「わかった」
猫に続き、とい、窓枠、と蹴り飛ばし、とすんと地面に降り立った。道に、あでやかな桃色のネオンサインが文字を描く。「サナムの店」とつづられている。団子鼻の酒臭い息が鼻先をかすめた。
(こいつか)
よく見れば、確かに自分と黒猫の姿形は似通っている。違うのは、向こうの方が少ししっぽが短いくらいである。
黒猫はまたわずかに振り返り、ナーと一声かけてくると、そのまま店の扉の下にある、小さなドアを鼻で押し開けた。
「あら、おかえり」
低めの、張りのある女の声が、先の猫を出迎える。ナーと応えると、黒猫はかまわず歩を進めた。
「おや、友達かい? いいよ、好きなだけ遊んでいきな」
その声を聴き、ソーイチはそろりと店内に足を踏み入れた。
規格して造られた町のため、店の広さはほぼ同じである。その狭いところに、カウンター席が三つ、高いテーブル席が二つあった。床にはナッツの殻が散乱し、足が六本伸びている。
店内に充満している甘い酒の匂いは、ソーイチの頭をくらりと揺らした。気を取り直すようにまばたきをし、ついと頭をもたげる。そこにいる人の顔は皆、浅黒い肌をしていた。
黒猫がカウンターの奥に入り込み、奥の扉の前に立った。そこにもやはり、下に小さなドアが造られている。
「ダメだよ。今は」
主がぴしゃりと言うと、黒猫は甘えた声で鳴く。すると、テーブル席で飲んでいた老人が口を開いた。
「かまうもんか。猫だ。それも黒猫だ」
そんなこと言っても、と主が押しとどめると、老人はさらにまくし立てた。
「何を言ってやがる。いいか、黒猫ってのは良い取引の前に必ず膝の上に乗ってくるんだ。最近の若いのはそんなことも知らんのか」
浅黒い肌をしていてもはっきりとわかるぐらい顔を赤くし、口角から泡を飛ばさん勢いで、くだを巻きはじめる。よく見ると、五軒隣の肉屋の隠居である。隠居はますます調子を上げ始め、周りの客や主はため息をつく。どうやら、いつものことらしい。
「はいはい。悪いけど、誰か連れて帰ってやっておくれよ」
すると、店にいた男二人が、隠居の両脇に抱え、なだめながら立ち上がった。わめく隠居に「酒が入らなきゃ、いい人なのにさ」と苦笑する主の声を耳にしながら、ソーイチはドアを鼻で押し開けた。
店では、ここには大きな冷蔵庫があり、ミラが横になれるよう、ソファが置いてある。
ドアの奥には、小さなテーブルと長いすが置かれており、二十代くらいの男が一人座っていた。テーブルの上には紅茶とミルクの瓶。不思議と、一切酒の匂いがしなかった。
男が紅茶をすすっている。横からは灯りが浮かび上がり、天井を照らしていた。
黒猫はソーイチの尻をしっぽで軽くはたくと、自らは甘えた声で男に寄り、すね辺りをカリカリと掻く。
「お? なんだ? これが欲しいのか? よし、待ってろ」
男がカップを持ち上げ、敷いていたソーサーにミルクを入れると、黒猫は膝によじ登りピチャピチャと音を立て始めた。ソーイチは、ほほえましそうに黒猫をながめる男の足元をすり抜けた。
四角く切りとられた床には、木でできたはしごが伸びている。ソーイチは明かりの射す方へそっと首を伸ばした。
はしごの下は地下室になっていた。本来は酒を保管する場所なのだろう。周りが石で囲まれ、冷たさを保つようにできている。が、そこを埋め尽くす人いきれで、空気はむっと熱かった。
車座になるように長いすが並べられ、ところどころに紅茶の置かれたテーブルがある。思い思いに紅茶をすすりながら、だが一様に、浅黒い顔に険しい表情を乗せている。年は皆、同じくらいだろうか。
その中ほどにイーハンの姿があった。
「移転か……」
ひとりがぽつりとつぶやいた。
「ま、仕方ねぇか。これを機に、イシリアンテにでも移るか」
「行って仕事のあてでもあるのかよ」
言われた方は肩をすくめる。ほらみろ、と目をやると男は紅茶をぐいと飲み干した。
「開発局の設備は重要機密だ。そう簡単に事が運ぶとは思えないけどな」
別の一人が口を開く。確か、管制室の技術者だ。
「だけど、局長が言うって事は、何か手段があるんでしょ? もう決まったようなものじゃない」
「じゃ、お前、黙って言うこと聞くのかよ。いくらなんでもあんまりだろ!」
わずかに声を震わせ、立ち上がりかける男を、別の男女が座らせる。だが、言葉の応酬は狭い地下室の中でいつまでも続く。
「ん? もう一匹いたのか?」
全ての毛が立つ。男はソーイチを片手でひょいと抱え上げ、テーブルの上に座らせた。
「ほらよ」
ソーサーにミルクをつぎ足してくれる。目の前の黒猫は、ニヤッと笑うかのようにヒゲを上げる。ぱちくりとまばたきをくり返した後、ソーイチは舌をミルクに浸した。
不安なのだ。
空にまっすぐ手を伸ばしていた子どもたちと違い、彼らはもう、ある程度年を経ている。自分たちの道を自分たちで決め、かなわぬものに目を伏せた経験がある。
ここで暮らすと決めた自分たちの土台が揺らぐのが、不安なのだ。
地下室の熱気が立ち上る。
ソーイチがミルクを舐めていたその間、イーハンの声を聞くことはなかった。
ありがとうよ、と店の前で黒猫に言い、屋根に飛び乗ったとき、何かがぶつかる音が聞こえた。
「ん? 酔っ払いか?」
ゴミ箱にでもぶつかったのか、よろけた体勢を立て直しまた歩き始める人影が、目の端に残った。
猫に続き、とい、窓枠、と蹴り飛ばし、とすんと地面に降り立った。道に、あでやかな桃色のネオンサインが文字を描く。「サナムの店」とつづられている。団子鼻の酒臭い息が鼻先をかすめた。
(こいつか)
よく見れば、確かに自分と黒猫の姿形は似通っている。違うのは、向こうの方が少ししっぽが短いくらいである。
黒猫はまたわずかに振り返り、ナーと一声かけてくると、そのまま店の扉の下にある、小さなドアを鼻で押し開けた。
「あら、おかえり」
低めの、張りのある女の声が、先の猫を出迎える。ナーと応えると、黒猫はかまわず歩を進めた。
「おや、友達かい? いいよ、好きなだけ遊んでいきな」
その声を聴き、ソーイチはそろりと店内に足を踏み入れた。
規格して造られた町のため、店の広さはほぼ同じである。その狭いところに、カウンター席が三つ、高いテーブル席が二つあった。床にはナッツの殻が散乱し、足が六本伸びている。
店内に充満している甘い酒の匂いは、ソーイチの頭をくらりと揺らした。気を取り直すようにまばたきをし、ついと頭をもたげる。そこにいる人の顔は皆、浅黒い肌をしていた。
黒猫がカウンターの奥に入り込み、奥の扉の前に立った。そこにもやはり、下に小さなドアが造られている。
「ダメだよ。今は」
主がぴしゃりと言うと、黒猫は甘えた声で鳴く。すると、テーブル席で飲んでいた老人が口を開いた。
「かまうもんか。猫だ。それも黒猫だ」
そんなこと言っても、と主が押しとどめると、老人はさらにまくし立てた。
「何を言ってやがる。いいか、黒猫ってのは良い取引の前に必ず膝の上に乗ってくるんだ。最近の若いのはそんなことも知らんのか」
浅黒い肌をしていてもはっきりとわかるぐらい顔を赤くし、口角から泡を飛ばさん勢いで、くだを巻きはじめる。よく見ると、五軒隣の肉屋の隠居である。隠居はますます調子を上げ始め、周りの客や主はため息をつく。どうやら、いつものことらしい。
「はいはい。悪いけど、誰か連れて帰ってやっておくれよ」
すると、店にいた男二人が、隠居の両脇に抱え、なだめながら立ち上がった。わめく隠居に「酒が入らなきゃ、いい人なのにさ」と苦笑する主の声を耳にしながら、ソーイチはドアを鼻で押し開けた。
店では、ここには大きな冷蔵庫があり、ミラが横になれるよう、ソファが置いてある。
ドアの奥には、小さなテーブルと長いすが置かれており、二十代くらいの男が一人座っていた。テーブルの上には紅茶とミルクの瓶。不思議と、一切酒の匂いがしなかった。
男が紅茶をすすっている。横からは灯りが浮かび上がり、天井を照らしていた。
黒猫はソーイチの尻をしっぽで軽くはたくと、自らは甘えた声で男に寄り、すね辺りをカリカリと掻く。
「お? なんだ? これが欲しいのか? よし、待ってろ」
男がカップを持ち上げ、敷いていたソーサーにミルクを入れると、黒猫は膝によじ登りピチャピチャと音を立て始めた。ソーイチは、ほほえましそうに黒猫をながめる男の足元をすり抜けた。
四角く切りとられた床には、木でできたはしごが伸びている。ソーイチは明かりの射す方へそっと首を伸ばした。
はしごの下は地下室になっていた。本来は酒を保管する場所なのだろう。周りが石で囲まれ、冷たさを保つようにできている。が、そこを埋め尽くす人いきれで、空気はむっと熱かった。
車座になるように長いすが並べられ、ところどころに紅茶の置かれたテーブルがある。思い思いに紅茶をすすりながら、だが一様に、浅黒い顔に険しい表情を乗せている。年は皆、同じくらいだろうか。
その中ほどにイーハンの姿があった。
「移転か……」
ひとりがぽつりとつぶやいた。
「ま、仕方ねぇか。これを機に、イシリアンテにでも移るか」
「行って仕事のあてでもあるのかよ」
言われた方は肩をすくめる。ほらみろ、と目をやると男は紅茶をぐいと飲み干した。
「開発局の設備は重要機密だ。そう簡単に事が運ぶとは思えないけどな」
別の一人が口を開く。確か、管制室の技術者だ。
「だけど、局長が言うって事は、何か手段があるんでしょ? もう決まったようなものじゃない」
「じゃ、お前、黙って言うこと聞くのかよ。いくらなんでもあんまりだろ!」
わずかに声を震わせ、立ち上がりかける男を、別の男女が座らせる。だが、言葉の応酬は狭い地下室の中でいつまでも続く。
「ん? もう一匹いたのか?」
全ての毛が立つ。男はソーイチを片手でひょいと抱え上げ、テーブルの上に座らせた。
「ほらよ」
ソーサーにミルクをつぎ足してくれる。目の前の黒猫は、ニヤッと笑うかのようにヒゲを上げる。ぱちくりとまばたきをくり返した後、ソーイチは舌をミルクに浸した。
不安なのだ。
空にまっすぐ手を伸ばしていた子どもたちと違い、彼らはもう、ある程度年を経ている。自分たちの道を自分たちで決め、かなわぬものに目を伏せた経験がある。
ここで暮らすと決めた自分たちの土台が揺らぐのが、不安なのだ。
地下室の熱気が立ち上る。
ソーイチがミルクを舐めていたその間、イーハンの声を聞くことはなかった。
ありがとうよ、と店の前で黒猫に言い、屋根に飛び乗ったとき、何かがぶつかる音が聞こえた。
「ん? 酔っ払いか?」
ゴミ箱にでもぶつかったのか、よろけた体勢を立て直しまた歩き始める人影が、目の端に残った。