「ミラさん、どこへ?」

 青果店の前を通ると、タリムが声をかけてくる。だが、ミラは答えず、まっすぐ歩いて行く。周りをさえぎるように、うつむき、黒く長い髪を垂らす。
 下から見上げるミラは、目を凝らし、薄めの唇を引き結び、それでも、強く前を向こうとしている。
 ソーイチは見上げるのを止めると、同じように顔を前に向け、開発局を見据えた。

 切り裂く音が頭上をかすめる。止まり、身をすくませている。抱きしめられる力が強くなる。音が少し離れると、息を吐き、また歩き出す。止まるたびに荒く息を吐く。だが、ソーイチは見上げることなく、そっと前足に力を入れ、ミラの手を握る。するとミラは再び歩き出す。

 何度も、何度も、立ち止まり、歩く。

 人々のざわめきが途切れる。二人は長く息を吐くと、左右に長く広がり、そびえ立つ建物を見上げた。通りを渡れば開発局である。二人とも、事故以来この通りを渡っていなかった。
 そわり、と背が寒くなる。

「ミラ、オレ、震えてるぜ」
「おんなじだ」

 目を合わせ、クスリとほほえみ合う。強い光を目に宿しあうと、二人は前を見た。

 一歩、足を踏み出した。
「よし、行けたぞ」

 頷くと、ミラはまた一歩踏み出した。
「その調子だ」

 また一歩、また一歩と足を踏み出す。リズムは悪く、ぎこちない。
「止まってもいいぞ。一度呼吸を整えよう」

 肩で息をし始めたミラに言う。ミラは大きく息を吐くと、再び一歩、足を踏み出した。

 この町にいながら、ここにだけは背を向けるように過ごしてきた。
 約束されていた未来は幻だと、宣告されたところである。霞が消えたその後に残ったのは、味覚を失った思い人と、猫にやつした自分だった。以来、痛む傷にただ覆いを被せ、やり過ごしてきた。
 共に向き合える日が来るとは、思ってもいなかった。

「ミラ!」

 道半ば、ミラがぐらりと揺れる。額にじわりと汗を浮かべ、うつろになり始めた目を、歯を食いしばり元に戻そうとしている。

「ミラ、ここまでこれたぞ! あと少しだ」
 声を張り上げる。一緒に長く息を吐き出す。少し目がしっかりしてくると、ミラはまた歩き始めた。

 残り三歩。
 二歩。

 道の端に着いたとたん、ドサリとミラが座り込む。荒く肩で息をしながら、ミラはほほえみ返した。

「渡れたね……」
「ああ……。渡れたな」

 にじんだ汗で、額に前髪が張り付く。薄めの唇には照れくさそうに笑みをのせ、荒く息をしているせいか、甘く優しい香りが体中から立ち上っている。その一つ一つがたまらなく、ソーイチは抱きしめられた腕に頬をすり寄せ、香りを胸一杯に吸い込んだ。

「下ろしてくれ。ここからはオレが行くから」

 ゆっくり頷くと、腕の力を緩め、そおっと地面にソーイチを下ろす。ズキリ、と鈍く痛みが走った。のぞき込むミラに「大丈夫」とつぶやくと、ソーイチは背筋を伸ばし、きちんと座り直した。

 じっと、見つめる。
 ミラの膝に手を置くと、そのまま伸び上がった。
 
 ひげがくすぐったくても、かまわない。

「ありがとよ」

 ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべると、左足を少し引きずりながら、ソーイチは階段を駆け上がった。