イーハンの事件が起きてから、局内は妙な雰囲気を帯びた。

 移転に賛成の者が大手を振り始め、反対だった者は沈黙するようになった。元々、多様な民族が入り混じる局内が、きれいに民族・意見で線引きされ、お互いに見えない距離を置き始めていた。

 昨日、謹慎中のイーハンの家に数人の局員が訪れた。それだけでその局員達は今、駐在部隊から話を聞かれている。
 駐在部隊の取り調べが終わり、ひとかたまりの紺の軍服がエントランスから外に出て行くと、ロイはつい襟元に手を伸ばしていた。

「なんか、こう、居心地悪いよなぁ」

 紅茶の紙コップを片手に、ヴィクターがつぶやく。局内全体にのしかかる重苦しさに、ロイはぐっと襟元を押し広げた。

 三階の管制室に戻ると、中ではいつもどおり、淡々と衛星の監視が続けられている。運行指揮官はイーハンがいないため、いつもよりシフトの回りが早くなっていた。

「こことここ。これじゃみんながわからないから、直しておきなさい」
 
 席に着くと、手順書を渡されながらスズカに指摘を受ける。手順書の整理は、いつもならイーハンがやっていることだ。いないため、今はロイが引き受けていた。

「細かいことが苦手なくせに引き受けるんだから」

 苦笑交じりにスズカに言われる。確かにそうなのだが、なんとなく自分が引き受けなければならない気になっていた。

 謹慎を受ける前に、久々にぶつけられたあからさまな敵意。
 第八期のメンバーに選ばれたときは、自分が未熟であるということに不信感を覚えられ、真っ向から噛みつかれた。それは、いい。未熟なのは本当の事である。それに、ロイ自身のことである。

 だが、今回は違う。イシリアンテ人である、そのことに敵意をぶつけられたのだ。

 自分では選ぶことのできないものに判断されて、退けられる。言葉にならない何が喉につかえていた。この混沌としたものを形にし、たぐり寄せる術はないかと思い、自らイーハンの仕事を引き受けたのだ。

「あちゃ……。すみません。これ、イーハンさんが帰ってきたら怒られますね。直しておこう」

 書類をめくりながら、致命的なミスに気づき、頭を掻く。するとコツコツと机を叩く音がし、目をやる。スズカの指の下に紙があり、何事かが書かれていた。

(イーハンの名前、あまり口にしない方がいいわよ)

 さっと辺りをうかがうと、手順書を直す振りをしながら、ロイはペンを持った。

(どうしてです?)
(仲間だと思われるわよ)
「なんです……」

 スズカにじろっとにらまれ、あわてて口をふさぐ。その下にロイは憤りを書き連ねた。

(なんなんですか!? 仲間だとかどうとか!)
(イーハンは移転に反対する人間を集めて、運動を起こそうとしていた。私も誘われたけど、断ったわ)

 ロイが片眉を吊り上げる。が、スズカは感情の乏しい表情をしたままである。ロイはまたペンを握りしめた。

(スズカさんは移転のこと、どう思われているんですか?)
(私は)

 そこまで書いて、スズカの手が止まった。
 ペンを挟んだままの指先が、指す場所にとまどうようにゆらゆらと揺れる。もう一度握り直すと、書きかけの文を塗りつぶした。

(参加しなかったということは、そういうことよ)

 ペンを投げ捨てると、スズカはキーボードを打ち始める。お互い、それ以上言葉を交わすことはしなかった。