まだ夜明けの寒さが残る時間、ソーイチは散歩がてら、屋根伝いに町を歩いた。もう町は目を覚まし、店は開店準備を始めている。店からは次々と子ども達が飛び出し、たった一つだけある学校を目指していた。

「チビ、おはよう」

 三軒隣にある青果店の子どもがそう声をかけてくる。ソーイチは、ふてくされた声で「ニャ」とだけ返事をした。

「チビ、かわいくなーい」
「チビは照れ屋さんなんだよ」

 タリムが朗らかに笑いながら子どもを見送る。猫が好きなタリムは、いつもいいように子どもに言い訳してくれる。ときどきおまけもくれる。ソーイチにとっては便利な存在だ。

「あ、来た」

 大きく開かれたゲートからは、トラックが次々と入り、目抜き通りに等間隔に停まり始めた。
 張られた幌の中にびっしりと色鮮やかな果実が詰まったもの。かと思えば、冷たい銀色の光を放ち、他を寄せ付けないようなコンテナが積まれたトラックもある。しかし、ぱかりと腹を開けてみれば、遊園地かと見まがうような、色とりどりのパッケージを施された菓子の大群が姿を表す。
 これらは空路や陸路を通って、全てイシリアンテからやってきていた。

 自分が注文した荷物を取りに、それぞれの店の店主がやってくると、とたんにわっ、と声が飛び交い、波紋のように広がる人の声は、ソーイチの心を妙にくすぐる。
 空気がまだひんやりとしたこの時間、目抜き通りは一日のうちで一番賑やかになるのだ。

「おい! 酒が一つ足りねぇぞ!」
「それが最後の一つだったのよ。イシリアンテ中探し回って手に入れたんだから、感謝してよ」
「へっ! 感謝なら、そんな貴重品を欲しがる中のヤツにしてもらってくれ!」

 「中のヤツ」とは開発局の局員のことである。酒場の店主の一言に、皆が苦笑をもらした。
 その横ではタリムが交渉を始めていた。どうやら野菜の鮮度に不満があるらしい。その分まけろと言っている。普段は穏やかな性格なのだが、こういうときのタリムは人一倍強情だ。この交渉が直接こちらの仕入れ値に反映される。ソーイチの前足にも力がこもった。

「わかった、タリム。これで勘弁してくれ。これ以上下げられちゃ、イシリアンテで生活できない」

 だいたいはこの一言で幕切れを迎える。タリムは満足げな笑みを浮かべ、書類にサインをした。

 猫になってから何度も、店の仕入れ値を見た。イシリアンテで出回っている物より一割は高い。そのことをミラに告げると、ミラはいつも、黙って目を伏せていた。

 アグノゥサができて五十年。
 今の働き盛りはここで生まれてここで育った。交易商人など、したことのない世代である。ましてや、出入りの制限が厳しい彼らが、よその土地など知るよしもない。体で覚えた経済など、ここでのままごとのようなものだけである。

 一度目を伏せると腰を上げ、ソーイチは屋根を伝い、開発局近くまで来た。屋根の先にちょこんと座ると、ソーイチは背筋を伸ばし、建物を見上げた。
 この姿になってから、ソーイチはこの大通りを越えたことがない。猫だからとか、どうせ誰もわかりゃしないとか、道が広いからとか、勝手に自分で理由をつけていた。

 そうではない。ただただ、足がすくむのだ。

 夢に抱いた熱望と絶望が、これほど自分を揺さぶるとは思ってもみなかった。

「本当に、良くも悪くも、ここだけなんだよな」

 やるせないものを飲み下す。
 気配を感じ下を見た。鮮やかな刺繍を施した帽子が、家の軒先に腰を下ろし、いつものようにパイプを吹かし始めた。
 町を行き交う若い人々は無関心だが、年配のものは老人に会釈をしていくこともある。老人は軽く手を挙げて答えるだけで、あとは日がな一日、ずっとふかしている。

 目線の先にはいつも開発局。ソーイチはしばらく老人を見下ろしていた。