西暦2085年。
 世界各地で相次ぐ紛争や大戦を嘆いた神は、世界の文明をリセットすることにした。
 すべてが無に帰した混沌たる世界で、人間は再び文明を築いていく。
 そして、神のリセットから1914年が経った西暦3999年。
 世界へ羽ばたいた文明開化の時代は過ぎ、外国から新たな文化が定着し始めた日本。
 都市部では自動車やマスコミが誕生、さらに洋食や洋服が広がり、少しずつ科学が発展してきた時代。
 華やかに大胆になっていく時代の裏で、それまで街中で人に紛れて生きてきたあやかしたちは、なりを潜めつつあった。
 しかし、地方ではまだ人々は神やあやかしを信じ、慕い、ときに恐れながらも平和に暮らしていた。

 雲雀(ひばり)がさえずる気持ちの良い朝。
 古都・京都に屋敷をかまえるのは、代々祓い屋を生業(なりわい)とする天月(あまつき)家だ。その当主・(よう)を出迎えたのは、愛する妻・礼葉(あやは)の弾けんばかりの笑顔だった。
 礼葉は笑顔のまま、寝起きの楊に言った。
「ごきげんよう、旦那さま。さっそくですが、離縁してください」
 テーブルには、離縁用紙。既に礼葉が書くべきところはすべて記入されていた。
 突然奇想天外な言葉を発した妻を、楊は笑顔をたたえたまま見つめる。
 楊の妻、礼葉は優しい老夫妻のもとで育った深窓の令嬢なのだが、性分なのだろうか。少々無鉄砲で無邪気が過ぎるところがある。
「……うん。これはまた、いつにも増して突然だな」
 楊は動揺を胸の奥にひた隠し、静かに言った。
 三年も彼女の夫をしていればこの程度、驚くことではない。
「いえ、突然ではありません。実は嫁入りする前から考えておりました」
 その言葉には、さすがの楊も驚いた。
「嫁入り前から? 離縁することをか?」
「はい」
「……そうか。それは知らなかったな」
 礼葉の実家の両親が流行病で亡くなったという報せが届いたのは、つい先日のこと。
 礼葉は楊と結婚してからも、頻繁に生家である九条の家へ顔を出していた。それくらい、家族を大切にしていた。
 とはいえ、両親とは言っても、ふたりは十八歳の娘を持つ親にしてはかなりの老齢だった。礼葉とて、両親の先が長くないということは覚悟していたことだろう。
 この発言は、最愛の両親の死が影響してのことだろうか、と一瞬考えるが、違う。彼女は嫁入り前から考えていたと言った。
「うーん……」
 思わず唸る。
 夫婦生活は上手くいっていたと思っていたのだが。
 とりあえず楊は礼葉の向かいに座り、礼葉を見つめる。
「じゃあまず、離縁したい理由を聞かせてもらえるかな」
「はい」
 礼葉は頷くと、すんと姿勢を伸ばして楊を見た。
「私が楊さまと結婚したのは、両親を安心させるためでした」
「そういえば祝言のとき、ふたりは礼葉の花嫁姿を見てそれはそれは喜んでいたな」
「はい。だけど、その両親はもういません」
「あぁ……」
「つまりふたりが亡くなった今、私に結婚を継続する理由はありません」
 ばっさりだ。楊は思わず苦笑した。
「それはあんまりなんじゃないか?」
 楊が言うと、礼葉はきょとんとした顔のまま、首を傾げた。
「と言いますと?」
「君に結婚を継続する理由がなくても、俺にはある。今の発言だと、礼葉にとって俺はどうでもいいってことなのかな」
「そういうわけでは……」
「じゃあ、ほかになにか理由が?」
 礼葉は少し戸惑うように視線を泳がせたあと、
「父との約束が」
 と呟いた。
「お義父さまと?」
 聞き返した楊に、礼葉はこくりと頷く。
「じぶんたちがいなくなったあと、彩葉(いろは)を頼むと言われています。妹の彩葉は病弱です。ひとりではとても生活できません」
 彩葉とは、血の繋がらない礼葉の妹だ。礼葉と違って病弱だと聞いた。
「でも、女中たちがいるだろ?」
「女中は家族じゃありません。両親が亡くなった家でひとりぼっちなんて、彩葉が可哀想ではありませんか」
「でも、君がここを出ていったら、俺がひとりになるだろ? 君の身勝手でひとりになる俺は可哀想ではないということかな」
 礼葉の喉が鳴る。明らかに狼狽えていた。
 楊はため息をついた。
 礼葉はいつも、後先を考えない発言をする。突然かつ一方的な離縁だというのに、断られるとは想像していなかったのだろう。
「で、ですが……楊さまはとても素敵な方ですから、すぐに新しい花嫁が見つかります」
 楊はじっと礼葉を見つめた。
「本当に素敵だと思ってる?」
「も、もちろん」
 ぶんぶんと首を縦に振る妻に、楊は思わず笑みを漏らす。
「なら、手放さない方がいいんじゃないか?」
「うぅ……」
「責めているわけじゃない。俺はただ、君と別れたくないと言っているだけだよ」
 本当に、楊の声音は決して礼葉を責めるような強い口調ではない。むしろ品のある声だった。
 しかし、礼葉もまだ折れそうにはなかった。楊をまっすぐに見据え、言う。
「それこそ意味が分かりません。天月家に比べたら、私なんて所詮田舎の娘です」
「俺は、そんなことを言っているんじゃない」
 礼葉は困った顔をした。
「……では、離縁は……」
「お断りしよう」
 楊に笑顔で拒否され、礼葉は唇を引き結んだ。
 礼葉がなにを考えているかは知らないが、彼女の困り顔すら愛おしいと思ってしまうのだ。
 離縁なんて、楊はさらさらするつもりはなかった。
「では、俺は部屋に戻るよ。仕事があるので」
 涼しい顔をして自室に戻っていく。部屋を出る直前、背中越しに礼葉の小さなため息が聞こえてきた。

 礼葉は梨を剥きながら、ぐるぐる考えごとをしていた。
 ――どうしよう。
 礼葉の背中を、冷たい汗が流れていく。
 礼葉はまさか、楊に離縁を拒絶されるとは思ってもいなかったのだ。
 結婚して三年。楊とは離縁されない程度に好かれるよう努力はしたものの、それ以上親密にならないよう、一定の距離を置いてきたつもりだった。
 もともと楊は、ひとやものに頓着しないさっぱりとした性格だと見ていたのに。
「というかそもそも、縁談は私じゃなくて礼……」
 声に出していることに気付き、礼葉は慌てて口を閉ざした。
 礼葉に縁談の話が舞い上がったのは、三年前、礼葉が十五歳のときだった。
 両親は突如舞い込んだ縁談を喜んだものの、しかし一方で、あることを心配した。
 礼葉は生まれつき身体が弱かったのだ。
 天月家は由緒正しい家柄。しかし、縁談相手の楊は天月家の当主だ。結婚すれば、必ず世継ぎが必要になる。しかし、礼葉にはとても世継ぎを産む体力はなかった。もし子を授かったとしても、礼葉の命のほうが危険になってしまう。
 両親は悩んだ末、礼葉の身体のことを考え、天月家との縁談を断ろうとした。そこに待ったをかけたのが、礼葉の妹・彩葉だった。
 彩葉は、九郎(くろう)が街で拾ってきた妖狐(ようこ)の子狐。
 幼い頃に母親を亡くした子狐を九郎は彩葉と名付け、ひとの子として、礼葉とともに姉妹のように育てた。
 彩葉は言った。
「お父さま、お母さま、私が礼葉として天月家に嫁ぎます」
 彩葉の提案に、家族は驚いた。
「なにを言うの、彩葉」
「そうだよ、彩葉。君は妖狐なんだよ。天月家は代々祓い屋を生業としている。もし君が妖狐であることがバレてしまったら、殺されてしまうかもしれない。危険過ぎる」
 家族の言うとおり、天月家は祓い屋だ。
 ひとであって人に在らず。
 悪いあやかしを特別な力によって封じることができる、特別な家。あやかしにとって天敵ともいえる存在だった。
 しかし、彩葉の覚悟は揺るがない。
「大丈夫です。私はもう子供ではありません。力もとても強くなりましたし、変化も自在。余程のことがなければ正体が知られることはないでしょう」
「だが……」
「そもそも私は、お父さまとお母さまがいなければ、とうの昔に野垂れ死んでおりました。今こそ恩返しをさせていただきたいのです」
 彩葉の強い眼差しに、両親は顔を見合わせた。
「恩返しなんて、そんなこと考えなくていいのよ、彩葉」
「そうよ、そういうことなら私が嫁ぐわ」
 今度は礼葉が話に割って入る。
「それはダメ。礼葉は今、家を出ることだって難しいのよ。結婚なんてぜったいダメ!」
「彩葉……でも」
「私じゃ、礼葉の代わりにはなれないかもしれない。でも……できることなら、ふたりに花嫁姿を見せてあげたいの」
 礼葉の覚悟はやはり揺るがなかった。
 大好きな姉のため。
 大好きな家族へ花嫁姿を見せるため。
 ひとりぼっちだったじぶんを拾ってくれた両親に、恩返しをするため。
 まだ幼い妖狐は、礼葉に成り代わって、天月礼葉となった。

 ――あれから三年。
 花嫁姿の彩葉を見た両親は、とても喜んでくれた。もちろん、礼葉も。
 天月家へは、もともと両親が生きているうちだけ、と決めて嫁いだ。
 なぜなら、両親が死んだら礼葉がひとりになってしまうからだ。彩葉は九郎に拾われたとき、両親亡きあとはじぶんが礼葉を守っていくという約束をしたのだ。
 両親を失った礼葉は今、九条(くじょう)の家でひとりぼっちだ。
 今頃はきっと、かなり気落ちしていることだろう。
 大切なだれかを失ったとき、悲しみを癒すには、ただそのひとのそばにいるほかない。
 女中に任せてはいられない。早く戻って、礼葉に寄り添ってやらなくては。
 焦燥が胸を掻き立てる。
 いっそのこと、このまま出ていってしまおうか。彩葉はひとでない。ひとのしきたりなど知らない。興味もない。
 元来、離縁しているかどうかなんて、あやかしである彩葉にはどうでもいいことだ。
「……いや、ダメダメ」
 そう思いかけて、慌ててとどまる。
 楊には実家の場所を知られているし、あやかしのツテもある。礼葉の体調面のことも分からない今、向こうみずな行動をするわけにはいかない。
 しかしそれならばどうやって離縁へ持ち込もうか、と考えていたときだった。
 つるりと手が滑った。
「あっ!」
 ぴっと指先に鋭い痛みが走る。
 包丁を落とした拍子に、指を切ってしまった。皮膚の裂け目から、ぷくっとした赤い血が溢れてくる。
「いたた……」
 慌てて指をくわえ、血を舐めとる。
 包丁についた血を水で洗い流していると、背後でかすかな物音がした。振り向くと、楊が立っている。
「どうした?」
「あ、いえ……!」
 慌ててくわえていた指をパッと離し、後ろ手に持っていく。
 見られただろうか、と彩葉は冷や汗を垂らした。
 はしたないと思われているかもしれない。ひとりになるとつい気が抜けてしまっていけない。指をくわえるなんて、と、今にも養母の嘆きが聞こえてきそうだ。
 って、今はそれどころではない。傷口を隠さなければ。
 妖狐である彩葉は、傷を負ってもすぐに治ってしまう。それを楊に悟られたら、あやかしであることがバレてしまう。ぜったいに知られるわけにはいかない。
「あ、えっと、楊さまこそどうしました?」
 慌てて笑みを浮かべ、楊に訊ねる。
「あぁ、うん。喉が渇いてね」と、楊は淡白に答える。
 彩葉は、その澄んだ双眸をじっと見つめた。
「それでしたら、私がお部屋にお持ちしますのに」
「いい。水くらいじぶんで酌める」
 と、楊は彩葉のいる流し台へ歩いてくる。そして、まな板に転がった果実を見て、
「あぁ、梨を剥いてたのか」
「……はい。なんだかお腹が減って」
「そうか」
 曖昧に笑う彩葉から何気なく流し台へ視線を戻して、楊は眉を寄せた。
「……これは、血?」
 楊がパッと彩葉を見る。まずい、と彩葉は焦った。
「もしかして、どこか切ったのか?」
「あ、いえ……」
 咄嗟に、誤魔化す言葉が出てこない。視線に耐えられず、礼葉は背を向けようとした。
「待て」
 慌てて後退る彩葉の腕を、楊が掴む。
「切ったところを見せてみろ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
 慌てて断る彩葉の手を、楊は「いいから」と、半ば無理やり引き寄せた。
 楊の目に晒された彩葉の指先には、まだ少し血が滲んでいる。
「やっぱり切ってるじゃないか。そのままにするのはダメだ。細菌が入る」
「大袈裟ですよ」
「なにが大袈裟だ、まったく……痛かっただろう」
 楊は彩葉の手を掴んだまま、台所に立って蛇口をひねる。てのひらを水で濡らし、彩葉の指先を優しく洗い流していく。
「このくらいじぶんでできます。……汚いですよ」
「礼葉の血が汚いわけないだろ」
「…………」
 滑らかに動く楊の手元を、彩葉は複雑な思いで見つめた。
「……なんだ?」
「え?」
「なにか、言いたげな顔をしてる」
「……いえ。ただ……」
 そのまま、彩葉は黙り込んだ。
「ただ?」
「……いえ。なにも」
「……そう」
 滲んでいた血をすべて洗い落とすと、楊は清潔な布巾で丁寧に彩葉の手を包んだ。
 その際、ぐっとふたりの距離が縮まった。かすかに屈んだ格好をした楊の長いまつ毛が、小さく震える。まつ毛が上がり、楊の整った目が彩葉を捉える。
 その瞬間、ふわりと甘い楊の香りが鼻先を掠め、彩葉の胸がどきりと弾んだ。
 ハッとした。
「も、もう、結構ですから!」
 彩葉は慌てて手を引っこめ、脱兎のごとくその場を逃げ出した。

 屋敷の裏山の奥、山桜の樹洞(じゅどう)の中で、彩葉は騒々しく脈を打つ心臓を押さえた。
 先ほど包丁で切ってしまった指先を見る。傷口はもう完全に塞がっていた。きれいな皮膚を見て、彩葉は呟く。
「バケモノめ……」
 怪我をするたび、鏡を見るたびに彩葉はじぶんがあやかしであることを思い出す。思い出しては、ひとでないことに絶望していた。
 礼葉や両親といた頃は、妖狐として生まれたことを気にしたことなんてなかった。そんなことを気にする必要がないくらい、深く愛されていたから。
 けれど、今は違う。
 近頃彩葉は、じぶんがあやかしであることに後ろめたさと焦燥を感じるようになった。
 なぜだろう。
 楊が祓い屋の当主だからか。
 いや、それだけではきっとない。
 今、時代は変わりつつある。
 天月家は都会から多少離れたところにあるが、とはいえ京都にも少しづつ都会の大衆文化やモダニズムが波及しつつある。
 この先あやかしは、どんどん棲家を奪われていくだろう。
 それは、妖狐である彩葉も例外ではない。いつまでも人間のそばに留まるべきではない。
 最初から彩葉は、楊とは相容れない存在だったのだ。
 しかしそれについて寂しさを感じていることが、彩葉にとっては予想外だった。
 いつからこんなに、楊の存在が大きくなっていたのだろう。
「結婚当初は、いやな人だと思っていたのにな」
 彩葉はひとりごちる。
 かつて、楊は彩葉にこう言い放った。
 ――結婚などただの見せかけだ。俺には不必要にかかわるな。
 楊のひとぎらいは、家庭環境にあるようだった。女中たちの話によると、楊の死んだ父親は、女癖が悪く、ろくでもないひとだったらしい。
 おかげで、出会った頃の楊は極度の女ぎらいだった。
 触れることはおろか、目が合っただけで怒鳴られたこともある。
 しかし、彩葉はどれだけ楊に傷付けられても逃げ帰るわけにはいかなかった。
 両親をがっかりさせないためにも、離縁されるわけにはいかなかったのだ。
 嫁いでから彩葉は、楊とせめてふつうに会話ができるくらいに好かれようと奮闘した。苦戦したが、今はなんとかふつうに近い関係にはなれたと思っている。
 すべては両親のためだった。
 でも、その両親はもういない。すべて終わったのだ。
 彩葉が楊へどんな想いを抱いていようと、楊がたとえ行くなと言おうと、お芝居はおしまいなのだ。
 彩葉は大嘘つきのバケモノ。楊とは釣り合わない。
 山桜の木の上から、彩葉は眼下、山桜に囲まれた天月屋敷を見下ろした。
 彩葉は家を出ようと決意した。

 礼葉がいなくなった台所で、楊は剥きかけの梨を片付けていた。片付けながら、ついため息が漏れる。
『ごきげんよう、旦那さま。さっそくですが、離縁してください』
 朝、礼葉に離縁を突きつけられてからというもの、忌々しいその言葉が楊の頭から離れない。
 胸がざわざわとする。楊は思わず胸を押さえた。
 これは、なんだろう。
 楊は、生まれて初めての感覚に困惑していた。
 ついさっき、楊は礼葉の血に触れた。
 あまりに痛々しく、胸が締め付けられるようだった。
 これまでの楊だったら、有り得なかった感情だ。
 結婚当初のじぶんが今のじぶんを見たら、きっと目を丸くして呆れていることだろう。
 あの頃の楊にとって、夫婦というのは、ただの仮初でしかなかった。
 もともと楊は、結婚自体する気などなかった。しかし、天月家の当主になるためには花嫁を迎えなければいけないというしきたりがある。
 そのため楊は、仕方なく礼葉と結婚したのだ。
 ……それなのに。
 楊は自身の胸を押さえながら、呟く。
「離縁なんてしたくない……」
 じぶんの口から放たれたそれに、なにより楊自身がいちばん驚いていた。
 ずいぶんな変わりようだ。
 もともと天月家の当主になるための伝統の祭事が済んだら、すぐにでも礼葉をどこか遠くの別荘へ追い出すつもりだったのに。
 気が付けば、もう三年も一緒にいる。
 それだけでなく、離縁を突きつけられて焦っているなんて。
 楊はもともと、ひとを好きになったことがない。
 楊の父親はろくでもないひとで、本妻のほかに妾を何人も囲い、毎晩遊び狂っているような男だった。
 楊はその妾の子として生まれた。
 母親が十六、父親が齢六十のときの子である。
 日々大きくなるにつれ、楊は女中の噂話を通して、じぶんの出自がどういうものかを理解していった。
 それでもまだ、子供の頃は父親を愛していた。
 本妻の間に子がなかったため、父親は仕方なく妾を囲っていたのだと。
 家のために世継ぎを作らなければなかったから、仕方なかったのだと。
 父親を蔑みたくなる衝動に駆られるたびに、そう言い聞かせていた。
 しかし、楊が十五になる頃だっただろうか。
 父親の妾のひとりが、夜な夜な楊の寝室へ夜這いにきたことがあった。
 幸いすぐに気が付き、楊は女を寝室から引きずり出した。
 女は不貞を働いたとして即離縁されたが、そのできごとは、幼かった楊の心に暗い影を落とすには十分過ぎるものだった。
 あの日、楊は父親にはっきりとした嫌悪を抱いた。
 あのとき女に触れられた感触が、楊は未だに忘れられない。
 女は汚い。女は醜い。あんな獣のような女をそばに置く父親もどうかしている。
 楊は家族すら信じられなくなった。
 父が死んだとき、悲しみよりもホッとした。ようやく、妾たちを屋敷から追い出せるから。
 それからほどなくして嫁いできた礼葉へ、楊は当時、今とは比べ物にならないほど冷たくしていた。
 会話すらほとんど交わさなかった。
 料理を出されてもぜったいに食べなかったし、声をかけられれば背を向けた。
 気を引こうと腕にでも触れようものなら、容赦なく怒鳴り、その手を振りほどいた。
 どうせすぐに興味を失くすだろうと思っていた。しかし、楊の予想に反して、礼葉はいつまでも楊にかまってきた。
 どんなときも、どんなに虐げても文句ひとつ言わずに、ひねくれた楊を受け止めた。
 ふと、回顧して思い出す。
 そういえば、いつから今のような関係になったのだったか。
 考えるまでもなく、楊の記憶がとあるときまで遡っていく。


 祓い屋である楊は、日々あやかしと相対している。
 善良なあやかしたちの相談に乗り、困りごとを解決することが多いが、ときには人々に害を及ぼす邪悪なあやかしを退治することもある。邪悪な心を持つあやかしや悪霊は、意思疎通ができない者が多い。
 そのため、怪我を負うことも多かった。
 あるとき楊は、腕にひどい傷を負い、血だらけで帰ったことがあった。
 出迎えた礼葉は楊の怪我に気付くと、慌てて手当をしようとした。
 しかし楊は、その手をいつものように「汚い手で触るな」と弾いた。
 こういうとき、いつも礼葉は困ったように笑って「ごめんなさい」と素直に手を引いたが、このときばかりはさすがに言葉を詰まらせ、落ち込んだ顔をした。
 その顔に、ほんの少し罪悪感がちらつきながらも、楊はそのまま礼葉を無視して自室へ入った。
 部屋にある救急箱を使い、軽く止血したあとのこと。洗面所の前を通ると、水の音がした。そっと覗くと、そこに礼葉がいた。
 水を豪快に出して、なにかをしている。
 礼葉は、一心に手を洗っていた。ごしごしと、手の柔らかな皮膚が真っ赤になるほどに。
 そのときはなにをしているのかと呆れて部屋に戻ったが、彼女の不可解な行動の理由はすぐに分かった。
 そのあとすぐ礼葉が楊の部屋にやってきたのだ。
 そして、言った。
『手はきれいに洗ってきました。手当だけでもさせていただけませんか』と。そう頼んできたのだ。
 当て付けかと思ったが、その目を見て感じた。違う。
 彼女はただ本気で、楊の怪我を心配していた。
 馬鹿正直で要領の悪い礼葉を、楊は内心呆れていた。
 だけど、それを知ってからもいうもの、どうも礼葉を邪険にすると良心が痛むようになってしまった。
『手当させてください』
 それ以来、礼葉の澄んだ視線が、楊を捕らえて離さない。
 礼葉だって女なのに。あいつらと変わらない、醜い生き物のはずなのに。
「あのときか……」
 あのとき初めて、楊は礼葉に触れることを許したのだ。

 梨を片付け終わり、楊は途方に暮れた。
 いつの間に、こんなにも彼女を愛してしまっていたんだろう。
 らしくない、と呆れつつ、こんなじぶんを愛おしいとすら思ってしまう。
 まっすぐな彼女に感化されたのだろうか。
 礼葉はまっすぐ過ぎる。
 警戒心がまるでなく、すぐにひとを信用する。すぐにひとを愛する。拒絶されても、無邪気に追いかける。
 そんな彼女が愛おしくてたまらない。
 それなのに、彼女に裏切られたような気持ちになるのはなぜなのだろう。
 深く息を吐くように、言葉を漏らす。
「……そうか。俺は、寂しいんだな」
 三年も一緒にいたのに、彼女の家族になれなかった。
 彼女のいちばんになれなかった。
 それが、悔しくて悲しくて、そして、寂しいのだ。とてつもなく。


 使用人から、礼葉が自室で荷物をまとめていると聞き、楊は慌てて礼葉の部屋へ向かった。
「なにをしているんだ?」
 思わず感情の籠った聞き方をしてしまって恥ずかしさが込み上げたが、今はそれを気にしている場合ではない。
「見てのとおりです。荷物をまとめているんですよ」 
 礼葉は相変わらず、淡々とした声で答えた。
「だから、なぜ?」
「実家に帰るからです」
「離縁はしないと言ったはずだが」
「離縁していただけないのならば、勝手に帰るだけです」
 夫婦間において、夫のほうが強いと言ったのはだれだったか。そんなことはない。
 嫁だって、そこそこ強い。いや、むしろ嫁のほうが強いと思う。度胸も楊なんかよりずっとあるし、細々としたことにもよく気がつく。使用人との関係も、今では楊より礼葉のほうがずっと上手くやっている。
 楊は今さらになってそれを自覚した。
「待ってくれ」
 楊が礼葉の腕を掴む。
「俺は、君になにかきらわれるようなことをしたか?」
「いえ、しておりません」
「じゃあなぜ」
「私たちは合わない。それだけです」
 なにを今さらと、楊がさらに口を開こうとするのを、礼葉が遮る。
「離縁を申し込んだときも言いましたが、私が楊さまとの結婚を選んだのは、ただ両親を安心させてやるためだけです。そもそも私たちは愛し合って結婚したわけでもありませんし、楊さまだって、当時は私に触れることさえ許してくれなかったでしょう」
「それは昔の話だ。今はいくらでも……それに、独り身になるのはいろいろと困る」
 咄嗟に口から出た言葉だが、嘘ではない。
 実際、近頃の日本は結婚していてこそ一人前という風潮が顕著だ。
 特に、楊は人間だけでなく、あやかしの間でも有名人。天月家の当主が妻から逃げられたとなれば、変な噂が流れかねない。
 しかし、そんな噂よりも楊が危惧しているのは礼葉のことだった。
 社交の場で、礼葉はすこぶるモテたのだ。となりに楊がいても、男から声をかけられた。
 礼葉の容姿は華やかな社交界でもずば抜けていた。この国では珍しい金色の髪は絹のように艶やかで、赤い色の瞳は蠱惑的で色っぽい。
 ふだんは袴を着ていることが多いが、たまにまとう西洋のドレス姿はオーダーメイドでもないのに、まるでドレス自体が彼女のためだけに存在するのではないかと思うほどに似合ってしまうのだ。
 それでいてまったく飾らないから、さらに男は彼女の虜になる。
 もし、礼葉の離縁が世間に知れたら。
 求婚の話が絶え間なく彼女のもとへと舞い込むことだろう。
 だからというわけではないが、とにかく楊は礼葉を手放したくないのだ。なにがあっても。
「楊さまならすぐに良い方が見つかります。私にこだわる必要はないはずです」
「俺は君がいい」
「私はいやです、困ります」
 きっぱりと言う礼葉に、楊は狼狽える。
「あ……す、すみません。いやというのは、その……楊さまがいやというわけではありません」
 ひびが入ったような楊の表情を見て、礼葉もさすがに言い過ぎたと思ったのか、少し慌て気味に言った。
「なにがいやなんだ? なにかあるなら言ってくれ」
 詰め寄られ、礼葉は俯く。そして、珍しく弱々しい声で言った。
「……それは、言えません」
「夫にも言えないことなのか」
「たとえ夫だろうと、知られたくないことくらいあります。……いいえ。むしろ、楊さまが夫だから言えないのです」
「それは……つまり、夫が俺でなければ離縁などと言わなかったと?」
「ええ、そうですね」
 はっきりと肯定され、楊は思わず笑みを零す。
「……ずいぶん、きつい物言いだな」
「楊さまと過ごした日々は、とても穏やかで……夢のようでした。ありがとうございました」
 礼葉は申し訳なさそうに目を瞑ってから、これですべて終わりだとでもいうように、柔らかに微笑む。
 美しい妻の笑みは、楊の心を容赦なく突き刺した。それが余計に楊の胸を締め付ける。
「妹はひとりでは生きていけません。両親がいなくなった今、妹を守れるのは私だけなんです。分かってください」
 荷物をまとめ終わると、礼葉は楊に深く頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
「礼葉、待て」
 礼葉が振り向く。
「彩葉の病が治ったら、戻ってきてくれないか」
 楊の言葉に、礼葉の目が泳ぐ。しかしすぐに楊を見据える。
「……彩葉は、不治の病です。生涯、治ることはないのです」
「もし治れば、戻ってきてくれるか?」
 しばらく沈黙が落ちた。礼葉はなにかを堪えるように唇を引き結ぶ。
「……ごめんなさい」
 楊の手を振り払い、礼葉は天月家を出ていった。