その日、授業が終わると私は急いで家に帰り母親にコンタクトにしたいと話をした。突然のことに驚いていたけれど、一緒に眼科に行ってくれることになり、私はその日、人生で初めてコンタクトレンズを入れた。

 オシャレに服を変えるように、今は気軽にカラーコンタクトを楽しんでいる人もいるけれど、私には眼鏡を普通のコンタクトに変えるだけでも大きな勇気がいった。

「どうですか?」
「違って見えるような気がします」
「見えづらいですか?」
「あ、いえ、違うんです。ちゃんと見えてます。よく見えてます」

 違って見えたのは、世界。
 コンタクトにしたことで、たったそれだけのことで、私には今までと少し世界が違って見えた。

 何事にも積極的に行動できる自分になりたい。そう思いながら、いつも自分には無理だとやる前から諦めてきた。小学生の頃に虐められたトラウマから失敗が怖くて、必要以上に怯えて動けなくなった。

 ヒスイさんへの恋心が、私に勇気をくれる。
 一歩、前へ。踏み出せたような気がする。

 マンションまで戻ってくると、エントランスで蓮ちゃんに会った。

「澪……?」
「あ、蓮ちゃん。おかえり」

 蓮ちゃんは私を見て目を丸くして驚いている。ハッとしたように母の方を見て挨拶をしていた。そして、一緒にエレベーターに乗り込む。

「眼鏡は?」
「コンタクトに、変えてみたの。変かな?」
「全然、変じゃないけど……。なんで急に?」
「変わりたいって、思ってたんだ」

 私は蓮ちゃんに微笑む。

「本当はね、ずっと変わりたかった。やっと、その勇気が出たの」

 そんな私の言葉に、蓮ちゃんは先ほどよりも目を見開いて驚きの表情を浮かべている。そして、もう一度私に何か言おうとして言葉を止めた。エレベーターが到着したからだ。

「またな」
「蓮ちゃん、何か言おうとしたよね?」
「ああ……いや、全然たいしたことじゃないよ」

 蓮ちゃんは一つ上の階なので、私はエレベーターを降りて手を振る。

「じゃあ、またね」
「おう」

 扉が閉まる直前に見えた蓮ちゃんの顔は、どこか辛そうな表情をしていた。もしかすると、またお兄さんの秀ちゃんと自分を比べているのかもしれない。
 歳の近い同性の兄弟がいると、親や周りの大人達に比べられて嫌な思いをすることが多いと聞いたことがあった。

 蓮ちゃんは、小学生の頃に虐めらていた私を助けてくれた人だ。
 私が蓮ちゃんに何かできることがあればいいのにと思考を巡らせてみたけれど、今は何も答えが浮かばなかった。
 

 ****


 私の部屋の中に、コンコンッと二回、窓ガラスを叩く音が鳴る。
 ヒスイさんのノック音だ。

 コンタクトに変えたことをヒスイさんは気づいてくれるだろうか。
 私は緊張しながら窓を開けた。

「今日は戻ってくるの遅かっ……あれ? 澪、眼鏡はいいのか?」

 出迎えた私を見て、ヒスイさんがすぐに気付いてくれた。

「はい。コンタクトレンズに変えてみました」

 気付いて欲しいと思っていたのに、気付いてもらえたら途端に照れくさくなって私はヒスイさんから視線をそらす。そんな私に、ヒスイさんは私の目線まで膝を折って屈むと顔を覗き込んできた。

「眼鏡も似合ってたけど、今の方が俺は好きかな」

 ヒスイさんにとっては何気ない言葉なのかもしれない。
 それでも私は、嬉しさと気恥ずかしさで心がいっぱいになってしまう。
 そして、叶うはずもないことを夢見てしまうのだ。

 ずっとこんな風に、ヒスイさんの、あなたの側にいられたらいいのに……。

 そう、願ってしまう。
 それを誤魔化すように私は、「ありがとうございます」と強がって笑った。