無頓着にカチリと前歯にはめ込む。すると、深くしわが刻まれた顔が心持ち伸びる。ソーイチは一瞬身を縮めた。歯を調えた顔は引き締まり、眼光鋭くザイルを見据えたからである。

「お前は……、相変わらずだな」

 初めて聞くまともな言葉に、毛が逆立つ。しわがれた低い声は、むき出しの心をざらりとなで上げる。背に置かれた手に、さらに体が縮こまった。

「あちらこちらと機を見るのに敏で……。おかげで、あの頃は相手方がよくわかって助かったよ」

 低く、落ち着いた声は部屋を支配する。じわりじわりとゆっくりと締め上げるような威圧感に、ザイルはいびつな形の左手を握りしめていた。

「だがその分、どうもお前は腹がない。ここ一番の作戦では、いつも危ういところで押された」
「それは今、関係ないだろう!」

 抑えていた声を張り上げてしまい、イシリアンテ兵がさっと身構える。同時に窓の外にいたアグノゥサ人が立ち上がった。
 老人が窓の外に目配せをすると、気まずそうにザイルが座る。イシリアンテ兵が警戒を解くのを見て、アグノゥサ人もまた座り込んだ。
 ザイルが唇を湿らせた。

「小国というのは、周辺国とうまくやっていかなくてはいけない。腹黒い、小ずるいと思われても、国を保つためにはそうしなければならないんだ」

 五十年の苦労をしわに寄せ、ザイルはじっと自身の左手を見つめている。その労をねぎらうようにソーイチの背をひとなですると、おもむろに老人は口を開いた。

「わしはあれ以上、争い事を見るのは嫌だった。その上、イシリアンテが示してくる条件に、ただ頷くしか選択肢がないことにもうんざりだった。それを全てお前に押しつけて、ここで見張るという形を取り、体よく逃げた。……それは、すまないと思っている」

 つらそうに顔をゆがめる老人は、少々明るさを含んで言った。

「そこのヤツらは、なかなかイイ奴ばかりでなぁ。最初は気味悪がるんだが、だんだん打ち解けてくると楽しいもんだ。なぁ?」

 同意を求めるようにソーイチの背をなでる。目を激しくしばたたかせながら、取りあえず「ニ……ニャア」と鳴いておいた。

 老人は居住まいを正すと、言った。

「わしにお前の苦労がわかるとは言いがたい。だがな、イシリアンテと交渉もせず、さっさと次の取引相手を捜す腰の軽さは、いかがなものかと思うぞ」
「取り付く島もあるものか! うまく流れに乗って、流されていくのが小国の生き方だ!」

 叫び、息を荒くつく。老人はニヤリと笑みを浮かべ、ザイルをねめ上げた。

「お前も一国の主なら、そこのヤツらを巻き込んで、一旗揚げるくらいの気概があってもいいんじゃないか?」

 さっと血の気が引いた。手の置かれている辺りがキュウッ、と勝手に縮こまるのが、わかる。さっき見た、前歯の奥に潜む闇が迫るように思えた。
 顔を上げることもできないソーイチは、ちらりとザイルをうかがう。やはり同じように顔色を失い、乾く唇を何度も舐めていた。