ミラがタマネギを刻んでいる。
 あれ以来、毎夜病院の裏手にいき、祈りを捧げていた。浅黒い肌で目立ちはしないが、目の下にはうっすらとクマができている。ソーイチは店の仕事に支障をきたさないのであれば、と黙認していた。

(少しでも向き合う気があるなら、それもいいさ)

 この町にいながら、開発局の動きは腫れ物に触るように過ごしてきた。それが、祈りを捧げるほど関心を持てるようになったのである。かなりの進歩だ。

 今は何も手伝うことがないため、ミラに一声掛けると、ソーイチはいつものように屋根に登った。

 日はだいぶ昇ってきた。そろそろこの時間でも汗ばむような季節を迎える。目抜き通りには時折、トラックが往来していた。いつもの、商品をのせたトラックではない。黄土色のテントで覆いつくした、ものものしいトラックである。

 見上げると、目の前には発射台が見え隠れする。いつもは鉄骨があるだけなのだが、今は鉄でできた指先に、白い船体を抱き始めていた。清らかな女神のようにすっと立つそれは、自らが乗り込んだときと型は変わっていない。自然と背にぴしりと何かが入り、肩が引き下がる。あごを引き、まっすぐ前を見つめた。

「いよいよか……」

 自分が乗り込んだロケットが爆発して三年。
 それ以来、この発射台に有人ロケットが立つことはなかった。――この体ではもう、搭乗はかなわない。それでも、あそこにロケットが備え付けられると、身が引き締まり、胸が躍った。

 視界の右下が目に留まる。町全体が、静かに興奮に包まれている中、相変わらず白い煙がもくもくと噴き上がっている。ソーイチはゆっくりとそばに寄った。
 煙を避けて下をのぞき込むと、老人は空と開発局をながめながら吹かしていた。驚くほどに無口で、声らしい声を聞いたのは、この間笑ったときの声が初めてだ。細かなしわの動きや目の動きでしか判断がつかない。それでも心の内を知るには、情報は乏しい。ソーイチはぐいと身を乗り出した。

「やべぇ!」
 
 ぐらりと身が地に引かれる。左足をばたつかせて重心を変えようとするも、既に体の半分は屋根を越えていた。一瞬、宙を舞う。猫の性で、くるりと一回転し、ケガもなく着地はできた。が。

「え?」

 すとん、と着地したところがやけに柔らかい。地面とは雲泥の差だ。足の下に広がるのは、乾いた砂地ではなく、暑さをのがすように作られた、風をはらむ服。どこかで見た覚えがある。
 すると、頭上からもわっと匂いが降りてきた。草をいぶし、濃く渋く、辺りを濁らせ、塗りつぶしたような匂い。

「まさか……」

 顔を上げたソーイチはのけぞった。端に、飾り程度の歯がある空洞。顔の右側にみっしりとたたまれたしわ。
 あの老人が、歯の抜けた口でニヤリと笑い、見下ろしていていた。

(どうしよう。一番始末の(わり)ぃところに落ちたぞ)

 老人は特に何もせず、ただ笑いかける。ぽっかりと空いた歯茎の奥にある、暗闇の迫力に押された。一歩も動けず、毛の中を冷たい汗が流れていく。

 その時、背後から別の黒い影が膝を覆った。

「マルコ……!」

 老人が視線を上げるのに合わせて、ソーイチも振り返る。そこには恰幅のよい老紳士が、顔色を失ってこちらを見下ろしていた。水煙草のパイプは手にしておらず、取り巻きの黒服すらいない。
 イシリアンテ兵があわてて後を追いかけてきたようで、「そこにいればいいだろ!」とザイルは吐き捨てていた。
 ザイルの後ろを一巡見渡した老人は、ソーイチを抱くとそのまま立ち上がった。

「ちょっと、じいさん……!」

 思わず小声でつぶやいてしまい、はっと口をつぐむ。聞こえないのか、老人はかまわず、ソーイチを抱き上げたまま、後ろにある家の扉を押し開ける。すっと手を延べると、ザイルは中に入っていった。

「お待ちください! 我々も……」

 中に入ろうとするイシリアンテ兵を、老人が手でさえぎる。その手を乗り越えようとすると、別の手にイシリアンテ兵はつかまれた。

「アンタ達はここで待機だ」
「窓から見えるだろ? 十分じゃないか」

 イシリアンテ兵の肩越しには、いつの間に集まったのだろうか、アグノゥサ人が取り囲んでいた。
 肩を押さえているのは、裏の薬屋の店主。イーハンの父親だった。