ミラの店は相変わらず若干傾いているが、手入れがすみずみまで行き届いている。今日はスミレが小さく生けられている。その片すみで、すでにテッドが、紅茶の香りを胸に吸い込んでいた。

 この店は、荒涼とした何もないこの地のオアシスであるという役割を、ミラはよくわかっている。出しゃばらず、さりげなく役割を果たす。
 もちろん、チームワークだとは百も承知である。さっきもなんとかうまくやろうとして言ったのだ。しかし、うまくかみ合わない。先んずればでしゃばるなと言われ、遅れれば遅いといわれ、カラカラと一人空回りする。昔、友人の家で見た、滑車を回るネズミのように思えた。

 カウンターをぴしゃりと打つ音で顔を上げる。黒猫が水を運んできてくれていた。ちょこんと行儀よく座っているさまは、運び終えた後、声をかけるタイミングを待っていてくれたように感じる。

(猫ですら、わきまえているのにさ)

 ありがとう、と力なく礼を言った。

 皿を置いて卵形の杓子を手にし、いつもの呪文が始まる。慣れてくるとだんだんほほえましくなる。嫌味のない笑いを誘うのも、計算のうちなのだろうか。
 お待たせいたしました、と今日のスープを差し出された。具材が行進する暖かいひとさじを腑に落とす。口の中に広がる甘みとコクのさじかげんに、少々の羨望を込めたため息がもれた。

「ミラさん、トマト持ってきましたよー」

 店の入口が押し開けられ、若い男がいくつもの箱を運び入れる。中には真っ赤に熟したトマトが詰められていた。

「これはおまけ」

 箱の上にトマトが三つ置かれる。代金をもらい、男が去って行くと、黒猫がカウンターからストンと降り立った。積み上げられたトマトのそばに行くと、鼻をひくつかせ、匂いをかぎ始める。体を持ち上げ中をのぞき、トマトを見ている。その表情は品定めしているようにも見えた。

「おい、ダメだぞ、食べちゃ」

 ロイがたしなめたときだった。猫の重みでバランスの崩れた三つのトマトが床にころりと落ちた。

「あ! いけね!」
「大丈夫、つぶれてないよ」
「おう。悪いな、テッド」

 口に入れようとしたスプーンの手が止まる。
 そのまま、テッドとトマトと猫に目を向けてみた。

 テッドは何杯ものジャムを紅茶に溶かし込み、黒猫は鼻を鳴らしながらトマトを見、トマトは整然と並んでいる。
 が、空気は明らかに気まずさを残している。

「今、しゃべったの、誰?」

 誰も答えない。カウンターに立つミラも見てみた。目が合うと、ミラははっと目をそらし、タマネギの皮をむき始める。
 ロイは立ち上がると、積み上げられているトマトのそばに寄った。ふんふんと鼻を鳴らし、品定めしている黒猫のそばからトマトを一つ取り上げる。ロイは目の高さまで上げると、そのままパッと手を放した。

「あ! このやろ! 何しやがる!」

 べちゃっ、と床でトマトがつぶされる。目に映るのは怒りをあらわにする黒猫。その猫が発した鳴き声が、ロイにははっきりと聞き取れた。

「ソ……ソーイチ……!」

 テッドに言われ、我に返った黒猫は、取りつくろうように「ニャア」と鳴いてみる。もう、ごまかされなかった。

「猫が、しゃべった……!」

 まん丸に見開いてしまった目は、黒猫から外せない。頭の中であらゆるシミュレーションをしてみた。毎日書き続けている手順書を思い出した。だが、これに対応する手順が何一つ、ない。たったひとつだけ浮かび上がった方法に、己の感情を任せた。

「うそだろぉ!」

 叫ぶと、その場にへたり込む。ばつが悪そうにピクリとヒゲを動かした黒猫ことソーイチは、カウンターにひらりと飛び乗ると、背筋を伸ばして座る。見定めるようにロイを見つめた。

「ま、さすがは元訓練生だな。できる限り冷静に対処しようとした。合格」
「あ……ありがとうございます」

 不思議と、訓練生に戻ったような気になった。

「これはオレのミスだからしょうがねぇけど、このことは他のヤツには言うなよ」

 きちんと言葉の形に動く口から、目が離せない。

「返事」
「は……はい」
「声が小さい!」
「はい!」

 満足そうにヒゲを動かし、何事もなかったかのように、ミラとトマトの話を始める黒猫。その横でごく当たり前のように紅茶をすするテッド。ロイはまだ、頭の中で手順書をめくり続けていたが、やはり、該当する事例は見当たらなかった。