ソーイチがカウンターでのんびりと朝寝を楽しんでいると、妙な気配に気づき目が覚めた。タリムが野菜を運んできたからではない。体を起こすと窓際まで足を運んだ。
目抜き通りを一人の老紳士が悠然と歩いている。左右と後ろを、黒いスーツを着た男達が守るように付き従い、その後ろを、紺の軍服を着たイシリアンテの兵が続く。
前を行く少々恰幅のよい老紳士は、浅黒い肌に柔和な笑みをたたえていた。
「誰だろう?」
「ザイル・マフディ公」
つい滑らせた口をあわてて閉じる。目線でミラに叱られ、パタリと耳をふせる。が、タリムには気づかれていないようだった。
「ザイル・マフディ? ああ! ウチの国の主か!」
君主といわれても、ほぼイシリアンテの属国であるアグノゥサでは、国民から見れば彼は知事くらいの感覚でしかない。この町の住民ならなおさらである。
「でも、何しに来たんだ?」
それはソーイチも同感だった。一度ミラの顔を見、目で応えると、ソーイチはタリムが開けた扉をすり抜け、賑やかな屋根の上に上った。
猫の散歩に見えるように、ゆっくりと歩を進めながら、奇妙な一行を追う。町の住人達は遠巻きに見ている。やいのやいのとうるさい子どもたちも、さすがに今はぽかんとその様子をながめていた。
一行は開発局と町の境目に来たとき足を止めた。老紳士がゆったりと向き直る。そこにはいつものように刺繍の帽子をかぶった老人が、ぷかりと煙を上げていた。
「やあ、久しぶり」
ザイルは老人にそう声をかける。が、老人は何も言わない。様子が見えないソーイチは、屋根の端ギリギリまで近寄ると、首を伸ばしのぞき込んだ。
「今日は新しいのを持ってきたんだ。試してみないかい?」
後ろに控えていた黒服の男が水煙草のパイプを差し出す。すると老人は、そばにあった丸いすを自分のかたわらに置いた。そして、吸っていた自分の水煙草をそのいすの前に置く。
黒服の男は、老人のそばに手にしていた水煙草を置くと、機敏な動きで元の位置に戻った。
「じゃあ、邪魔するよ」
ザイルは老人の横に座ると、浅黒い肌をした手でパイプをつまみ上げる。くわえ、吸い込むとふわりと吐き出した。
「いやぁ……、相変わらず強いのを吸っているんだな。まいった」
少々むせながらも、朗らかに笑い声を立てる。それを見た老人は、自分もザイルが持ってきた水煙草のパイプをくわえた。吸い込むと、キュッと片眉が上がる。老人はいつものように勢いよく吐き出す。ソーイチはさっと首を引っ込めた。
「私のは、さわやかな後味になるようにしてある。なかなかいけるだろ?」
また首を伸ばす。老人は珍しく、ザイルと目を合わせ、口の端を引き上げていた。
二人はそのまま、水煙草を楽しんでいた。ザイルが一方的にポツリポツリとたわいない言葉を紡ぎ、老人はしわだけで答える。二人の間ではそれで会話が成り立っているらしい。
二人の周りを取り囲む黒服。その周りを取り囲むイシリアンテ兵。老人達の奇妙な日なたぼっこは続いていた。
「よし。そろそろ、いつものをやろうか」
あくびをしていたソーイチが、ひょいと首を伸ばしたときだった。
一斉に勢いよく煙が吐き出され、ソーイチの小さな顔を覆いつくした。いつもの二倍の量と勢いである。下から噴き上げる白い煙に、目を閉じることもかなわない。目に染み涙があふれ出し、体の中にはもわっとまとわりつく霧が立ちこめる。
「こンの……、くそじじいども……!」
空が回ると、ソーイチはそのまま、屋根に大の字に転がってしまった。
「誰だ!」
ソーイチの倒れる音に、黒服達が一斉に身構える。抵抗する気がないことを示すために、ソーイチは辛うじて動くしっぽを振った。
「あー、チビだ」
「倒れてるー」
親の影で様子を見ていた子どもたちが口々に言う。するとザイルは子どもたちに話しかけた。
「この黒猫のことを知っているのかい?」
「ミラさんところの猫。かわいくないの」
利発そうなイステアの姉がうなずきながらそう答える。素直な受け答えに苦笑しながらザイルは言った。
「キミ達、この黒猫を飼い主のところまで連れていってあげてくれないかい」
「わかったー」
黒服達がはしごを登り、ソーイチを抱き下ろすと、イステアの姉の手に預けた。
腕の中で大人しくしているのが楽しいらしく、体のあちこちを突かれながら、ソーイチはその場を離れていく。
くらくらする世界の中で、二人の、穏やかに見える日なたぼっこを、ソーイチはいつまでも目に焼き付けていた。
目抜き通りを一人の老紳士が悠然と歩いている。左右と後ろを、黒いスーツを着た男達が守るように付き従い、その後ろを、紺の軍服を着たイシリアンテの兵が続く。
前を行く少々恰幅のよい老紳士は、浅黒い肌に柔和な笑みをたたえていた。
「誰だろう?」
「ザイル・マフディ公」
つい滑らせた口をあわてて閉じる。目線でミラに叱られ、パタリと耳をふせる。が、タリムには気づかれていないようだった。
「ザイル・マフディ? ああ! ウチの国の主か!」
君主といわれても、ほぼイシリアンテの属国であるアグノゥサでは、国民から見れば彼は知事くらいの感覚でしかない。この町の住民ならなおさらである。
「でも、何しに来たんだ?」
それはソーイチも同感だった。一度ミラの顔を見、目で応えると、ソーイチはタリムが開けた扉をすり抜け、賑やかな屋根の上に上った。
猫の散歩に見えるように、ゆっくりと歩を進めながら、奇妙な一行を追う。町の住人達は遠巻きに見ている。やいのやいのとうるさい子どもたちも、さすがに今はぽかんとその様子をながめていた。
一行は開発局と町の境目に来たとき足を止めた。老紳士がゆったりと向き直る。そこにはいつものように刺繍の帽子をかぶった老人が、ぷかりと煙を上げていた。
「やあ、久しぶり」
ザイルは老人にそう声をかける。が、老人は何も言わない。様子が見えないソーイチは、屋根の端ギリギリまで近寄ると、首を伸ばしのぞき込んだ。
「今日は新しいのを持ってきたんだ。試してみないかい?」
後ろに控えていた黒服の男が水煙草のパイプを差し出す。すると老人は、そばにあった丸いすを自分のかたわらに置いた。そして、吸っていた自分の水煙草をそのいすの前に置く。
黒服の男は、老人のそばに手にしていた水煙草を置くと、機敏な動きで元の位置に戻った。
「じゃあ、邪魔するよ」
ザイルは老人の横に座ると、浅黒い肌をした手でパイプをつまみ上げる。くわえ、吸い込むとふわりと吐き出した。
「いやぁ……、相変わらず強いのを吸っているんだな。まいった」
少々むせながらも、朗らかに笑い声を立てる。それを見た老人は、自分もザイルが持ってきた水煙草のパイプをくわえた。吸い込むと、キュッと片眉が上がる。老人はいつものように勢いよく吐き出す。ソーイチはさっと首を引っ込めた。
「私のは、さわやかな後味になるようにしてある。なかなかいけるだろ?」
また首を伸ばす。老人は珍しく、ザイルと目を合わせ、口の端を引き上げていた。
二人はそのまま、水煙草を楽しんでいた。ザイルが一方的にポツリポツリとたわいない言葉を紡ぎ、老人はしわだけで答える。二人の間ではそれで会話が成り立っているらしい。
二人の周りを取り囲む黒服。その周りを取り囲むイシリアンテ兵。老人達の奇妙な日なたぼっこは続いていた。
「よし。そろそろ、いつものをやろうか」
あくびをしていたソーイチが、ひょいと首を伸ばしたときだった。
一斉に勢いよく煙が吐き出され、ソーイチの小さな顔を覆いつくした。いつもの二倍の量と勢いである。下から噴き上げる白い煙に、目を閉じることもかなわない。目に染み涙があふれ出し、体の中にはもわっとまとわりつく霧が立ちこめる。
「こンの……、くそじじいども……!」
空が回ると、ソーイチはそのまま、屋根に大の字に転がってしまった。
「誰だ!」
ソーイチの倒れる音に、黒服達が一斉に身構える。抵抗する気がないことを示すために、ソーイチは辛うじて動くしっぽを振った。
「あー、チビだ」
「倒れてるー」
親の影で様子を見ていた子どもたちが口々に言う。するとザイルは子どもたちに話しかけた。
「この黒猫のことを知っているのかい?」
「ミラさんところの猫。かわいくないの」
利発そうなイステアの姉がうなずきながらそう答える。素直な受け答えに苦笑しながらザイルは言った。
「キミ達、この黒猫を飼い主のところまで連れていってあげてくれないかい」
「わかったー」
黒服達がはしごを登り、ソーイチを抱き下ろすと、イステアの姉の手に預けた。
腕の中で大人しくしているのが楽しいらしく、体のあちこちを突かれながら、ソーイチはその場を離れていく。
くらくらする世界の中で、二人の、穏やかに見える日なたぼっこを、ソーイチはいつまでも目に焼き付けていた。