「今からクソ上司に報告してくる」
「間違っても人間に感情移入し過ぎるなよ」
「分かってるよ」

 そう言って歩き出した俺の背中に、念押しのように同期がまた声を掛けた。


「ヒスイ! 天使が人間に余分な感情を持ったら終わりだからな!」


 俺は同期の言葉に顔だけで振り向き、深く頷いた。
 奥井澪とのやり取りは、あくまで記憶消去のため。それ以上でも、それ以外でもない。
 だからと言って、不必要に傷つけていいとも思っていない。だから、どうにかその行為に納得してもらう方法を思案した結果が『俺を好きにさせてみせる』だった。
 
「俺は、納得してもらいたいだけだよ」

 そう告げて、また足早に廊下を進み『悪魔討伐本部』と書かれた大部屋を通過していく。そして、『第一部隊 隊長室』とプレートのついた部屋の扉をノックした。

「ヒスイです。戻りました」
「消したのか?」

 部屋に入るなり、椅子の背凭れに体を預けて腕組みをした隊長が、まるでノートに書いた文字を消しゴムで消すような気軽さで、俺にそう問い掛けてきた。
 人の、記憶の話をしているというのに……。

「いえ、まだです」
「どういうつもりだ? そんなもの、強引に消去できるだろ!」

 そんな上司の言葉に、俺はイラついて思わず感情的に反論する。

「ですが! 泣いている相手に無理やりそれをするのは、あまりにも横暴ではないでしょうか?  我々は天使であって悪魔ではありませんよ」

 それに、元々はこの上司のミスのせいでこうなったのだ。どう考えても、奥井澪はこちらの不手際に巻き込まれた被害者だ。
 ほんの少しも申し訳ないと思っていない態度に、俺は怒りを込めて隊長の目を睨む。

「お前ができないのなら、他の奴を下界に送るだけだ」
「は? 待って下さい!」

 涙をこぼした澪の姿が脳裏を過ぎる。
 思わず背中越しに抱き締めてしまったその肩は、小さく震えていた。それでも涙を隠そうとして、何度も何度も目元が赤くなるまで必死になって拭っていた。

 そんな姿を見てしまったら……。
 せめて、他の天使に強引な方法で唇を奪われる事態だけは避けてあげたいと思ってしまう。

「この件は、自分がなんとかします」

 宣言してからすぐに背を向け隊長の部屋を退室する。部屋の扉が閉まる直前に、上司が先程の同期と同じ言葉を俺に向けた。

「ヒスイ。天使が人間に、余分な感情を持ったら終わりだぞ」

 何度も言われなくても、そんなこと理解している。

「重々、承知しております」

 お前なんかに言われなくても……。
 後半の言葉をグッと心に押し込めて、俺は隊長に一礼して扉を閉めた。


 天使には、決して破ってはいけないルールがある。
 それを破ってしまった違反者は『堕天使』と呼ばれ、天界に関する全ての記憶を奪われた後に追放される事になっている。

 天使にとっての罪の定義は八つの想念に反する行為を意味しており、そのうちの七つは全知全能の神ゼウスへの謀反行為などだ。

 そして残りの一つ。
 八つ目だけは、他とは明らかに異なる禁を意味していた。

 それは、下界に住まう者に持ってはならない感情を持つこと。つまり、人間に『恋』をすることだ。これは違反者として、即刻堕天使の烙印を押される事になる。

「奥井澪と関わるのは、記憶消去のため」

 天使としての禁を俺が犯すはずがない。
 それでも、今まで悪魔討伐本部で人間と関わる事が無かったせいか、こんな事態になるのは初めてで、人間の女の子を追い詰めて泣かせてしまった事に、やりきれない思いが心の中に残っていた。

「悪魔と戦ってる方がずっと楽だわ」

 ハーッと大きく溜息を吐いて、くしゃくしゃと髪を掻きむしるように頭を掻く。


「…………天使が人間に、余分な感情持ったら終わり」


 何度も念押しされた言葉が無意識のように自分の口からもこぼれ、天使教会本部の冷えた床の上に落ちて消えた。