけで人生に光が差す。例えそれがほんの少しだっとしても、強い――太陽のような光が僕を照らしてくれる。

「蒼汰~。今日、呑み行こーぜー」

 今日も僕はあの時間に間に合うようにと仕事へ取り組んでいたんだけど、少しだらけた声と共に翔琉はそうやって肩を組んできた。

「あぁーっと。今日は早く仕事終わりそうだし――ごめん」
「早く終りそうだから行くんだろぉ。その分、呑めるし」

 少し口を尖らせる翔琉。
 当然だけど陽咲の事は誰にも言ってない。言っても信じて貰えないっていうのもあるけど、誰にも言いたくないってのがどこかにあるのも確かだ。独り占めしたいような気持ちがそこにはあった。

「行きたいとこがあるからさ」
「んー。まぁ……ならしょうがねーか」

 すると、丁度そのタイミングで僕らの傍を通りかかった女性が一人。

「あっ! えりちゃーん! 良かったら今日呑みにどうっすか?」

 その陽気な声に足を止めたのは、真白絵梨香さん。僕と翔琉の教育係だった人――つまり僕らの上司だ。凛とした顔付きで髪型はいつも後ろで結んでる。

「まぁ、アンタの奢りなら考えなくも無いかな」
「えぇー。俺、可愛い後輩ですよ? こういうのってむしろ先輩が奢ってくれるんじゃないっすか?」
「じゃあ行かない」

 あっさりとした口調でそう言うと先輩はそのまま歩き出そうとした。

「あぁ! ちょっと待って下さい!」

 だがそれを慌てた翔琉の声が止める。

「分かりましたから。奢りますって」
「それじゃあ付き合ってあげる」

(冗談交じりだろうが)仕方なくと口調で言った先輩の視線はそのまま僕の方へ振ってきた。

「蒼汰、アンタと呑みに行くのも久しぶりね」
「いや、僕はちょっと……」

 勘違いとは言え先輩のその言葉を訂正するのはどこか気が引けた。多分それは会社に復帰してから気を遣ってくれて何度かしてくれた食事の誘いを断っていたからだろう。

「あぁそうなんだ。てっきりね」
「すみません。今度はご一緒させてもらいます」
「気にしなくていいって。いつも言ってるでしょ? 行きたければ、もしくは行けるなら行けばいいって。そこまで優先する必要なし」
「いやいや。僕も先輩と行きたいって思ってるんで、また今度」

 すると先輩はじっと僕の顔を見続けた。何も言わずに。少しの間、言葉を待った僕だったが続く沈黙に思わず顔を苦めた。

「――アンタ最近、随分と元気になったよね。安心した」

 そう言って先輩は僕の肩を軽く叩いた。自分では良く分からないが、傍から見ればそうらしい。
 悩むまでも無く理由は思い浮かんだ。でもそれを口にする事は無かった。

「心配掛けてすみません」
「何言ってんの。そんなの気にする必要ないって。まぁでも良かったよ」

 つくづく僕は運が良くて縁に恵まれてると思わせてくれるような優しい笑みを浮かべた先輩。
 そして顔を隣の翔琉へ戻すと僕より少し強めに肩を叩いた。

「仕事終わったら声掛けて。んじゃ」

 それを言い残し、先輩は仕事へと戻って行った。

「そんじゃ、俺もチャチャチャっと終わらせてくるわ」

 翔琉は言葉の後、「次は逃がさねぇからな」と冗談交じりに言うとそのまま先輩同様に仕事へと戻った。

「よし。僕も頑張ろう」

 その後姿を見送ると一人呟き気合を入れ直した僕は、残りの仕事へ立ち向かう。

 すっかり見慣れた夕焼け景色は相変わらずで、まるでいつ帰っても変わらず受け入れてくれる故郷のよう。
 でも最初と同じだけの感動はもうそこには無い。だけど何度も繰り返し目にしているからこそ感じるモノもある。それは最初には無いモノだ。

「しょっちゅうここに来てくれるのは嬉しいけどさ。例えば翔琉くんとかとご飯行ったりしないの?」

 丁度、今日誘われてそれを断ってここへ来た。僕は心を見透かされた気持ちのまま僅かな吃驚で少し黙り込んだ。自分を見つめながらも何も言われない僕に彼女は小首を傾げる。

「……いや。丁度、呑みに誘われたんだよね」
「断っちゃったの?」

 少し眉を顰めながら僕を見る彼女の双眸。僕はここにいる事が答えだと言う言外を含み控えめに肩を竦めて見せる。

「もぉ~。行ってきなよ」

 その呆れ声を聞きながらそっと手を下ろした僕は、記憶を刺激される既視感を感じていた。

「前からそうだったよね。仕事が終わったら一直線に帰ってきて。私はもっと呑みに行ったりしてもいいのにってよく言ってたっけ」

 その陽咲の言葉はつい先程の感覚を的確に説明してくれていた。
 生前の頃から僕は仕事後に呑みへ行き、夜遅く帰るなんて事は殆ど無かった。それどころか呑みに行くのもたまに程度。会社のみんなもそれを分かってるから、断られるのを承知で誘ってくれる。
 もっと呑みに行って遅くなってもいいんだよ、そんな僕に陽咲はそんな事を言ってくれた事があった。きっと無理してるんじゃないかって心配してくれてたんだと思う。呑みに行き過ぎて奥さんに怒られたなんて話を聞いた事あるけど、僕はその逆だ。行かな過ぎて心配されてしまった。

「でも僕は、陽咲と一緒に食べるご飯が好きだから。これが終わったら陽咲の待ってる家に帰って、一緒に食事して、一緒にゆっくりして。そう思ったら仕事頑張ろうってなるんだよね」

 僕にとっては無理してるどころか心から望む日常。想い出となったそんな日々を視線は空を眺めながら見ていた僕は、言葉を言い終えると共に顔を隣へ。
 陽咲からの返事は無かったが、顔を俯かせた微かに身を左右へ捻らせていた彼女。相変わらず狐面でその表情を見る事は叶わなかったが、何故か透けて見えるように分かった。頬を染め面映ゆそうにした愛らしいその表情が。

「……で、でも。――今と前はもう違うんだから。私はそーゆーのを優先して欲しいかな」

 その声はどこか寂しげで……目の前にいるのに彼女はもうそこには居ないんだって不意に思わされた。

「だから今度はちゃんと行って楽しんできてね」
「……うん。そうだね」

 不意に突き刺さったどうしようもない現実に、僕は作業的に返事をするので精一杯だった。
 彼女と交わす会話はあまりにも自然で、その間はつい忘れてしまう。でも同時にこの場所で話していると思い出す。あの日々や、初めて恋をしてるって気が付いた時の事。そして彼女と一緒に居続け、愛し続けたからこそ溢れ出し感じる気持ちを。
 それは懐かしくもどこか寂寞とし、自分でもどんな気持なのかハッキリと分からない複雑な感情で僕を包み込んだ。