正午を迎え、稽古を終えた子供たちがわらわら道場を後にします。
道具などは全て道場にある物を使用しているため、帰りは皆ほぼ手ぶらです。
淡い陽が射す霜秋の青空のもと、軽やかに駆けて行く様を見送ると、
「爽太、昼飯食べていくか?」
兄様が爽太くんに問い掛けました。
「いいんですか? 見学に来ただけなのに」
「爽太さえよければな。子供が遠慮するこたあない。お兄さんに任せろ! 何か食べたいものはあるか? どんとウエル亀だ」
ちょっと偉そうに腕を組み、遥か頭上からにやついた顔を見せるアラサーの腰あたりで、爽太くんが思案顔になりました。
こりは当然、私も御相伴に与ってよろしいのですよね? とちらり兄様を窺うと――つるっぱげの巨人は、なぜか蔑むような目でこちらをジヌロと見やり、ハァと息を漏らしました。なんですかその目は。
爽太くんが、
「カツ丼というものを食べてみたいです。まだ食べたことがない、憧れのカツ丼を!」
劇団●季? といった調子で紅潮したお顔を中空へ向け、胸前でぱんっとひとつ手を叩きました。
「心得た! うまいカツ丼を食わせてやるぜ!」
巻かれた手拭いから覗くはげ頭のてっぺんが、秋の陽を受けてきらりと光りました。
☆☆☆
居間に戻って卓袱台に着くと、寝ぐせ風なアホ毛を拵えた綾女が顔を出しました。
ねずみ色のスウェット姿(あんたもか↷)で後頭部を掻きつつ、濁った目線を寄越すと、
「おはよ――ってありゃ、お客さん? お? 神幸ちゃんおっつ~」
すっぴんを躊躇することなく、ふらふらと胡坐をかきます。
「綾女ちゃん、顔は洗ったのでしょうね。お客さんの前ですよ」
「洗った洗った……て道場の子? 初めて見る気がするけど」
「おお、見学の子だ。――いやさ、神幸の『フィアンセ』だぜ!」
頭を掻く手が止まり、
「――は・あ? なにこれモニタリング?」
「ちょ、待てつるっぱげ!」
「おい! 『兄様』どこ行った?! ……って、別に構わねえだろ? 未来の家族になる(may be)んだ、ざっくばらんにいこうぜ?」
居間が騒然となろうかという寸前、
「不知爽太といいます。よろしくお願い申し上げます、お義姉さま」
爽太くんが真っ赤な顔でぎこちなく頭を垂れました。無理しなくていいですよ? 爽太くん。
「将棋のあの人みたいな名前じゃん――てかキミは幾つなの?!」
「綾女ちゃん。落ち着いて」
「ああ、お義姉さまじゃあないぜ? コイツは神幸の妹だから、(爽太の)義妹になるな(いずれ)」
「神幸ちゃんシ●タかよっっっ?! 捕まるよっ?!」
綾女は障子を震わせんばかりに叫んだのでございます。
☆☆
「――ところで兄様。この辺にカツ丼の美味しいお店がありましたでしょうか」
綾女の矛先を無視しつつ、本音で問いました。
かっぱ橋道具街あたりは、飲食店向けの什器や備品を扱うお店が密集することで有名ですが、当の飲食店自体は希少です。喫茶店はちらほら散見されますが。
「●●庵に頼んだ」
「お蕎麦屋さんじゃないですか」
「まっしかっ! カツ丼ていったら蕎麦屋だろうが! 分厚い肉を遠慮した上品な美味さを求めるなら、蕎麦屋のオーソドックスなカツ丼に限る。『美味し●ぼ』でもやってた」
ドヤ顔のハゲが言うのに、爽太くんは不思議そうな顔で、
「あのう、『まっしか』ってなんですか?」
「ああ、隠語のようなものです。兄様は『馬鹿』という言葉を口にしないよう戒めているのです」
「……それで馬鹿なんですか」
「ちなみに、『まっしかっ!』は『ぶあっか!』、『ましかっっ?!』は最上級扱いになります。元ヴィッセル神戸のサッカー選手とは無関係です」
「あれ? でも、『アホ』は口にされるのですね」
「アニキは自分が阿呆だって自覚はあるんだよね」
綾女が頬杖をついたまま、ニシシと笑いました。
☆☆
出前のカツ丼が卓袱台に並びます。
何の変哲もない、蓋の置かれた丼。しかしながらラップを剝がした途端、閉まりきらない蓋の隙間から立ち上る湯気と、ただならぬ和風な出汁の香りが一気に開放されました。
「おー美味そうな匂い!」
綾女が両手を仰いでクンクン鼻の穴をおっぴろげます。
「今日は人が多くて賑やかだな。いいソースになる」
「いつもはもっと少ないんですか? えっと……」
兄様は言い淀む爽太くんに顔を向け、
「お前はその年でエロエロとすごいな。ご推察のとおり、俺らの親は『みんな』くたばっちまったのさ。おかげで俺は三十手前で『家長』になっちまった」
「あ……そ、そうなんですか……」
微妙な顔で目を泳がす爽太くんに、
「全然気にする事ないって。アニキがさらっと口にするくらいなんだから」
既にカツ丼を口に運びながら、珍しく綾女がナイスなフォローを入れてくれました。
爽太くんは暫く丼をじっと凝視しておりましたが、やがてお吸い物に口をつけ、おずおずと卵塗れのカツをひと切れずらし、その下の白米を口に運びました。
作法なのか拘りなのか、召し上がり方は人それぞれで、なかなかに興味深いです。
ずらした熱々のカツにふーっと息を吹きかけ、曇る眼鏡をすぐさま外して置きます。
ゆっくりとひと口噛みちぎり、数度もぐもぐ咀嚼して動きを止めました。
「……美味し!……」
「大市民」の如きひと言を小さく漏らし、揺れる瞳で丼に目を落としました。※
兄様は箸をとめ、棒のような目を少しだけ見開いて、
「そいつぁ良かった。『人生初』の味は死ぬまで忘れないかもしれないからな。『爽太の初めて』が上手くいったんなら俺もひと安心だ」
「言い方! エロいなアニキ」
綾女がニヨついております。
私はというと、先程の遣り取りから一歩妄想が進み――。
――ふむ。不知神幸……いや婿養子で永峰爽太というセンも――などと浸りながら、それはそれは幸せな気分で、ばか美味のカツ丼をもっちもっちと食んでおりました。
ほどよくサックリ感が残る衣に卵が馴染み、ひと齧りで甘い脂が舌に溢れます。胡椒の効いた薄目の肉は柔らかく、衣に染みた「返し」を思い起こさせる濃い目の出汁は、DNAに深く刻まれた「日本人という事実」を呼び覚まします。
やるな●●庵。これは発見でした。悔しいけど、兄様優勝です。
☆☆☆
食後のお茶をまったり――ともいかず。綾女の執拗なツッコミを受けながらも、私は「御苑」で爽太くんと知り合ったことを頑なに秘匿し、襲い来るジャブの嵐を片っ端からパリングで撃ち落とします。
丁度、爽太くんのお母様から入門を了承するL●NEが届きました。
毎週土曜の午前中、晴れてイチャコラできることが決定です。
「二人共ニヤつくな、気持ち悪ぃな」
「神幸ちゃん気を付けてよ? 爽太きゅんも。我慢、我慢するんだよ?」
兄妹の諫言に黙って微笑を返す爽太くんを見ている内――。
「……爽太くん。先程、呼び捨てにされて気の所為か嬉しそうに見えましたが……」
ふと問い掛けると、
「……ボク、呼び捨てにされたことがないんです。親ですら『くん』付けだから……」
小さく肩を竦め、辛うじて聞き取れる程度の声音で囁きました。
はにかむ彼カワイイ♥――と内心悶えつつ、またしても「爽太くんの初めて」を兄様に奪われたかと落胆……。
そのハゲに疑念の視線をすっと向けると、
「神幸はまだそのあたりの修行が足りねえなあ。バイト、精進しろよ?」
開いてるかどうか定かでない棒のような目をして、抑揚の無い声を投げて寄越します。
私の胸に、チクリ何かが刺さったような気がいたしました。
ーーーーー
※ 「大市民」シリーズ……柳沢きみお先生の漫画。ダ・イ・ス・キです。
道具などは全て道場にある物を使用しているため、帰りは皆ほぼ手ぶらです。
淡い陽が射す霜秋の青空のもと、軽やかに駆けて行く様を見送ると、
「爽太、昼飯食べていくか?」
兄様が爽太くんに問い掛けました。
「いいんですか? 見学に来ただけなのに」
「爽太さえよければな。子供が遠慮するこたあない。お兄さんに任せろ! 何か食べたいものはあるか? どんとウエル亀だ」
ちょっと偉そうに腕を組み、遥か頭上からにやついた顔を見せるアラサーの腰あたりで、爽太くんが思案顔になりました。
こりは当然、私も御相伴に与ってよろしいのですよね? とちらり兄様を窺うと――つるっぱげの巨人は、なぜか蔑むような目でこちらをジヌロと見やり、ハァと息を漏らしました。なんですかその目は。
爽太くんが、
「カツ丼というものを食べてみたいです。まだ食べたことがない、憧れのカツ丼を!」
劇団●季? といった調子で紅潮したお顔を中空へ向け、胸前でぱんっとひとつ手を叩きました。
「心得た! うまいカツ丼を食わせてやるぜ!」
巻かれた手拭いから覗くはげ頭のてっぺんが、秋の陽を受けてきらりと光りました。
☆☆☆
居間に戻って卓袱台に着くと、寝ぐせ風なアホ毛を拵えた綾女が顔を出しました。
ねずみ色のスウェット姿(あんたもか↷)で後頭部を掻きつつ、濁った目線を寄越すと、
「おはよ――ってありゃ、お客さん? お? 神幸ちゃんおっつ~」
すっぴんを躊躇することなく、ふらふらと胡坐をかきます。
「綾女ちゃん、顔は洗ったのでしょうね。お客さんの前ですよ」
「洗った洗った……て道場の子? 初めて見る気がするけど」
「おお、見学の子だ。――いやさ、神幸の『フィアンセ』だぜ!」
頭を掻く手が止まり、
「――は・あ? なにこれモニタリング?」
「ちょ、待てつるっぱげ!」
「おい! 『兄様』どこ行った?! ……って、別に構わねえだろ? 未来の家族になる(may be)んだ、ざっくばらんにいこうぜ?」
居間が騒然となろうかという寸前、
「不知爽太といいます。よろしくお願い申し上げます、お義姉さま」
爽太くんが真っ赤な顔でぎこちなく頭を垂れました。無理しなくていいですよ? 爽太くん。
「将棋のあの人みたいな名前じゃん――てかキミは幾つなの?!」
「綾女ちゃん。落ち着いて」
「ああ、お義姉さまじゃあないぜ? コイツは神幸の妹だから、(爽太の)義妹になるな(いずれ)」
「神幸ちゃんシ●タかよっっっ?! 捕まるよっ?!」
綾女は障子を震わせんばかりに叫んだのでございます。
☆☆
「――ところで兄様。この辺にカツ丼の美味しいお店がありましたでしょうか」
綾女の矛先を無視しつつ、本音で問いました。
かっぱ橋道具街あたりは、飲食店向けの什器や備品を扱うお店が密集することで有名ですが、当の飲食店自体は希少です。喫茶店はちらほら散見されますが。
「●●庵に頼んだ」
「お蕎麦屋さんじゃないですか」
「まっしかっ! カツ丼ていったら蕎麦屋だろうが! 分厚い肉を遠慮した上品な美味さを求めるなら、蕎麦屋のオーソドックスなカツ丼に限る。『美味し●ぼ』でもやってた」
ドヤ顔のハゲが言うのに、爽太くんは不思議そうな顔で、
「あのう、『まっしか』ってなんですか?」
「ああ、隠語のようなものです。兄様は『馬鹿』という言葉を口にしないよう戒めているのです」
「……それで馬鹿なんですか」
「ちなみに、『まっしかっ!』は『ぶあっか!』、『ましかっっ?!』は最上級扱いになります。元ヴィッセル神戸のサッカー選手とは無関係です」
「あれ? でも、『アホ』は口にされるのですね」
「アニキは自分が阿呆だって自覚はあるんだよね」
綾女が頬杖をついたまま、ニシシと笑いました。
☆☆
出前のカツ丼が卓袱台に並びます。
何の変哲もない、蓋の置かれた丼。しかしながらラップを剝がした途端、閉まりきらない蓋の隙間から立ち上る湯気と、ただならぬ和風な出汁の香りが一気に開放されました。
「おー美味そうな匂い!」
綾女が両手を仰いでクンクン鼻の穴をおっぴろげます。
「今日は人が多くて賑やかだな。いいソースになる」
「いつもはもっと少ないんですか? えっと……」
兄様は言い淀む爽太くんに顔を向け、
「お前はその年でエロエロとすごいな。ご推察のとおり、俺らの親は『みんな』くたばっちまったのさ。おかげで俺は三十手前で『家長』になっちまった」
「あ……そ、そうなんですか……」
微妙な顔で目を泳がす爽太くんに、
「全然気にする事ないって。アニキがさらっと口にするくらいなんだから」
既にカツ丼を口に運びながら、珍しく綾女がナイスなフォローを入れてくれました。
爽太くんは暫く丼をじっと凝視しておりましたが、やがてお吸い物に口をつけ、おずおずと卵塗れのカツをひと切れずらし、その下の白米を口に運びました。
作法なのか拘りなのか、召し上がり方は人それぞれで、なかなかに興味深いです。
ずらした熱々のカツにふーっと息を吹きかけ、曇る眼鏡をすぐさま外して置きます。
ゆっくりとひと口噛みちぎり、数度もぐもぐ咀嚼して動きを止めました。
「……美味し!……」
「大市民」の如きひと言を小さく漏らし、揺れる瞳で丼に目を落としました。※
兄様は箸をとめ、棒のような目を少しだけ見開いて、
「そいつぁ良かった。『人生初』の味は死ぬまで忘れないかもしれないからな。『爽太の初めて』が上手くいったんなら俺もひと安心だ」
「言い方! エロいなアニキ」
綾女がニヨついております。
私はというと、先程の遣り取りから一歩妄想が進み――。
――ふむ。不知神幸……いや婿養子で永峰爽太というセンも――などと浸りながら、それはそれは幸せな気分で、ばか美味のカツ丼をもっちもっちと食んでおりました。
ほどよくサックリ感が残る衣に卵が馴染み、ひと齧りで甘い脂が舌に溢れます。胡椒の効いた薄目の肉は柔らかく、衣に染みた「返し」を思い起こさせる濃い目の出汁は、DNAに深く刻まれた「日本人という事実」を呼び覚まします。
やるな●●庵。これは発見でした。悔しいけど、兄様優勝です。
☆☆☆
食後のお茶をまったり――ともいかず。綾女の執拗なツッコミを受けながらも、私は「御苑」で爽太くんと知り合ったことを頑なに秘匿し、襲い来るジャブの嵐を片っ端からパリングで撃ち落とします。
丁度、爽太くんのお母様から入門を了承するL●NEが届きました。
毎週土曜の午前中、晴れてイチャコラできることが決定です。
「二人共ニヤつくな、気持ち悪ぃな」
「神幸ちゃん気を付けてよ? 爽太きゅんも。我慢、我慢するんだよ?」
兄妹の諫言に黙って微笑を返す爽太くんを見ている内――。
「……爽太くん。先程、呼び捨てにされて気の所為か嬉しそうに見えましたが……」
ふと問い掛けると、
「……ボク、呼び捨てにされたことがないんです。親ですら『くん』付けだから……」
小さく肩を竦め、辛うじて聞き取れる程度の声音で囁きました。
はにかむ彼カワイイ♥――と内心悶えつつ、またしても「爽太くんの初めて」を兄様に奪われたかと落胆……。
そのハゲに疑念の視線をすっと向けると、
「神幸はまだそのあたりの修行が足りねえなあ。バイト、精進しろよ?」
開いてるかどうか定かでない棒のような目をして、抑揚の無い声を投げて寄越します。
私の胸に、チクリ何かが刺さったような気がいたしました。
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※ 「大市民」シリーズ……柳沢きみお先生の漫画。ダ・イ・ス・キです。