――バタバタと身の上を何かが駆けていく。その中にふんわりと慣れ親しんだ、優しい匂いがあった。通り過ぎた足音は、今度はゆっくりと重そうに戻ってくる。大丈夫、戻ってくるよという声と共に、足音達は通り過ぎていった。
ほの明るい光の群れが、ゆっくりと遠ざかる。ソーイチはまた、まどろみの中に意識が溶けていった。
カチカチ、と歯を鳴らしている自分に気づき目が覚めた。辺りは白く柔らかく光が差し込んでいる。寒かった。
「くそっ、また絡まれたのか。門限破ったからババァに怒られるな」
白髪をキュッと後ろでまとめた寮母の老婦人は、ちょくちょく門限を破るソーイチを目の敵にしている。
伸ばそうとした手が黒く毛深いことに気づき、意識がしっかりしてきた。
「そうか。オレ、今猫だったか」
こののっぺりした顔のせいだろうか、士官学校の寮生時代、わけのわからないチンピラに絡まれては、路上で気を失い、門限を破ることがたびたびあった。日の光、寒さ、痛む体が、記憶をかき混ぜてしまったようだ。
歯の根がカチカチとかみ合わない。と同時に、ぼおっと背筋の奥底から熱いものが駆け上がってくる。横になっているのはわかるのだが、ぐらりぐらりと地が揺れた。
「熱が出始めたか」
反射的に身を縮める。それと共にきしむ体。思わずうめき声をもらした。
「ここ、どこだ?」
痛む頭の中から、記憶を引っ張り出す。
「そうか。ロケットの張りぼてが倒れてきて、ミラを突き飛ばして……」
体を弾かれ、打ちつけられて意識を失ったのだ。
「てことは、町の中か」
だが、周りは灰色の壁ばかりで、身を縦に伸ばすことはできても、左右に動かすことはできない。目だけを動かしてみると、見上げた辺りに四角く切りとった空が見える。身の下はじめっと冷たい。
「側溝か」
飛ばされて、すぽりとはまったようである。
「よくこんな乾いたところで水がたまって、苔が生えていたよな」
下には厚い苔がみしりと伸び、頭を支えてくれている。どうもそれが衝撃を受けてくれたようだった。
体をうつ伏せにし、そろりと前足を立ててみる。多少頭がぐらぐらするものの、なんとか前足は立てた。
体勢を調え、後ろ足に力を込める。そのとたん、一気に衝撃が体を突き抜けた。前足からも力が抜ける。苔の上にどさりと身が落ちた。そのまま少しずつ後ろ足を動かしてみる。左足の足首を動かしたとき、また痛みが走った。
「くじいたか、それとも折れたか」
舌を打ち鳴らす音が、思いのほか側溝に響く。
その時、シュー……、と息を吐く嫌な気配が頭の向こうに広がり始めた。ぞわりと体に粟粒が走る。わずかに差し込む朝日に、ぬらりとした体が照らされる。ちろり、ちろり、と見える舌先に唇を噛んだ。
「こんな時に……!」
動く前足と右後ろ足を使い、少しずつ後ずさりする。背の高い建物と建物の間で、届く光はさしてなく、どんな蛇だか見分けがつかない。どうやら興味を示した蛇は、動きのおかしい黒猫に、じりり、じりりと間を詰めていく。あわせソーイチも下がる。ふと、腰の辺りにぶつかるものを感じた。
「行き止まりか……」
コンクリート製のふたが背をはばむ。脇の地面に飛び移るしかなかった。が、その瞬間に蛇が襲いかかってくるのは間違いない。だが、この足でそれをかわすことは……。
すうぅっと、蛇が鎌首を持ち上げる。逆光で模様は見えないが、太い。ソーイチはわずかに体勢を低くすると、後ろ足を踏んばり、前足の爪をかり、と立てる。
ふと、目に入った。
建物の隙間。頭上の窓際。背にある明るい通りのそこかしこ。細めたり、見開いたりした目が、鎌首をもたげた蛇に注がれている。一つの気配がザリ……、と音を立てる。それで初めて、ソーイチは片目を気配に移す。
あたり一帯に黒猫がいた。
黒猫の一群は微動だにせず、じっと蛇を見つめている。すると蛇は鎌首をおろし、ずるりずるりと方向を変えると、その場から立ち去っていった。
這いずる音が遠くに行ったのを見計らって、ソーイチは側溝から前足を地面に出した。右の後ろ足を出し、三本の力でぐぐっと体を引き上げる。どさりと左足をついたときまた、鈍い痛みが体を走った。
肩で息をしながら、周りをうかがうと、猫達はじっと、ソーイチを遠巻きに見つめたままである。
「助けてくれて、ありがとよ」
人の言葉で応えると、一匹の猫がぴん、と耳を立てた。
「わかるのか? たいてい飼い猫だから、聞き慣れてはいるか」
耳を立てた猫にニヤリと笑みを返す。そのままずるりずるりと足を引きずり、ソーイチは日の当たる通りに出る。
猫達は一定の距離を保ったまま、じっとソーイチが行くのを見つめていた。
ほの明るい光の群れが、ゆっくりと遠ざかる。ソーイチはまた、まどろみの中に意識が溶けていった。
カチカチ、と歯を鳴らしている自分に気づき目が覚めた。辺りは白く柔らかく光が差し込んでいる。寒かった。
「くそっ、また絡まれたのか。門限破ったからババァに怒られるな」
白髪をキュッと後ろでまとめた寮母の老婦人は、ちょくちょく門限を破るソーイチを目の敵にしている。
伸ばそうとした手が黒く毛深いことに気づき、意識がしっかりしてきた。
「そうか。オレ、今猫だったか」
こののっぺりした顔のせいだろうか、士官学校の寮生時代、わけのわからないチンピラに絡まれては、路上で気を失い、門限を破ることがたびたびあった。日の光、寒さ、痛む体が、記憶をかき混ぜてしまったようだ。
歯の根がカチカチとかみ合わない。と同時に、ぼおっと背筋の奥底から熱いものが駆け上がってくる。横になっているのはわかるのだが、ぐらりぐらりと地が揺れた。
「熱が出始めたか」
反射的に身を縮める。それと共にきしむ体。思わずうめき声をもらした。
「ここ、どこだ?」
痛む頭の中から、記憶を引っ張り出す。
「そうか。ロケットの張りぼてが倒れてきて、ミラを突き飛ばして……」
体を弾かれ、打ちつけられて意識を失ったのだ。
「てことは、町の中か」
だが、周りは灰色の壁ばかりで、身を縦に伸ばすことはできても、左右に動かすことはできない。目だけを動かしてみると、見上げた辺りに四角く切りとった空が見える。身の下はじめっと冷たい。
「側溝か」
飛ばされて、すぽりとはまったようである。
「よくこんな乾いたところで水がたまって、苔が生えていたよな」
下には厚い苔がみしりと伸び、頭を支えてくれている。どうもそれが衝撃を受けてくれたようだった。
体をうつ伏せにし、そろりと前足を立ててみる。多少頭がぐらぐらするものの、なんとか前足は立てた。
体勢を調え、後ろ足に力を込める。そのとたん、一気に衝撃が体を突き抜けた。前足からも力が抜ける。苔の上にどさりと身が落ちた。そのまま少しずつ後ろ足を動かしてみる。左足の足首を動かしたとき、また痛みが走った。
「くじいたか、それとも折れたか」
舌を打ち鳴らす音が、思いのほか側溝に響く。
その時、シュー……、と息を吐く嫌な気配が頭の向こうに広がり始めた。ぞわりと体に粟粒が走る。わずかに差し込む朝日に、ぬらりとした体が照らされる。ちろり、ちろり、と見える舌先に唇を噛んだ。
「こんな時に……!」
動く前足と右後ろ足を使い、少しずつ後ずさりする。背の高い建物と建物の間で、届く光はさしてなく、どんな蛇だか見分けがつかない。どうやら興味を示した蛇は、動きのおかしい黒猫に、じりり、じりりと間を詰めていく。あわせソーイチも下がる。ふと、腰の辺りにぶつかるものを感じた。
「行き止まりか……」
コンクリート製のふたが背をはばむ。脇の地面に飛び移るしかなかった。が、その瞬間に蛇が襲いかかってくるのは間違いない。だが、この足でそれをかわすことは……。
すうぅっと、蛇が鎌首を持ち上げる。逆光で模様は見えないが、太い。ソーイチはわずかに体勢を低くすると、後ろ足を踏んばり、前足の爪をかり、と立てる。
ふと、目に入った。
建物の隙間。頭上の窓際。背にある明るい通りのそこかしこ。細めたり、見開いたりした目が、鎌首をもたげた蛇に注がれている。一つの気配がザリ……、と音を立てる。それで初めて、ソーイチは片目を気配に移す。
あたり一帯に黒猫がいた。
黒猫の一群は微動だにせず、じっと蛇を見つめている。すると蛇は鎌首をおろし、ずるりずるりと方向を変えると、その場から立ち去っていった。
這いずる音が遠くに行ったのを見計らって、ソーイチは側溝から前足を地面に出した。右の後ろ足を出し、三本の力でぐぐっと体を引き上げる。どさりと左足をついたときまた、鈍い痛みが体を走った。
肩で息をしながら、周りをうかがうと、猫達はじっと、ソーイチを遠巻きに見つめたままである。
「助けてくれて、ありがとよ」
人の言葉で応えると、一匹の猫がぴん、と耳を立てた。
「わかるのか? たいてい飼い猫だから、聞き慣れてはいるか」
耳を立てた猫にニヤリと笑みを返す。そのままずるりずるりと足を引きずり、ソーイチは日の当たる通りに出る。
猫達は一定の距離を保ったまま、じっとソーイチが行くのを見つめていた。