警備をするものの労をねぎらい、ザイルは執務室に入った。

 明かりを灯していないそこは、大きく造られた窓があり、今日はその真ん中に丸い月が浮かんでいる。光は、一遍の曇りも許さず差し込み、高い背もたれのある重厚な椅子を照らす。その様が、己の心にちくりとトゲを刺す。
 刻まれたしわを伸ばすように顔をなでると、ザイルは明かりも点けずにその椅子に深く腰掛けた。
 窓からは首都が見える。
 首都といっても、この公邸とその周辺のみのわずかな街である。公国のほとんどの土地は開発局に貸し出している。その使用料が国の収入の大半。ここはしょせん、飾りである。
 
 膝に置かれた左手に月の光が届く。照らされた五指は全て、いびつな形でつながっている。物はかろうじてつかめるが、曲げ伸ばしできる指は少なく、細かなことはできない。おかげで、利き手ではなかった右手が、ずいぶんと達者になった。

 小銃の柄が指をつぶしたとき、マルコは武器を置き、両手を挙げた。同じく小銃の柄で自身の前歯を折られ、左足を打ち砕かれたときには、眉一つ動かさなかったにもかかわらず。

「もうこれ以上、血を見たくない」

 マルコは、絶え絶えの息でやっとそう、つぶやいた。

 この地は元々、アグノゥサ人の自治区として周辺国から黙認されてきた。乾いてはいるものの、比較的天候は穏やかで、何もないから誰にも荒らされない。定住しない民アグノゥサ人は、ここを基点として、皆交易商人をしていた。
 他の地で得た物を、別の地に持っていき売りさばく。文化・風習の違いがある中で、それぞれの民に価値のある物を見抜き、伝えていった。――ものの善し悪しを見抜く。それこそがアグノゥサ人の財産だった。

 その目が、初めて狂った。

 この地を貸してくれれば、楽な暮らしができる。
 旅から旅の暮らしをしていた老人達には、願ってもないことだったのかもしれない。
 だが、まだ若く、様々な地でいろいろなことを見聞きしていた自分やマルコは、その裏に潜む何かに勘づいた。
 だから、武器を取った。
 何年も続く戦い。そのうちに、抵抗している仲間も散り散りになり始める。
 反イシリアンテパルチザンのリーダーだったザイルとマルコが白旗を揚げたことで、全て終わり、型にはめられた。
 ごていねいに自分に公爵などという位をつけ、目立つ位置に置いたのは、監視と見せしめのためなのだろう。

 ザイルは机の下に置いている水煙草のパイプを引き出した。ガラスの壺の上に金色の皿のようなものが重なっている。その一つに指を伸ばし、挟み込まれた小さな紙切れを取り出した。開くとそこには何も書かれていない。

「マルコ……、一体どういうつもりだ……!」

 鈍い左手で、その紙片をぐしゃりと握りつぶした。