夕闇が町の影を長く伸ばし始める。耳障りな音に黒猫はぷるんと耳を揺らした。

「あ……、と。もうそんな時間かよ」

 日だまりが暖かく、ついウトウトしていた。聴けば、眼下では子どもたちがボール遊びに興じている。ソーイチはけだるそうにあくびを一つした。

 この時間、町の目抜き通りは車の通りが少ない。だから、子どもたちの格好の遊び場になっていた。そしてその様子を、刺繍を施した帽子をかぶった老人がいつも見守っている。車が来ると老人の水煙草の煙が勢いよく吐き出されるので、子どもたちはわかるらしい。だが、屋根の上にいるソーイチは、毎度その煙で視界がさえぎられ、いい迷惑だった。

「あ! チビ、起きた!」

 一人の子がこちらに気がついた。それを合図に、子どもたちがわらわらと寄ってくる。フン、と鼻を鳴らすと、ソーイチは屋根に寝そべりそっぽを向いた。

「あー、チビ。かわいくなーい」

 残念そうに一人がぼやくと、それを合図にまた、ボール遊びに戻っていく。だが、明日にはまた同じことがくり返される。懲《こ》りるということを覚えろよ、とソーイチは鼻で笑う。そういうときに限って、下からもうもうと白い煙が沸き上がる。咳き込みながら見下ろすと、老人はうまそうにパイプをふかしていた。

「あのじじい、一度鉄拳をお見舞いしてやらねぇとな」

 前足の爪をかり、と立てたとき、遠くに、空色のツナギを着た青年を見つけた。
 色素の薄い金髪に顔を隠すように、うつむきながら大通りを渡ってくる。すると、見つけた子どもたちが次々に声をかけてきた。

「すっかり、なつかれてやがる」

 イステアを助けた一件が、利発そうな姉から皆に伝わったらしい。ロイを見かけると子どもたちは声をかけるようになっていた。ロイはぎこちないが、それでも、親しげに言葉を交わしている。そんなロイを見て、ソーイチは口の端を引き上げた。

「よう。いらっしゃい。ロイ・アストン大尉相当官殿」

 賑やかな色彩の屋根から出迎えてやると、少々むっつりしながらロイはソーイチを見上げた。

「そんな所にいたんですか。店はいいんですか」

 ソーイチの正体がわかってから、ロイは黒猫に敬語を使い、その姿勢を崩そうとしない。

「お前、いいかげんにそれ止めろよ。くすぐったくてしょうがねぇ」
「無理ですよ。ウチは代々軍人です。身に染みついた習慣ってのは、なかなか取れませんからね」
「これはこれは、たいしたもんだ」

 ソーイチはロイの頭を踏み台に、とん、と地面に降り立つ。扉を押し開けると、腹の奥底をくすぐるような、よい匂いがあふれ出した。

 ミラが食卓を調える。今日のスープはピリリと辛みの効いたスープである。仕込みの最中に少し舐めさせてみたが、やはりまだ味覚は戻っていないようだった。
 トマトとはまた違う真紅のスープに、ロイは最初とまどいを見せ、ひとさじすくって眉をしかめたが、その後は水を何度も飲みながら、夢中で食べていた。

 不思議なのだが、ロイの食べている姿というのは、妙に人をほっとさせた。プライドが高くやや潔癖症という背景を、知っているせいかもしれない。口に入れた様を素直に表情に表す、そのギャップが、ほほえましく思えるのだ。

 ふと思いだし、ソーイチはニヤリと笑みを浮かべた。

「そういえば、来たぜ。スバルちゃん」

 急につかえ、咳き込むと、ロイは水に手を伸ばした。

「ロイが食べたら、きっとおいしそうな顔するんだろうな、ってな」

 ひげをくいっと上げ、ニヤニヤ笑う。恥ずかしそうに目を横にやるも、少々複雑な色を浮かべているのが気になった。

「しゃべってないのかよ」
「別に。あれ以来、距離を置いていますから」

 訓練生の寮を出るとき暴言を吐いたことは先日聞いた。それでも気にしていないと言われたことも。

「アイツは今、大事な時期です。オレとのややこしいことで気を患《わずら》わせたくない」

 ソーイチは前足をロイの左手にのせると、爪を出した。

「痛ってぇ! 何するんですか!」
「あのな。そういうときだからこそ、しっかりそばについていてやらなきゃいけないんだよ。船体の壁一枚へだてた外は、空気もない放射線いっぱいの危険な宇宙だ。そんな所に放り出されるんだぜ」

 口を閉じると、ロイは襟元に指を入れ、左右に動かした。

「経験者が言ってるんだ。ちょっとは仲良くしとけ」

 素直に首を縦に振る。満足げに胸を張ってカウンターに座ると、はたとロイがこちらを見た。

「経験って、どのあたりですか? ロケットは爆発してるから、宇宙には行ってないし……」
「お前な! せっかくいいこと言ってやったのにぶちこわしやがって! 取りあえずロケットには乗り込んだだろうが!」

 威嚇の体勢を取るソーイチに、ロイがピクリと眉を上げる。キンキンと耳に響く金属音をミラが奏でるのは、数分後だった。