雲雀(ひばり)がさえずる気持ちの良い朝。
 古都・京都に屋敷をかまえるのは、代々祓い屋を生業(なりわい)とする天月(あまつき)家だ。その当主・(よう)を出迎えたのは、愛する妻・礼葉(あやは)の弾けんばかりの笑顔だった。
 礼葉は笑顔のまま、寝起きの楊に言った。
「ごきげんよう、旦那さま。さっそくですが、離縁してください」
 テーブルには、離縁用紙。既に礼葉が書くべきところはすべて記入されていた。
 突然奇想天外な言葉を発した妻を、楊は笑顔をたたえたまま見つめる。
 楊の妻、礼葉は優しい老夫妻のもとで育った深窓の令嬢なのだが、性分なのだろうか。少々無鉄砲で無邪気が過ぎるところがある。
「……うん。これはまた、いつにも増して突然だな」
 楊は動揺を胸の奥にひた隠し、静かに言った。
 三年も彼女の夫をしていればこの程度、驚くことではない。
「いえ、突然ではありません。実は嫁入りする前から考えておりました」
 その言葉には、さすがの楊も驚いた。
「嫁入り前から? 離縁することをか?」
「はい」
「……そうか。それは知らなかったな」
 礼葉の実家の両親が流行病で亡くなったという報せが届いたのは、つい先日のこと。
 礼葉は楊と結婚してからも、頻繁に生家である九条の家へ顔を出していた。それくらい、家族を大切にしていた。
 とはいえ、両親とは言っても、ふたりは十八歳の娘を持つ親にしてはかなりの老齢だった。礼葉とて、両親の先が長くないということは覚悟していたことだろう。
 この発言は、最愛の両親の死が影響してのことだろうか、と一瞬考えるが、違う。彼女は嫁入り前から考えていたと言った。
「うーん……」
 思わず唸る。
 夫婦生活は上手くいっていたと思っていたのだが。
 とりあえず楊は礼葉の向かいに座り、礼葉を見つめる。
「じゃあまず、離縁したい理由を聞かせてもらえるかな」
「はい」
 礼葉は頷くと、すんと姿勢を伸ばして楊を見た。
「私が楊さまと結婚したのは、両親を安心させるためでした」
「そういえば祝言のとき、ふたりは礼葉の花嫁姿を見てそれはそれは喜んでいたな」
「はい。だけど、その両親はもういません」
「あぁ……」
「つまりふたりが亡くなった今、私に結婚を継続する理由はありません」
 ばっさりだ。楊は思わず苦笑した。
「それはあんまりなんじゃないか?」
 楊が言うと、礼葉はきょとんとした顔のまま、首を傾げた。
「と言いますと?」
「君に結婚を継続する理由がなくても、俺にはある。今の発言だと、礼葉にとって俺はどうでもいいってことなのかな」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、ほかになにか理由が?」
 礼葉は少し戸惑うように視線を泳がせたあと、
「父との約束が」
 と呟いた。
「お義父さまと?」
 聞き返した楊に、礼葉はこくりと頷く。
「じぶんたちがいなくなったあと、彩葉(いろは)を頼むと言われています。妹の彩葉は病弱です。ひとりではとても生活できません」
 彩葉とは、血の繋がらない礼葉の妹だ。礼葉と違って病弱だと聞いた。
「でも、女中たちがいるだろ?」
「女中は家族じゃありません。両親が亡くなった家でひとりぼっちなんて、彩葉が可哀想ではありませんか」
「でも、君がここを出ていったら、俺がひとりになるだろ? 君の身勝手でひとりになる俺は可哀想ではないということかな」
 礼葉の喉が鳴る。明らかに狼狽えていた。
 楊はため息をついた。
 礼葉はいつも、後先を考えない発言をする。突然かつ一方的な離縁だというのに、断られるとは想像していなかったのだろう。
「で、ですが……楊さまはとても素敵な方ですから、すぐに新しい花嫁が見つかります」
 楊はじっと礼葉を見つめた。
「本当に素敵だと思ってる?」
「も、もちろん」
 ぶんぶんと首を縦に振る妻に、楊は思わず笑みを漏らす。
「なら、手放さない方がいいんじゃないか?」
「うぅ……」
「責めているわけじゃない。俺はただ、君と別れたくないと言っているだけだよ」
 本当に、楊の声音は決して礼葉を責めるような強い口調ではない。むしろ品のある声だった。
 しかし、礼葉もまだ折れそうにはなかった。楊をまっすぐに見据え、言う。
「それこそ意味が分かりません。天月家に比べたら、私なんて所詮田舎の娘です」
「俺は、そんなことを言っているんじゃない」
 礼葉は困った顔をした。
「……では、離縁は……」
「お断りしよう」
 楊に笑顔で拒否され、礼葉は唇を引き結んだ。
 礼葉がなにを考えているかは知らないが、彼女の困り顔すら愛おしいと思ってしまうのだ。
 離縁なんて、楊はさらさらするつもりはなかった。
「では、俺は部屋に戻るよ。仕事があるので」
 涼しい顔をして自室に戻っていく。部屋を出る直前、背中越しに礼葉の小さなため息が聞こえてきた。