「アルバートだと思ったか?」

 店の戸口に立ち、かぶっていたフードを脱いでマスクを剥ぐ。月明かりのみの店の中で、ミラは目を見開いていた。

 マスクを放り投げそのままミラのそばに寄る。おびえるミラが後ずさりする。間に黒猫が割り込もうとしたのを払いのけ、そのままずんずん近寄った。壁を背に後がなくなったところで、ソーイチはミラの唇を奪い取った。

 逃れようとするのを押さえつけていると、そのまま二人で崩れ落ちる。ミラの両手を左手で押さえつけ、またがる。右手でのど笛を押さえ込むと、再び唇をむさぼった。
 荒く息をつき、一度放す。拒み、歯を食いしばるミラの口を手でこじ開け、舌を滑り込ませた。奥深くまでからめ、ミラがむせようがかまわない。全てを吸い取りたい、ただその事に集中した。

 昨日の姿がいけなかった。
 パレードのさなか、路地裏で影が重なる瞬間を見てしまった。

 褒めようがけなそうが、何をしてもなびきもしない。むしろ、母親のようにこちらを気づかい、説教をたれてくる。――揺さぶられる心を、押さえ込む術があるだろうか。

 どうせ願ってもかなわない。ならば、いっそ――

 ミラの白いブラウスの襟元に手をかけたときだった。
 見開いた目が強い光を放ち、こっちをしっかり見ようとしていた。もちろん、目からは大粒の涙があふれ、頬を伝い落ちている。こわがるでもなく、責めるようなそぶりでもない。訳がわからず、手を止めた。

「……何だよ」
「しっかり見届けようと思って」

 思いがけない一言に眉根を寄せた。

「たとえ体は奪われてしまっても、心を奪うことはできません。そんな愚かなことをするイシリアンテ人を見届けようと思って」

 声が、うわずっていた。
 押さえ込んだ手は小刻みに震えている。涙は後から後からあふれ出ている。それでも、こちらを強く、見つめていた。

「やめろよ。見りゃわかるだろ? オレだって生粋のイシリアンテ人じゃない」

 そう言って、ソーイチはミラから離れた。


 祭りが終わった次の日。ソーイチは再びミラの店を訪れた。

 カウンターの向こうでタマネギを刻んでいたミラはおびえ、肩を震わせる。そばにいた黒猫は、主人を守ろうと背を丸め威嚇してきた。

「何もしねぇから」

 高く挙げた両手の片方には、紙包みを握りしめていた。

「近寄っていいか?」
「……カウンターまでなら」

 ソーイチはあえて猫のそばに近づき、手にした紙包みを置く。置くとまた、店の戸口まで後ずさりし、両手を挙げた。

「開けてみてくれ」

 黒猫は威嚇の姿勢を崩そうとはしない。おそるおそる手を伸ばし、ミラが紙包みをつかむ。開いてみる。現れたのは琥珀色に茶の波紋を広げた棒だった。先は細くすぼまり、反対側は木の葉のように広がっている。

「かんざし、っていうヘアアクセサリーだ。使い方は、メモが入れてあるだろ?」

 手にしたかんざしから顔を上げたミラは、驚きと疑念を顔に浮かべている。

「この間の、わびだ」

 まともに顔が見られず、視線を流す。つい、声がおどけた。

「一応、本物のべっ甲だ。母親が養育費代わりに置いていったみたいだぜ」

 見開くミラの目に気まずくなり、話題を変えようとした。が、口から継いで出てくるのは心の根だった。

「イシリアンテに来るとき、他のものは一切捨ててきたんだけどよ。……それだけは処分できなかった」

 陽だまりが店の中に差し込む。じっと押し黙り、かんざしを見つめていたミラが顔を上げた。

「いただきます」

 避けていた目をミラに戻す。かんざしを握った手はまだ震えている。少々うわずった声ながら、強く、きっぱりと言い放たれた。

「今度、あんなことをしたら、この先で刺してあげます。お母さんの代わりに」

 目をひんむく。次第に笑いが込み上げていた。



 カタンと目の前に小皿が置かれる。適度に冷まされた、トウモロコシのスープだった。

「ん。うまい」

 ぺちゃり、と舌なめずりをすると、ミラがほほえむ。笛の音と太鼓の音に合わせて、ミラがまた、タマネギを刻み始めた。