通り過ぎる気配でソーイチは目が覚めた。
 目だけであたりを探ると、ガバリと顔を上げる。耳をあちらこちらに向ける。物音がしない室内に心が焦った。
 ベッドに飛び上がる。もぬけの空になっているシーツの上に前足を置くと、まだ温もりは残っていた。すぐそばにある出窓に飛び移る。すると、眼下では、長い黒髪の女がどこかに向かおうとしていた。――テッドの言葉が頭を巡る。ちっ、と舌を打ち鳴らすと、そろりと鼻で小さなドアを押し開け、ソーイチは屋根に登った。

 ミラが見えるぎりぎりの所まで引っ込みながら、後を追う。ミラは時折、辺りをうかがうように頭を左右に振っていた。その姿を見ると、腹の奥底から、感じたくない重いドロリとしたものが込み上げてくる。耳をぴんと立て直すと、またそろりと後を追う。

「あ!」

 先日痛めた左足が滑ると、振動で、そばに引っかかっていた小石がカラリと音を立てた。
 ミラが立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。それに合わせるように、ソーイチはそおっと屋根に伏せる。月の光が逆光になり、表情が全く読み取れない。周りの気配をさえぎるように、足まで覆うマントで身を包み直すと、ミラはまた歩き始めた。

 食堂という場所柄、いろいろな情報が流れ込んでくる。ミラは普段、客の話には干渉しない。その口の堅さが、ひそかに店の評判を上げている。それを利用したと考えるのは、己の思い過ごしだろうか。

「普段がああだし、大丈夫と思ったんだが……」

 己の感情で目が曇ったか、と悔やみながら、また一歩屋根に足を下ろす。

 目抜き通りを開発局に向かって歩き、大通りまで行き当たると、町の方に曲がる。そのままミラはまっすぐ進む。行き着いた先に、ソーイチは、眉をひそめた。

「病院……?」

 診察時間なら終わっている。急に具合でも悪くなったのか? だがその時、先日ロイの言っていたことが頭をよぎった。公国ができたときに犠牲になった人々の記念碑が、病院の裏にある。そこはあまり人気のないところだ、と。

「テッドは本当に、オレをロケットにくくりつけるぞ」

 自分を奮い立たせるように冗談を言うと、ソーイチは屋根から降りる。距離を置き、物陰に隠れながら、ミラをつけた。

 病院の建物の裏手に回り、暗い道を進む。すると、急にぽっかりと空いたところに出た。山のような形をした石が置かれており、ならされた部分にはびっしりと文字らしきものが刻み込まれていた。それは、故郷の同盟国で使われていた文字にもよく似ていたが、全く読めなかった。
 ミラは石を通り過ぎ、後ろに回る。着ていたマントをはらりと落とし、いつもの黒いワンピース姿になると、病院を背にして立ち上がり、顔をもたげる。ソーイチはなるべくそばに近づこうと、石の影まで足を踏み込んだ。

「なんだ? これ?」

 ミラは地面にはめ込まれた、平らな石の中央に立っていた。
 円形をした滑らかなその石は、ほぼ両手を広げたくらいの大きさで、端に絵が刻まれている。ミラの右手側には太陽と思われるもの、左手側には月と思われる絵が描かれている。
 空を見上げたミラの顔を満月の光が照らし上げる。石が白いせいだろうか、光がはね返り、明るく感じる。冒しがたい清らかな世界に立つミラに、喉を鳴らすことすらはばかれた。

 ミラは両手をゆっくりと挙げる。手のひらで月を包むような仕草をすると、すくった月の光を口に注ぎ入れるようにした。そのまま光を体に流し込むように、手のひらが体の芯をなでていく。へその上辺りで手が止まると、今度はその場に正座をした。両手を高々と捧げ上げ、空に手の甲を向ける。そのまま、石の上に体をひれ伏させる。大地と一体になったミラは、何事かをささやき始めた。

「どうか、第八期の有人飛行を成功させてくださいませ。今度こそは、皆無事に……」

 祈りを捧げ終えると、またすっと立ち上がり、月の光を手ですくう。身深くまで光を導き入れると、また大地と共になり、祈りを捧げた。

「……オレは、やっぱりバカだ」

 ツンと鼻の奥が痛む。
 くり返される清らかな祈りを、月と黒猫だけが見守っていた。