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 その日のお昼休み。
 日差しの降り注ぐ学校の屋上で、私は隣に座っている命の恩人にお礼を伝える。

「香織先輩! 本当に有り難うございました」

 香織先輩は、私が所属している天文部の部長さんで、川に落ちた私を目撃して通報してくれた人だ。そして、私がこの学校で緊張せずに話せるわずか三人の中の一人でもある。

「お礼はもう充分よ! 夏休み中だって、電話もメッセージもいっぱいもらったしね」

 笑ってそう話す香織先輩の横で、一緒にお弁当を食べている舞衣ちゃんが言葉を挟む。

「いやいや、そこは何回言っても足りませんよ〜。香織先輩は澪の命の恩人なんで!」

 舞衣ちゃんの言葉に、私も大きく頷いた。
 舞衣ちゃんは一年から二年になった今もずっと同じクラスで、一番初めに話しかけてくれたクラスメイト。明るくて話好きで、私と正反対の性格だけど、星座好きという共通点から話せるようになり、一緒に天文部に入ってからは親友になった。

「まだまだお礼させて下さいね」
「澪のご両親からも、クッキーにゼリーにケーキに、いっぱいお礼もらったから、これ以上甘いもの貰ったら太っちゃうじゃない」

 香織先輩の言葉に、私と舞衣ちゃんは揃って首を横に振る。

「香織先輩は全然大丈夫です!」

 香織先輩はスタイルがよく、ショートヘアーの似合うクールな雰囲気をしている。
 舞衣ちゃんは胸の下まである黒髪のロングヘアーで、ぱっつん前髪がトレードマークだ。

 いつもお昼はこの三人で、こんな風に話をしながらのんびりと過ごしている。
 私はお弁当のだし巻き卵を箸で摘んで頬張りながら、ずっと気になっていた事を二人に問い掛けた。

「香織先輩と舞衣ちゃんは、天使っていると思います?」
「電話で話してた、病院で眠っている間に見た夢の話?」

 舞衣ちゃんの問い掛けに私はうなずく。

 私には、自分でも説明のつかない不思議な記憶があった。それは、全身真っ黒な服装の死神のような天使に関する記憶だ。

 最初は事故で眠っている間に見た、ただの夢だと思っていた。けれど日が過ぎても天使だと言った彼の姿を鮮明に覚えていて、むしろ日を追うごとに細かな事まで思い出すようになった。

『天使協会 悪魔討伐本部 副隊長・ヒスイ』
『俺のことは、完全に忘れてもらわなきゃ駄目なんだ』

 そんな言葉と、腕の中に抱き寄せられた感触が今もはっきりと残っている。
 彼氏いない歴がそのまま年齢である私にとって、男性に抱き寄せられた事だけでも衝撃的なことだったのに……。触れそうになった唇を思い出し、顔がカッと熱くなる。

「あ。澪、ごめん! ちゃんと話を聞きたいんだけど、図書委員の集まりあるからもう行かなきゃ」
「私も日直だ。澪、ごめん!」

 申し訳なさそうに私を見る二人に、「全然、気にしないで」と私は笑顔でうなずく。

「どうする? 澪も一緒に教室に戻る?」
「私はもう少し、屋上でゆっくりしていくよ」

 立ち上がり駆けていく先輩と舞衣ちゃんに手を振って、二人の背中越しに広がる澄んだ青空を見上げる。六月の梅雨時期の貴重な晴れ間だ。

「良い天気だなぁ」

 呑気に独り言を呟く。
 その時、空にあるはずのない人影が見えて私はその方角を凝視した。

「え?」

 見間違いかと思ったそれは、夢の中で私を抱き寄せた背の高い彼……あの時の天使で、彼が今、現実に私の目の前にいる。しかも、宙に浮いて。

「うそ……夢じゃなかったの?」

 そして、重力を感じさせない軽やかな動きで屋上にふわりと着地した。
 初夏だというのに、相変わらず彼は黒のロングコートを羽織っており、百八十センチを越えていそうな長身と黒ずくめの姿が、のどかな屋上の風景とかけ離れた威圧感を醸し出している。

 そんな彼と目があった瞬間、あの時と同じ甘い低音の声に名前を呼ばれた。


「見つけた。奥井 澪」


 端正な顔が、嬉しそうにほころんでいく。
 私は固まって動けないまま、ただ呆然とその眩しい笑顔を見つめる事しか出来なかった。