勤務を終えた頃、外はゆっくりと暮れかかろうとしていた。今日も天気がよく、沈む日はねっとりと辺りを濃い橙色に染め上げていた。その日が管制室前の廊下に差し込んでいる。見ると急に騒ぎ出す腹の虫。確か、隊列の一番最初はほろりと甘いニンジンだ。

 先日のスープはイシリアンテでよく食べられる家庭料理である。まだ母が生きていた頃は、見た目も美しいひと皿を用意してくれていた。もちろんうまいに決まっている。あれ以上のうまさはないと思っていた。
 それとくらべると、この間のは少々酸味が強く、素材の鮮度もまちまちだと思う。なにより不格好だ。しかし、身の奥底に明かりを灯し続ける暖かさは、あれに勝るものはないように思えた。

「不思議だよな。あの町に出たいと思うなんて」

 つぶやくと、ロイは階段を降りた。

 初めてゲートをくぐったとき、あまりの違いに呆然とした。
 生まれ故郷のイシリアンテ首都郊外は一年を通してはだ寒い。近くには静けさをたたえた泉があり、子どもの頃は、その静けさをこわしちゃいけないと、そろりそろりと歩いた覚えがある。かすかに訪れる夏には木々の間から日がこぼれ、冬になれば一面白くなる。そういった表情を見せてくれるところだった。
 ここにそういった細やかさはない。日が昇れば暑いし、沈めばやけに寒くなる。そしてひろがる殺風景な黄土色の大地。ただ、それだけである。

 アグノゥサ公国は、交易商人だったアグノゥサ人が安定した生活を持てるよう、イシリアンテが力を貸して造った国だと、学校では習う。そして、その礼として、この町を開発局が借りているのだ、と初勤務の日に教わる。だが、イシリアンテから遠く離れた赤道に近い位置、冷えた空に冴え渡る星達を見れば、発射台が置きたくて造ったという噂のほうがうなずける。

 町の入口に立つ。またあの老人がいすに腰掛け、うまそうにくゆらせていた。最近では見なくなったアグノゥサの民族衣装をいつも身にまとっている。帽子の鮮やかな刺繍が、いくつもの民族との交流を物語っていた。
 ふと、目があった。いつもはぼんやりしている老人が、抜けた歯でニヤリと笑う。刺繍に見とれていたことを見透かされた気がして、あわててそっぽを向き、通り過ぎた。

「あら。いらっしゃいませ」

 扉を押し開けると、カウンターの向こうから女店主が迎えてくれた。黒い服装に少し寂しげな印象はこの間と同じだ。カウンターには来たのかい? とテッドが紅茶をすすっている。そして黒猫はすでに水を運び終えていた。
 カウンターをしっぽでぴしゃりと叩く。二度目はさすがにそこまで驚かず、素直に腰を下ろせた。

「どうした? スズカの研修が疲れたか?」

 笑みを見せるテッドにロイは複雑な表情を浮かべた。

「常に冷静でいなければならないのは、わかってるんですが……」

 役に立ったときくらい笑ってくれてもいいじゃないか、と心でつぶやく。

「勤務外でもアイツはそうだもんな」
「カップの上げ下げまで見張られてるんじゃないかって……」

 その一言にテッドの笑いは頂点に達した。
 スープを注文した後、ふと、ロイはテッドにささやいた。

「この店の屋根、派手ですね」

 こんな店は他にない。
 開発局の誰もが知っている店で、繁盛していることは知っている。全体的に古ぼけていて、かしいではいるものの、修繕は施されている。が、屋根だけは、色合いに節操がない。
 紅茶を一口飲み込み、ふぅとテッドはため息を吐き出した。

「それも『ヤクオトシ』なんだ」

 黒猫の耳がピクリと動く。

「スープを食べた誰かに何かが起こるとき、この店のどこかが壊れる。たいていはあれだ」

 テッドはひょいと天井を見上げた。薄暗くてはっきりはしないものの、ところどこ
ろに水のにじみ出た跡が残っている。

「心当たりのあるヤツは、修理のためのタイルを提供してやる。ただその時、元の色と同じにはしないんだ。それが、肩代わりをしてくれたことの印とお礼だ。このあたりはアグノゥサの慣習が基になってるけどな」

 感心の声をもらしながら、ロイはまじまじと天井を見上げた。

「七期の人も食べればよかったのに」

 あつっ! と甲高い声がカウンター越しに届いた。

「ミラ、大丈夫かい?」
「いやだ。うっかりしてました」

 滑って鍋にあたってしまった手を、黒猫が心配そうに見つめていた。