残暑も少しやわらいできたような気もいたします。
退勤後、家までの道行きでは涼し気な風が吹くことも少なくありません、が……。
本日もウチのエアコンは、無人の店内を黙々と冷やしております。
モニタはずっと、白けた店内の静止画像を淡々と映し続けていました。
全く面白くないので、自棄になってカツカレーの出前を頼んでみたり……。
寂しい懐具合に反比例して、カレーは激ウマでございました。
満足気な胃腸とは裏腹に、私の気分は優れません。ここ二日、お客さんが現れないのでございます。冗談のようにピカピカな店内が哀愁を帯びて見えます。
まあ、世の中平和だということなのでしょう。
それはそれで重畳とは存じますが――私の心中は寂しさが募ります。
着てはもらえぬセーターを――違う!
「寂しすぎると死んじゃう」――嘘か誠か存じませんが、今ならウサギの気持ちがわかるような……。
思わずほろりとしかけたところ、「カラン」という音がやたら耳に大きく響きました。
椅子に仰け反っていた私はガバと身を起こし、血走った目をモニタに向けます。
お母さま――「御苑」史上、最年少レコードかも。
ドアを潜ったのは、Tシャツ短パン姿の小学生男子でございます。
三日ぶりのお客さん。
(待ってたよ――)
しみじみ呟いたものの――これはこれで色々大丈夫なのでしょうか。
☆☆☆
【こんばんは!】
少年の快活な挨拶が耳を爽やかにくすぐります。
先程、いそいそと五百円硬貨を入れる彼を少しうろたえながら見守ったものの、こんな少年からぼったくるわけには――脳内評議会の結論は、「後で返してあげればいんじゃね?」というものでした。
彼が選択したのは、「保健室のセンセイ」というボタン。
どのようなイメージを抱いているものか――妙なプレッシャーが私を襲います。
「こんばんは、『ツイてない御苑』へようこそ」
まあるい黒縁眼鏡をかけた、聡明な面立ちの前髪ぱっつん男子。
口元を引き結んでこちらをじっと見詰めていらっしゃいます。
少し耳にかかるまっすぐな黒髪が、襟足までシャープな稜線を描いております。
小さな丸顔に、胸がキュン! と鳴りました。
こんな可愛らしい弟や甥っ子なら、いつも側にいてほしいです。
今の兄様や綾女には、そんな血縁を望むべくもありませんが。
「こんな時間に一人で……大丈夫ですか?」
壁掛けの時計は、午後八時半に差し掛かるところです。
【塾の帰りなんです。いつもこうです。今日はちょっと遠回りですけど】
「それはそれは、痛み入ります。しかし、このような場所をご存知とは」
【先週、ボクの叔母さん――お姉さんがこちらでお世話になったって】
――あの女子大生の人でしょうか。動物園に甥っ子を連れて行ったという……。
「動物の絵、上手に描けましたか」
【はい! 先生が凄く褒めてくださいました】
にぱっと笑います。眩しっ。
もう……今日はこれで仕舞いでも……先を促すのがちょっと不安になります。
「……えーと、ここはですね……」
男の子の顔が少しだけ曇り、
【……今日、ちょっと「ツイてない」ことがあったんです】
伏し目がちに語り出しました。
☆☆☆
【授業で、CSの「ナショジオ」チャンネルを観たんです】
「なしょじお?」
サバンナにおける動物の生態をまとめたものだそうです。
途中、チーターが一頭のトムソンガゼルを追いかける迫力のワンシーンが。
チーターはガゼルのお尻に爪を立てるまでいったものの、結局狩りは失敗し、ガゼルを取り逃がしたそうです。
教室内は、
「あ~残念」「なんだ、失敗じゃーん」「惜しい!」という声で溢れかえったそうですが、
【ボク一人だけ、「良かった! ガゼル助かったんだ!」って思わず言っちゃったんです。そしたら……】
ドッ! 一斉に笑われたのだそうです。
【担任の先生も笑っていて。みんなは、ボクをばかにしてる感じでもなかったんですけど、なんか恥ずかしくなっちゃって……】
モニタの男の子は両手をわちゃわちゃさせながら、はにかみました。
【ボク、どこかおかしいんでしょうか。みんなと同じような反応できなかったし……】
胸にピリリと霹靂が走りました。
一見するとなんでもないような、それこそ笑い話かもしれません。
私がその場にいたとしたら、恐らくみんなと同じように「チーター目線」で映像を追っていたと思うのです。
【ボク、チーターは好きなんです。動物園でも――お姉さんは猛獣が苦手そうであさって向いてましたけど、やっぱりチーターはかっこよかったです】
えへへ、と笑います。
……私は一度、深く息を吐きました。
「あなたは、どこもおかしくないです。むしろ、みんなが思いもしなかったところに気が付く、稀有な感覚を持っているのです。それはとても尊く、素晴らしいものです。誇れるものです」
言い切ると――ふいにほろりと涙が零れ落ちました。
この子はきっと――
場に流されず、無意識に「弱い立場の方に感情移入してしまう」人間なのだ――。
私の胸の裡は、透き通った淡いブルーの「なにものか」で、すうーっと満たされていきました。
モニタの彼が、こちらを見上げます。
【……そう……なんですか? 難しいことはよくわからないんですけど……】
「できればいつまでも、その感覚を忘れないでいてください」
彼は暫しキョトン顔でしたが――やがて、何の屈託もない笑顔が眩しく輝きました。
☆☆☆
「そうだ。お姉さんとリーマンのあんちゃんは、その後どうなりました?」
【え? さ、さあ、どうでしょう……」
言葉と裏腹に、彼がニヤつきます。
そろそろお時間ですが……。
【いつもは循環バスで帰ってます】
「おウチはどちらですか?」
【鳥越のタワーマンションです】
もう午後九時になろうかという頃合いです。循環バスも終わっているでしょう。
小学生の男の子一人、徒歩で帰らせるのは……。
私は少し考えて――
「おウチまで私がご一緒しましょう。てくしー(徒歩)ですが、よろしいでしょうか」
【え、でも……いいんですか?】
「お嫌でなければ……そのかわり、といってはナンですが……」
「今日」ここに寄ったことと、私の「正体」は内密に――約束していただきました。
壁に掛けてあったハンチング帽を手に取り、逡巡したのち――バッグからニットのカーディガンを引っ張り出しました。
☆☆☆
裏口から出て来た私を見上げた少年は、なぜか目を見開いて暫しぼーっとしておりました。
初見のかわいらしいお客さんへ(個人的な)アフターサービスです(※中学生以下は初回無料です、と無理やりお金は返しました)。
私は彼と手を繋ぎ、沢山たくさんお話をしながら歩きました。
幾分上気した顔でこちらを見上げ、一所懸命語る彼はとてもキュートであります。
ぼんやりと月が照らす街を、二人ゆっくりと歩き続けます。
今日初めて会った小さなボーイフレンドと、束の間「お散歩デート」を満喫させていただきました。
うふふ、役得役得……たまにはこんな日があってもよろしいでしょう? お母さま。
マンションに到着し、手を振りながらエントランスへ吸い込まれていく彼に向けて――私はそっと、「自分の声」を送り出しました。
……ゴッド・ブレス・ユー。
退勤後、家までの道行きでは涼し気な風が吹くことも少なくありません、が……。
本日もウチのエアコンは、無人の店内を黙々と冷やしております。
モニタはずっと、白けた店内の静止画像を淡々と映し続けていました。
全く面白くないので、自棄になってカツカレーの出前を頼んでみたり……。
寂しい懐具合に反比例して、カレーは激ウマでございました。
満足気な胃腸とは裏腹に、私の気分は優れません。ここ二日、お客さんが現れないのでございます。冗談のようにピカピカな店内が哀愁を帯びて見えます。
まあ、世の中平和だということなのでしょう。
それはそれで重畳とは存じますが――私の心中は寂しさが募ります。
着てはもらえぬセーターを――違う!
「寂しすぎると死んじゃう」――嘘か誠か存じませんが、今ならウサギの気持ちがわかるような……。
思わずほろりとしかけたところ、「カラン」という音がやたら耳に大きく響きました。
椅子に仰け反っていた私はガバと身を起こし、血走った目をモニタに向けます。
お母さま――「御苑」史上、最年少レコードかも。
ドアを潜ったのは、Tシャツ短パン姿の小学生男子でございます。
三日ぶりのお客さん。
(待ってたよ――)
しみじみ呟いたものの――これはこれで色々大丈夫なのでしょうか。
☆☆☆
【こんばんは!】
少年の快活な挨拶が耳を爽やかにくすぐります。
先程、いそいそと五百円硬貨を入れる彼を少しうろたえながら見守ったものの、こんな少年からぼったくるわけには――脳内評議会の結論は、「後で返してあげればいんじゃね?」というものでした。
彼が選択したのは、「保健室のセンセイ」というボタン。
どのようなイメージを抱いているものか――妙なプレッシャーが私を襲います。
「こんばんは、『ツイてない御苑』へようこそ」
まあるい黒縁眼鏡をかけた、聡明な面立ちの前髪ぱっつん男子。
口元を引き結んでこちらをじっと見詰めていらっしゃいます。
少し耳にかかるまっすぐな黒髪が、襟足までシャープな稜線を描いております。
小さな丸顔に、胸がキュン! と鳴りました。
こんな可愛らしい弟や甥っ子なら、いつも側にいてほしいです。
今の兄様や綾女には、そんな血縁を望むべくもありませんが。
「こんな時間に一人で……大丈夫ですか?」
壁掛けの時計は、午後八時半に差し掛かるところです。
【塾の帰りなんです。いつもこうです。今日はちょっと遠回りですけど】
「それはそれは、痛み入ります。しかし、このような場所をご存知とは」
【先週、ボクの叔母さん――お姉さんがこちらでお世話になったって】
――あの女子大生の人でしょうか。動物園に甥っ子を連れて行ったという……。
「動物の絵、上手に描けましたか」
【はい! 先生が凄く褒めてくださいました】
にぱっと笑います。眩しっ。
もう……今日はこれで仕舞いでも……先を促すのがちょっと不安になります。
「……えーと、ここはですね……」
男の子の顔が少しだけ曇り、
【……今日、ちょっと「ツイてない」ことがあったんです】
伏し目がちに語り出しました。
☆☆☆
【授業で、CSの「ナショジオ」チャンネルを観たんです】
「なしょじお?」
サバンナにおける動物の生態をまとめたものだそうです。
途中、チーターが一頭のトムソンガゼルを追いかける迫力のワンシーンが。
チーターはガゼルのお尻に爪を立てるまでいったものの、結局狩りは失敗し、ガゼルを取り逃がしたそうです。
教室内は、
「あ~残念」「なんだ、失敗じゃーん」「惜しい!」という声で溢れかえったそうですが、
【ボク一人だけ、「良かった! ガゼル助かったんだ!」って思わず言っちゃったんです。そしたら……】
ドッ! 一斉に笑われたのだそうです。
【担任の先生も笑っていて。みんなは、ボクをばかにしてる感じでもなかったんですけど、なんか恥ずかしくなっちゃって……】
モニタの男の子は両手をわちゃわちゃさせながら、はにかみました。
【ボク、どこかおかしいんでしょうか。みんなと同じような反応できなかったし……】
胸にピリリと霹靂が走りました。
一見するとなんでもないような、それこそ笑い話かもしれません。
私がその場にいたとしたら、恐らくみんなと同じように「チーター目線」で映像を追っていたと思うのです。
【ボク、チーターは好きなんです。動物園でも――お姉さんは猛獣が苦手そうであさって向いてましたけど、やっぱりチーターはかっこよかったです】
えへへ、と笑います。
……私は一度、深く息を吐きました。
「あなたは、どこもおかしくないです。むしろ、みんなが思いもしなかったところに気が付く、稀有な感覚を持っているのです。それはとても尊く、素晴らしいものです。誇れるものです」
言い切ると――ふいにほろりと涙が零れ落ちました。
この子はきっと――
場に流されず、無意識に「弱い立場の方に感情移入してしまう」人間なのだ――。
私の胸の裡は、透き通った淡いブルーの「なにものか」で、すうーっと満たされていきました。
モニタの彼が、こちらを見上げます。
【……そう……なんですか? 難しいことはよくわからないんですけど……】
「できればいつまでも、その感覚を忘れないでいてください」
彼は暫しキョトン顔でしたが――やがて、何の屈託もない笑顔が眩しく輝きました。
☆☆☆
「そうだ。お姉さんとリーマンのあんちゃんは、その後どうなりました?」
【え? さ、さあ、どうでしょう……」
言葉と裏腹に、彼がニヤつきます。
そろそろお時間ですが……。
【いつもは循環バスで帰ってます】
「おウチはどちらですか?」
【鳥越のタワーマンションです】
もう午後九時になろうかという頃合いです。循環バスも終わっているでしょう。
小学生の男の子一人、徒歩で帰らせるのは……。
私は少し考えて――
「おウチまで私がご一緒しましょう。てくしー(徒歩)ですが、よろしいでしょうか」
【え、でも……いいんですか?】
「お嫌でなければ……そのかわり、といってはナンですが……」
「今日」ここに寄ったことと、私の「正体」は内密に――約束していただきました。
壁に掛けてあったハンチング帽を手に取り、逡巡したのち――バッグからニットのカーディガンを引っ張り出しました。
☆☆☆
裏口から出て来た私を見上げた少年は、なぜか目を見開いて暫しぼーっとしておりました。
初見のかわいらしいお客さんへ(個人的な)アフターサービスです(※中学生以下は初回無料です、と無理やりお金は返しました)。
私は彼と手を繋ぎ、沢山たくさんお話をしながら歩きました。
幾分上気した顔でこちらを見上げ、一所懸命語る彼はとてもキュートであります。
ぼんやりと月が照らす街を、二人ゆっくりと歩き続けます。
今日初めて会った小さなボーイフレンドと、束の間「お散歩デート」を満喫させていただきました。
うふふ、役得役得……たまにはこんな日があってもよろしいでしょう? お母さま。
マンションに到着し、手を振りながらエントランスへ吸い込まれていく彼に向けて――私はそっと、「自分の声」を送り出しました。
……ゴッド・ブレス・ユー。