興奮と不安、火が消える寸前のような若干の余韻を引き摺りながら、薄暗い道を独り歩き続けました。

 離れが見える辺りに辿り着くと、表で何か、腕を組んで仁王立ちしています。
 遠目には頭頂部がぼんやりと光っていて、周囲を淡く照らす外灯のような塩梅です。
 詮索するまでもなく、兄様でした。

 多分、濃紺の作務衣姿で、首に白いタオルをまわしています。裾がつんつるてんなのはいつものことです。
 何しろ、身の丈百九十センチを越える大男です。ひょろっとした外見、無駄な肉もない、剣客のような体躯をしています。
 今でも趣味で、寺の敷地内に(しつら)えた小さな道場で、近所の子供たちに「剣術」を教えていらっしゃいます。まことかは存じませんが、「念流(ねんりゅう)」というそうです。


 お互いの顔が分かる程度に近寄ったところで、兄様が腕を(ほど)きました。

「おかえり。珍しいな、神幸(みゆき)が日中外出(そとで)とは」
「ただいま――帰りました。えーと……どうされました? こんなところで」
「バイトのない日曜に『離れ』にいないものだから、すわ『家出か?!』って焦ったのさ」
「左様で。それはご心配を……」

 ふと、私の中に微かに芽生えた「茶目っ気」というものが頭をもたげ、

「――今日は『デート』でございました」

 心持ち胸を張り、余裕で視線を交差させます。

「まじぇ?! いつの間に」
「ついでにプロポーズもされました」
「ま?! ……あ、相手は……」
「小学四年生のかわいらしい男の子です」

 まあせいぜい笑うがよいですよ、ふふんと兄様を見やると、再び腕を組んで無表情になりました。
 あれ? 予想外のリアクション。
 ……どこかで近隣の犬が「ワオーン」とひとつ鳴きました。


 狭い空間に、どこか気まずい沈黙が漂います。
 どうしてこんなことに……急に寒気がして、両腕を(さす)りながら多少後悔の念にかられていると、

「――相手の子は真剣なのか? 単なる憧れなどでは?」

 低いのによく通る声で、兄様が問いかけました。
 落ちた私の視線の先で、雪駄(せった)から覗く足指が、爪をたてるようにギュッと力が込められています。
 いつもながらド●ベン風な棒状の細い目は、()いているのかどうかよくわかりません。

 予想外に張り詰めた気配に気圧(けお)されつつも、私なりに覚悟を決めて、

「真剣のようです。勿論、先のことはわからないけど、今の気持ちは本物、だそうです」


 兄様は微動だにせず、私を揶揄(からか)うでもなくやがて――ひと言呟いたのです。

「――手が後ろに回らねーようにな」

 脳内でその言葉をもぐもぐと咀嚼(そしゃく)し――すぐさま沸騰した私の顔は、果たして兄様の目に映ったものかどうか……。
 言い捨てた兄様は、ふらふらと覚束(おぼつか)ない足取りで母屋へと去っていきました。


☆☆☆
 

【委員長に腕相撲で負けちゃったんです】

 翌月曜日、モニタに映る爽太(そうた)くんが、しょぼんとこぼしました。

 やはり午後八時半頃、塾帰りに立ち寄ったのです。
 お金は不要ですよと告げましたが、

「公私の別は大事です」

 生真面目なセリフに何も言えず。


 昨日のこともあり、ふいにやって来た(私はスマホも携帯もナッシング)彼を目にして、どれだけ浮足立つ(動揺?)かと身構えましたが、思いのほか自身は落ち着いておりました。
 (いと)おしいという気持ちは当然あるのですが、特別、(まなこ)(かすみ)がかかっている風でもなく。
 なんとなく「満ち足りた」心持ちと申しますか……。


【ボク、運動神経は普通だと思います。運動は嫌いじゃないんです。でも腕力は無いので、彼女に負けちゃったのも不思議では……】
「委員長は女の子でしたか」

 本日彼が選択した『お隣の若妻』の声で、彼の耳に届いているものと思われます。
 この選択に多少の疑念と不安が湧きましたが、そもそも、これを今日用意した兄様の思惑がよくわかりません。

「それは、ツイてないというより……」
【そこは問題じゃなくて、てか問題ではあるんですけど……クラスのおしゃべりな女の子に見られちゃったのが……不覚でした】

 昼休みに、面白おかしく吹聴されたそうです。

【自分がひ弱なことを卑下(ひげ)したことはなかったんですけど、このままではいけない、と今日は本気で思いました。なんとかしなきゃ、って……】

 花一輪捧げた腕が「ちぎれちゃう!」といったのは、冗談でもなかったのでしょうか。

「育ち盛りなのですから、これから体力もつくでしょう」
【ダメです。ボクは神幸さんを守らなきゃいけない身です。悠長なことを言ってられません】

 あら男らしい♥
 せっかく平静でおりましたのに、そのようなセリフを耳にするとちょっと血が(たぎ)ります。
 アクセル踏んでもよろしいかっ? いやいや、ここは落ち着け私……。

(……健全育成条例、健全育成条例……)

 とりあえず呪文のように心中で唱えてみます。ちょっと長いな。もう少し短めに……。
 それはそうと。

 私が爽太くんをお守りしますよ? ――口をつきそうになりましたが、難しい顔の彼を見て押し(とど)めました。

【格闘技を習おうかと】
「スケジュールに余裕はあるのですか? どのような格闘技を?」
【週一ならなんとか……。どんなものにするかはまだ決めてないです】

 即座に、「得物を持たせればストリート最強」と豪語する、兄様の顔が脳裏に浮かびました。
 そんな物騒なものを子供らに教えているとは思いませんが。

 いやしかし……どうでしょう。
 事情を伏せて……無理ですね、兄様は察するでしょう。
 別にバレたからといって不都合は……綾女あたりはちよと面倒でしょうか。


 ……長い事思考に落ちてしまったようで、

【神幸さん、どうされました?】

 心配そうな顔がモニタ画面一杯に大写しとなり、思わず椅子ごと飛び退()さります。

「い、いえ、なんでも」

 今日イチで心臓が跳ねました。
 胸に手を当て、ふいーっと息を吐きつつ、あらためて画面に目を向けます。

 今日も眼鏡は清流のような透明度でございます。ヤマメの魚影が見えるようです。
 おめめも澄んで超ラブリー♥。
 昨日私の頬に触れた「アレ」も、グミのように愛らしくご尊顔に引っついていらっしゃいます。
 思わず顔がスーッと画面に吸い寄せられ……。

(――アカンっ! 健全育成条例健全育成条例エッチスケッチワンタッチ……)

 新手のマントラ(真言)を生み出してしまいそうです。無意識に印を結んでいる両手を慌てて振りほどきました。
 彼は自分を抑えて「おともだちから」と言ってくだすったのに、私の方が前のめりすぎませんか?


「う、うちの兄が、土曜の午前中のみ、近所のお子さんたちに『剣術』を教えております」
【剣道ですか? いいですね!】
「いえ、『剣術』だそうです、拘りがあるようで。よろしかったら、一度見学にいらっしゃいますか?」
【はい! そうですね……親とも相談してみます】
「それがよいです」


 もし通うようになったら、土曜は半日一緒にいられるわけで。
 私も久し振りに参加して、あんなことやこんなこと、できたらいいな……。

 (よこしま)な思考に支配され、

「ぐへへ」

 自分でも気味の悪い笑い声にドン引きいたしました。


 心配無用です、お母さま。私、いたって冷静です、問題ございません。