はっ、はっ、と吐くことに集中しながら砂埃を巻き上げる。

 左手にはずらりとコンクリートでできた集合住宅が建ち並び、右手には遠目に鈍色の塀が見える。局員の居住区は町の中心と違い、殺風景なものだ。建物の間にところどころにひょろりと貧弱な木が植えられていて、他に花などは見あたらない。この土地ではこの程度が精一杯なのである。
 そそり立つ暗い色の壁がずんと肩にかかる。無機質な色に挟まれながら、ロイは吐くことに集中した。

「へぇ……。走り込んでるんだ」

 足が止まる。集合住宅から出てきたばかりのイーハンだった。

「体が資本ですから……、一応」

 呼吸を整えながら答える。毎日走ってるの? と聞かれ、口が開けず頷いた。
 だが、士官学校時代は結構さぼっていた。ただ、黙々と走ることに意味を見いだせなくて。まともに走るようになったのは、訓練生になってから。――イーハンの言葉に、わずかに目を見開いた。
 ふぅとわざとらしくため息を吐くと、イーハンは諭すように、だが、冷ややかに言った。

「キミもそろそろ考えた方がいいんじゃないか?」
「え?」
「第八期運行指揮官の辞退」

 頬を伝った汗が、あごからしたたり落ちた。

「今度の計画は、ある意味国家の威信をかけたものだ。でも、どうやらキミは、まだ心の整理がついていない。中途半端な人間がいるのは足手まといだ。」

 噴き出す汗が心に張り付く。
 わかっていたはずだ。
 大気圏を突き破ることはできないことを。
 わかっていたはずだ。
 己の努力が無意味なことを。
 頭では理解していても、体が、心が、勝手に自分を走らせている。――確かに、愚かだ。

 オレは、何の為に……。

 ぽとり、とまた汗があごからしたたり落ち、乾いた砂地に濃いしみを作る。ふと、ふてぶてしい笑みをした黒猫の顔が浮かんだ。

「……いけませんか?」
「え?」
「ただ、宇宙に関わりたい。それだけじゃいけませんか?」

 考えるより先に口が動く。

「どうしても宇宙に関わりたい。少しでもその世界を味わいたい。つながっていたい。だから、開発局にしがみついている。それじゃ、いけませんか?」

 一気に言い切り、むせた。大きく息を吸い込むと、顔を上げる。片眉をきゅっと跳ね上げたイーハンに会釈すると、ロイはまた、走り出した。
 気のせいか、さっきより足が軽く感じられた。    

 ゲートを背にすると、通りを挟んで町の中心が目に飛び込む。開店間もない商店町は賑やかだ。
 アグノゥサ人は鮮やかな色彩を好む。こちらの居住区と違い、建物の壁は思い思いの色に塗り上げられている。オレンジ。黄。緑。青。だが、あの屋根に勝るものはない。だんだんはっきりとしてきたミラの店を見、ロイがクスリと笑った時だった。

「何!?」

 爆音が辺りに轟《とどろ》く。
 開発局に近い店の前に火が見え、停めてある車から白い煙が噴き上がっている。付近の店からは消火器を持った人達が飛び出し、今、ピンに手をかけた。
 すると、車の持ち主らしき人物が大きく手を振り何事かを叫んでいる。それを聞き、消火器を持っていた人達のこわばった肩がゆっくり下ろされた。

「アフターファイヤーだと」
「びっくりした。そろそろ車を点検した方がいいんじゃない?」

 安堵の表情を浮かべ、ぞろぞろと店に帰っていく。その中で、道にうずくまる黒い影を見て、ロイは近づこうと歩を進めた。
 が、足がぴたりと止まった。

「落ち着け! ミラ! あれは車だ。アルバートはもういない。オレもこんな体だ。あのことはもう終わったことなんだ……!」

 うずくまり、カタカタと小刻みに震える飼い主の膝元で、黒猫が必死にささやいている。

 ぐるり、ぐるり、と言葉が巡る。
 パチリ、パチリと出来事がパズルのように組み合わさっていく。
 手に残ったこのピースを当てはめれば完成する。だが、その事実に心が追いつかない。人差し指を襟元に入れ、心持ち広げると、ロイは開発局に足を向けた。


 階段を駆け上がり、管制棟に入る。一階エントランスの右手にはずらりと写真が並んでいた。皆青いツナギを着、笑みをたたえている。
 写真は規則的に飾られていて、それぞれの左端にプレートがつけられていた。一番上は「第一期有人飛行計画搭乗宇宙飛行士」とある。上から七番目の列にロイは目を凝らした。そこには三人の写真が飾られている。

 ロイは左から順に名前を読み上げた。

「エリック・アンダー、アルバート・ジョゼフ……」

 喉が音を立てる。

「ソーイチ・……、マカベ」

 少し長めの黒い前髪からニヤリと笑いかける雰囲気は、黒猫にそっくりだった。