老人がぱたりと扉を閉めたとき、既にザイルは慣れた手で、テーブルにあった紅茶を注いで勝手に飲んでいた。喉が渇いていたのだろう、ポットから注ぐ音がくり返される。
 ここは老人が一人で住んでいるようだった。
 扉から入ったそこは、リビングとダイニングを兼ねた、こぢんまりとした部屋である。左手奥がキッチンで、扉のそばには二階に上がる階段があった。
 何の飾り気もない室内は、意外にもあの煙草の匂いは染みついておらず、ソーイチは深く息を吸い込んだ。

 テーブルを挟んで向かい側に老人が座る。二人はあえて、窓から見えるように座っていた。

「マルコ、あの白紙は何だ? どういうつもりだ?」

 声は落としている。窓の外では、数人のアグノゥサ人が、窓を背に長いすを引き出し、のんびりと紅茶を飲み始めている。それを挟んだ向こう側から、イシリアンテ兵がこちらの様子を背伸びしてうかがっていた。
 マルコと呼ばれた老人は特に返事もせずに、ソーイチの背をなでている。逃げ出してもいいのだが、なぜかがっちりと体を押さえ込まれているのと、好奇心が勝った。ソーイチは「大人しい飼い猫」を演じていた。

「取引相手が変わるだけだ。相手は今、世界最高峰の宇宙開発国だぞ。どうせイシリアンテはここを引き払うとき、設備の解体もこちらに押しつけてくる。それなら、そっくりそのまま向こうに引き渡して、今まで通り使用料を払ってもらえば、丸く収まるじゃないか」

 ソーイチのひげがピクリと動く。〝相手〟はすぐにわかった。イシリアンテが三年間手をこまねいていた間に追い抜いてきた、最大のライバル国だ。移転の話が出てから、そのようなことを考えていたのか。――なかなか、したたかじゃねぇか。ソーイチはあざ笑うかのように鼻を鳴らす。だが、今ひとつの疑問が頭をもたげた。

「私は公主となり、政治的駆け引きにうんざりしていたお前は地に潜った。だが、お前の言うことじゃないと聞かないっていうアグノゥサ人は、まだたくさんいるんだ」

 そういえば、とソーイチは記憶を巡らせた。
 公国ができる前夜、最後まで抵抗を試みていた反イシリアンテパルチザンには、二人のリーダーがいた。ザイルの話からすると、そのうちの一人が、今自分を膝にのせている老人だということになる。

(このじいさんが……)

 眉一つ動かさず、むしろぼんやりと聞いている老人を、ソーイチはおそるおそる見上げる。
 すると老人は懐から何かを取り出した。

(い……入れ歯!?)