「いつもは屋根から見てるから、ここからじゃ、どこがどこだがわからねぇ」
通りに出たソーイチは見慣れぬ景色に目をキョロキョロさせる。昨日もミラに抱きかかえてもらってここまで来たため、全く見当がつかなかった。
「学校を通り過ぎて、それからどうしたっけ……?」
路地を出たところにベンチがある。昨日、水を飲んでいたところからあまり離れていないようだ。
射す光にソーイチはくっと目を細めた。高い建物に囲まれてはいるが、幸い光の方向から太陽の位置が推測できる。ひげの先にわずかに感じる湿り気。夜に冷えた空気が、今ぬくめられている。
「朝なんだな。じゃ、こっちか」
ミラの店は町の中心の一番東の端にある。ソーイチは太陽に向かって歩き始めた。
歩き始めると、わかる。
野生生物として今、深刻な状況に置かれていることが。
腫れていることがわかる後ろ足。
熱でほてった体。
仲間も、いない。
蛇に狙われても当然だ、とソーイチは自嘲的にひげを上げる。ふと、思わぬ考えが頭をよぎった。
このまま、帰らない方がいいんじゃないか。
昨日、ミラは一度通り過ぎ、戻っていった。側溝にはまり込んでいることに気づかず、パレードと共に去って行った。あれは案外本心なのかもしれない。だいたい、自分を捜すいわれなんてアイツにはない。無理矢理、奪おうとしたのだから。
嫌な思い出と共に消え去れば、ミラは幸せになれるんじゃないか。
ソーイチはその場に立ち止まった。
ゆっくりと頭を垂れ、射す朝日から視線を外す。黒く、毛深い己の手をじっと見つめた。
これからは本当に、猫として生きるのか。
猫として、生きていけるのか。
さあぁっと、風が砂埃を巻き上げる。がらんと誰もいない通りでは、心の芯がじわりじわりと冷えていく。
今は春だ。体は熱を帯びている。なのに、震えが止まらない。ソーイチは押さえ込むように地に伏せ、身を縮こまらせる。しっぽを痛む左足に沿わせ、前足を引きつけその中に顔を埋める。頬に触れるのはふさふさとした毛。ミラのあごを押さえ込んだ手は、触れることくらいしかできない。たとえ治っても、二本の足で立てるわけではない。
黒い、黒い、毛深い体。
寄ればくすぐったい、ヒゲのある体。
熱いスープが飲めない体。――震えはさらに増した。
「オレが、いなくなりゃいいんだよ……!」
目の端からぽたりとひとしずく、前足に落ちる。その湿り気がふと、思い出させた。
事故から間もない頃である。
ミラは毎日のようにうなされていた。
びっしりと玉のような汗を額に浮かべ、言葉にならないうめき声をもらす。起こそうとゆさぶっても、目は覚めてくれない。覚めて、夢だったのかと思うことすらできない。それはある意味地獄である。
何もできず、ただ、毎日ミラが寝た後、ベッドのすみにとぐろを巻いていた。
ある日、今までになくミラのうめき声が大きくなった。あわててとび起き、そばに寄る。歯を食いしばり、何事かに耐えるミラが痛々しく見てられなかった。
せめて汗を拭ってやろうと、ふわふわとした自分の前足を、ミラの額に置いたときである。
「ミラ……?」
あれだけ苦しそうにしていた表情がほどけ、うめき声が治まった。すっと汗をぬぐい取り、足を上げるとまたうめく。もう一度足を額に置くと、やはり穏やかになり、寝息を立て始めた。
まだ自分がソーイチであることを、ミラに知らせていない時期だった。
今はこの猫くらいしか、支えになるものがないのか――。
うめくことなく寝られるようになる日まで、ソーイチは汗を拭ってやったのである。
じっと前足を見つめた。
いまでも爆発音はダメで、安定剤は手放せない。
まだ自分には、やってやれることがある。――たとえ、求めているのがこの猫の姿だけであっても。
ぐっと前足に力を入れた。上半身を起こす。またぐわり、と世界が揺れる。右足に力を込めると、ぐらぐらとするものの、なんとか大地を踏みしめた。左足が触れるたび痛みが伝わる。
「熱でぼんやりしているよりは、マシか」
ニヤリとひげを跳ね上げると、ソーイチは太陽に向かって一歩足を踏み出した。
通りに出たソーイチは見慣れぬ景色に目をキョロキョロさせる。昨日もミラに抱きかかえてもらってここまで来たため、全く見当がつかなかった。
「学校を通り過ぎて、それからどうしたっけ……?」
路地を出たところにベンチがある。昨日、水を飲んでいたところからあまり離れていないようだ。
射す光にソーイチはくっと目を細めた。高い建物に囲まれてはいるが、幸い光の方向から太陽の位置が推測できる。ひげの先にわずかに感じる湿り気。夜に冷えた空気が、今ぬくめられている。
「朝なんだな。じゃ、こっちか」
ミラの店は町の中心の一番東の端にある。ソーイチは太陽に向かって歩き始めた。
歩き始めると、わかる。
野生生物として今、深刻な状況に置かれていることが。
腫れていることがわかる後ろ足。
熱でほてった体。
仲間も、いない。
蛇に狙われても当然だ、とソーイチは自嘲的にひげを上げる。ふと、思わぬ考えが頭をよぎった。
このまま、帰らない方がいいんじゃないか。
昨日、ミラは一度通り過ぎ、戻っていった。側溝にはまり込んでいることに気づかず、パレードと共に去って行った。あれは案外本心なのかもしれない。だいたい、自分を捜すいわれなんてアイツにはない。無理矢理、奪おうとしたのだから。
嫌な思い出と共に消え去れば、ミラは幸せになれるんじゃないか。
ソーイチはその場に立ち止まった。
ゆっくりと頭を垂れ、射す朝日から視線を外す。黒く、毛深い己の手をじっと見つめた。
これからは本当に、猫として生きるのか。
猫として、生きていけるのか。
さあぁっと、風が砂埃を巻き上げる。がらんと誰もいない通りでは、心の芯がじわりじわりと冷えていく。
今は春だ。体は熱を帯びている。なのに、震えが止まらない。ソーイチは押さえ込むように地に伏せ、身を縮こまらせる。しっぽを痛む左足に沿わせ、前足を引きつけその中に顔を埋める。頬に触れるのはふさふさとした毛。ミラのあごを押さえ込んだ手は、触れることくらいしかできない。たとえ治っても、二本の足で立てるわけではない。
黒い、黒い、毛深い体。
寄ればくすぐったい、ヒゲのある体。
熱いスープが飲めない体。――震えはさらに増した。
「オレが、いなくなりゃいいんだよ……!」
目の端からぽたりとひとしずく、前足に落ちる。その湿り気がふと、思い出させた。
事故から間もない頃である。
ミラは毎日のようにうなされていた。
びっしりと玉のような汗を額に浮かべ、言葉にならないうめき声をもらす。起こそうとゆさぶっても、目は覚めてくれない。覚めて、夢だったのかと思うことすらできない。それはある意味地獄である。
何もできず、ただ、毎日ミラが寝た後、ベッドのすみにとぐろを巻いていた。
ある日、今までになくミラのうめき声が大きくなった。あわててとび起き、そばに寄る。歯を食いしばり、何事かに耐えるミラが痛々しく見てられなかった。
せめて汗を拭ってやろうと、ふわふわとした自分の前足を、ミラの額に置いたときである。
「ミラ……?」
あれだけ苦しそうにしていた表情がほどけ、うめき声が治まった。すっと汗をぬぐい取り、足を上げるとまたうめく。もう一度足を額に置くと、やはり穏やかになり、寝息を立て始めた。
まだ自分がソーイチであることを、ミラに知らせていない時期だった。
今はこの猫くらいしか、支えになるものがないのか――。
うめくことなく寝られるようになる日まで、ソーイチは汗を拭ってやったのである。
じっと前足を見つめた。
いまでも爆発音はダメで、安定剤は手放せない。
まだ自分には、やってやれることがある。――たとえ、求めているのがこの猫の姿だけであっても。
ぐっと前足に力を入れた。上半身を起こす。またぐわり、と世界が揺れる。右足に力を込めると、ぐらぐらとするものの、なんとか大地を踏みしめた。左足が触れるたび痛みが伝わる。
「熱でぼんやりしているよりは、マシか」
ニヤリとひげを跳ね上げると、ソーイチは太陽に向かって一歩足を踏み出した。