右肩を日が染める。吐くことに集中しながら、ロイはややうつむき加減で足を蹴りあげた。
 仕事が明けたのが早朝だったため、今日は今、走っている。運行指揮官となっても、この習慣は消えなかった。開発局のグランドを走るとスバル達と会ってしまう。だから今は、居住区をぐるぐると走ることにしていた。

 開発局に近くなると、あの老人が見えてくる。今日はぼんやりした目ではなく、どこかを見つめている。視線の先を追うと、幾人かの子どもがボール遊びをしていた。手で打ったり、足で蹴ったりしながら、順番にボールを回し、その回数を楽しんでいるらしい。子どもが騒ぎ合っているのが楽しいのか、ほんのちょっぴり目じりに笑みを浮かべながら、老人はパイプをくわえた。

 手を伸ばした子どものはるか上を、ボールが飛び越えていく。一つ、跳ねると、それはロイの手にすっぽりと収まった。
 ボールを逃した男児が駆け寄ってくる。子どもたちの中でひときわ小さい。そのそばには利発そうな少女もついてきていた。
 少年がうめき声のようなものをあげる。眉をひそめていると、隣の少女が言った。

「ごめんなさい。ありがとうって」
「この子、口が……?」

 少女が頷いた。

「耳が聞こえないの」

 そうか、と納得するロイに、少年はニカッと笑ってみせる。夕日に照らされる白い歯がまぶしかった。
 ボールを渡し、居住区と町の中心をへだてる目抜き通りを渡る。たどり着いたとき、ボワッと老人が煙をふかす。目に染み、さすがにムッとした顔を向けると、老人の目じりがやはり少し、笑って見えた。

 店の前に立つと、初めて来た日より緊張した。この間はあのままスープを食べたが、何の味かも覚えていない。
 黒猫が言うには、自分が話せることは、飼い主であるミラとテッドしか知らないらしい。精一杯の勇気を振り絞ってなぜ話せるのか聞いてはみたが、「スープ、冷めるぞ」と言われ、はぐらかされた。

 黄金色のコの字型したドアノブに手を掛ける。

「押すんだぞ」

 中から男の声が聞こえる。はっと我に返り手を見ると、指が赤みを帯び、右足は一歩、後ろに下げていた。
 ドアを開けると、黒猫が「おう」と低いけだるそうな声で応対してくれた。それを聞き、ミラがいらっしゃいませと言いながら奥から出てくる。かいた汗が体を冷やす。悪い夢から目覚めたときのように、ロイは身震いをした。

「水、そこ」

 ぐでん、とカウンターに寝そべっている黒猫が、しっぽでグラスとサーバーを指す。おそるおそるサーバーに近づくと、平静を装いながらグラスに水を注ぐ。ちらりと横目でカウンターを見ると、黒猫が片目でこちらをうかがっている。取り落としそうなグラスとグッと握りしめると、ロイは黒猫と距離を取っていすに腰掛けた。

「きょ……今日は、寝てるんだ」

 ピクリと耳を動かすとソーイチはあくびをかみ殺した。

「働いてないとでも言いてぇのか? ほら、カワイイ黒猫ちゃんの寝姿をさらしてるじゃねぇか。癒やされただろ?」

 やる気なさそうに、しっぽをぱたりぱたりとふる。こんなふてぶてしい黒猫のどこに癒やし効果があるんだ、と思うと、おびえていた心が少し落ち着いた。
 その時、いつも野菜を運んでくる青年が、今日はタマネギを運んできた。

「チビぃ、元気かぁ?」

 青年はソーイチに手を伸ばし、溶けそうなぐらい笑みを浮かべながら、両手で包むように顔や頭をなでる。ソーイチはそれに答えるように「ニャア」と喉を鳴らした。

「な?」

 青年が帰ると、すました顔でそう答える。返す言葉のないロイは苦虫をかみつぶしたような顔でソーイチをにらみつけた。