昨日、夜中まで練り歩いたから眠っているのだろう、人気がほとんど感じられない町を、ソーイチは東に向かう。この地特有の強い風が砂を巻き上げる中を、痛む足を引きずりながら、一歩ずつ優しい香りがいる方へとむける。

 突然、地面に黒い影ができた。

「なんだ? この猫? おかしな歩き方してやがる」

 ゆっくりと見上げてみる。紺のズボンに、ジャラジャラと警棒や銃をぶら下げた腰回り。胸元の分厚い板は防弾用である。白い肌と彫りの深い顔をしたイシリアンテ人の兵だった。
 ここでの兵は、検問だけでなく、治安を守ることも仕事の一つである。おそらく、昨日から始まったパレードで暴動が起きないよう、巡回していたのだろう。

 どれどれ、ともう一人の兵がソーイチの襟首をつまみ上げた。もっさりとした団子鼻の前に持ってこられる。吐く息の酒臭さにソーイチは顔を背けた。

「コイツ、サナムの店の猫じゃねぇか?」

 臭い息を吹きかけながら、兵がもう一人に言う。浮かべた笑みに嫌なものを感じた。
 とたん、強く地面に叩きつけられ、左足を踏みつけられた。

「がっ……!」

 人の声でうめきかけるのを、歯を食いしばってこらえる。兵は右に、左にと足を動かしソーイチの足を踏みしめる。前足の爪で大地を握りしめると、沸き上がる痛みを必死にこらえた。

「あの女、どれだけ貢がされてと思ってんだよ!」
「腹いせに猫か? お前も根性悪いな」

 そう言いつつ、もう一人も止めようとはしない。

「うるせぇ。だいだい何だよこの黒猫の多さは! アグノゥサではどうか知らねぇが、イシリアンテじゃろくなことをしねぇ代名詞だ。……あーあ、お袋が嫌そうな顔してた意味がわかったよ」

 踏みしめる足にいっそう力がこもる。逃れようと爪を立て、体を引きずってみた。が、相手の方が体が大きい。靴の裏はしつこくはりつき、より強く踏みしめてくる。

「折ってしまえ」

 足をかけていない兵が冷ややかに言う。ぺろりと舌なめずりをすると、ギリギリと音を立てて踏みつけにかかった。
 もう、人の声すら出ない。開いた喉の奥から何かがあふれそうになり、見開いた目からこぼれる涙が、乾いた土に吸い込まれる。白く、混濁していく意識の中で、よぎった。

 オレも、あの子にこんなことをしたのか――。

「やめてぇ!」

 金切り声と共にのしかかっていた重みが消え去る。一瞬、暗くなったと思うと慣れ親しんだ優しい匂いに包まれた。

「ソーイチ? ソーイチ!?」
「……ミラ?」

 頬が、こけたように見えた。
 目の下にはクマ。ぼさぼさの髪。かさかさに乾いた唇は震えている。体は自分と同じくらい、冷えていた。

「昨日、ちゃんと寝たのか?」

 首を振る。じわりと目の端に安堵がにじみ上がった。

「……ソーイチがそばにいないと、眠れない」

 引き寄せられた胸元から伝わる鼓動が、早い。しっかりと抱きしめられ、体の奥底から熱さを感じる。顔がほてるのは、熱のせいではないはずだ。

 ――オレの鼓動も、伝わっちまうじゃねぇか

「このやろう……! よくも!」

 突き飛ばされた兵が、ぎらりとにらみながら体を起こすと、ミラの背を蹴りつけ始めた。ミラはソーイチを抱え、覆いつくすとその場にうずくまり、身を固くした。ドン、ドン、と打ちつける足の振動が伝わってくる。

「てめぇ! 何しやがる! 相手は何もしてねぇじゃねぇか!」

 もうかまわず、ソーイチは怒鳴りつけた。

「キミ達、何してるの?」

 振動が止まる。ミラにのしかかっていた重みがさっと引いた。伝わる兵達の緊張。ミラが体を起こし、視界が開けると、声の主にホッと息がもれた。
 珍しく、胸元にある階級章をちらつかせながら、穏やかに笑みを浮かべたテッドが、ゆっくりとこちらに歩を進めてきていた。

「この女性、何かしたの?」
「突き飛ばされまして……」

 口ごもる兵達に、テッドはさも驚いたように目をひんむいてみせた。

「そりゃあ大変だ! でも、男二人がか弱い女性一人を、よってたかって蹴りつけるのは……」
「しかし、ほら! 私はこの女のせいでケガを負いました!」

 すりむけた手を見せる。テッドは笑いをかみ殺すのに精一杯のようだ。

「確かに、小さな暴動の目も押さえ込むことがキミ達の仕事だ。だけどね、今のを他のアグノゥサ人が見てたらどうだろう? より大きな暴動が起きるよ」

 少しずつ鋭さを増していくテッドの視線から逃れるように、二人はうつむいていく。痛めつけ具合を確認するかのように、テッドが近寄った。

「そろそろ帰って、紅茶の時間にでもしたらどうだい?」

 テッドが兵の手を取ると、何かを握らせた。とまどう目を向けられたテッドは、人差し指を唇に当てる。目を見合わせ、失礼しますときびすを返した兵達の背に、テッドは追い打ちをかけた。

「バーニーによろしくね」

 肩をすくめた兵は、もう一度振り返り、テッドに敬礼をして足早に立ち去った。

「バーニーって?」
「バーニー・イング陸軍少将」
「ボクの友達なんだ」
「あの下っ端兵にとっちゃ、雲の上の存在だ」

 そういうテッドの胸元には、金の地に一本のラインが入ったバッジが光っている。少将相当官の印である。

「顔に似合わず、きたねぇことをやるじゃねぇか」
「清も濁も併せのむのがボクの主義」

 目をあさっての方向にそらして、ごまかす。すると、少々真顔になりソーイチの左足を見た。

「とりあえず、病院に行こう。熱も出ているようだし」

 ミラが頷くと、そのまま病院の方向に歩き始めた。

 蛇に襲われた辺りを過ぎようとしたとき、あちらこちらから視線を感じた。その中の一つを見定めると、ソーイチはニッと笑みを返した。