町の入口にいる煙草のじいさんの話は、すぐに開発局内に広まった。だが、老人二人の日なたぼっこの話では、それ以上の広がりがありようもなく、局内は表向き淡々といつもの業務が進められていた。

 宇宙開発局は空軍の一部ではあるものの、陸軍・海軍とは違い、他国出身の志願者も受け入れている。士官学校にある特別コースを修了すれば、開発局に入局することができる。そのため、局員の半分はイシリアンテ人だが、残り半分は他国・ほぼ属国のアグノゥサ人が占めている。
 移転についての感想も、似たような割合になっていた。

「オレ達はやってきた側だからなぁ」

 紙コップの端を歯で噛み、カクカクもて遊びながらヴィクターが言う。ロイも同感だった。
 イシリアンテ人の自分たちにとっては、発射台がどこであろうと大して変わりはない。正直なところ、町が立ちゆかなくなるところまで考えが及ぶかといえば、うそになる。そのきしみが、局員達の間で少しずつ現れ始めていた。

「素直な感想だね」

 イーハンだった。紙コップの紅茶をゆっくりと含みながら落としていく視線には、やるせなさが映る。

「アグノゥサ人の間でも意見がわかれてる。情けない話だ」
「情けない?」

 ヴィクターが聞き返すと、少し笑みを浮かべた後、イーハンは黙って紅茶を流し込んだ。

 訓練の時間だから、とヴィクターが訓練棟に戻っていった後、イーハンは口を開いた。

「もう終わりだったよね? ちょっとついてきてくれるかな?」

 町の方だという。はぁ、と間抜けな返事をすると、二人で大通りを渡った。

 大通りを西に進むと町で唯一ある病院が見えてくる。門をくぐるとイーハンは「こっち」と、建物ではなく、その裏手へと足を進める。
 建物と塀に囲まれ薄暗い、人気のないそこにたどり着くと、石がロイを出迎えた。
 石は大きく、ロイの背丈はあるだろうか。横は両手に余るほどの、山のような形をした石に、びっしりと文字が刻まれている。太古の石盤のようなそれに、そろそろ地平線に沈もうと準備を始めた日の光が背後から差し込み、長く、影を伸ばし始めていた。

「イーハンさん、これは?」

 彫られている文字に心当たりがない。複雑に線が絡み合う文字は初めて見るものだった。

「この公国ができたとき、尊い礎となった人達の名前が刻まれているんだ」

 言われた言葉を反《はん》芻《すう》し、ロイははっと目を開いた。

「この文字はボクらにはもう読めない。公国になった時、一切教えることを止めたんだ」
「なぜ?」
「命を守るためだと言われたな」

 複雑な色を隠すことなく見せるイーハン。ロイは、どう声をかけていいかわからず、同じようにじっと石碑を見つめていた。

「ボク達アグノゥサ人は、元々移動をする民だった。だから、特定の場所に記念碑や墓を作る習慣はなかった。皆、空と大地に還るんだ、って」

 先日行われた祭りで、そのような思想があることを知った。

「わざわざ動かない重い石を置き、わかるように刻みつける。それだけ、思いは強かったはずなんだけどね」

 濃い色に変わり始めた光がイーハンの横顔に差し込む。影になった表情に何を浮かべているのかは、わからなかった。

 ******

 ロイは、そのままイーハンと別れ、町の目抜き通りへと向かった。恐らくあの黒い猫の耳には入っているだろう。話をしてみたかった。
 いつも通り扉を開くと、今日は珍しくテッドがいなかった。黒猫の呼びかけに気づき、ミラが奥から出てくると、いつもの光景が始まった。

 紅茶を出すと、ミラは奥へ引っ込む。ロイは心持ち声を落とした。

「聞きましたか? 移転の話」

 ソーイチが片方の耳を奥にすましながら、口を開いた。

「テッドから聞いた。ややこしいことになったな、全く」

 けだるそうにゆらりとしっぽを揺らす。紅茶を一口含むと、不意に揺れが止まった。

「お前はどう思ってるんだ?」

 視線は天井に向いている。ロイも目を合わさないように、琥珀色した波の揺れを見つめた。

「わかりません。ここでなくてはいけないという理由が見当たらない代わりに、ここであってはいけない、という理由も見当がつきません」
「きまじめだな、お前は」

 含み笑いをすると、ソーイチはまた、手慰みのようにしっぽを揺らし始める。その揺れに誘われるかのように、ロイは今聞いてきた石碑の話を始めた。

「ふーん。病院の裏手にそんなものがあったのか」
「そんなものを作るほど、この町に思い入れが強かったはずなのに、とイーハンさんは……」

 言葉に詰まり、ロイは襟を押し広げる。ソーイチは独り言のようにつぶやいた。

「時間が経てば考えも変わる。立場も変わる。そんなもんさ」

 黙ってうなずき、紅茶を流し込む。探し求めようとしているかすらわからない答えを、心だけは手探りしていた。
 その時、店の扉がガタガタと音を立てる。くるりと身を丸めソーイチは威嚇の姿勢を取った。

「誰だ?」

 窓から見える青いツナギ。同じように色素の薄い髪。そっと窓をのぞき込むと、ロイは笑みを浮かべた。

「何してるんだよ、ヴィクター。押すんだよ」

 あ! そうか! と聞こえてくる声に朗らかに笑い返してやる。扉を押し開き、入ってきたヴィクターの顔は蒼白になっていた。

「どうした?」
「お前のところの……、イーハン……さん? 連れてかれたぞ!」

 途切れ途切れの言葉は顔色を変えるのに十分だった。