相変わらず会話の中味は何を話しているのか全く分からないけれど、逃げ出すなら今しかないような気がする。
 彼が誰かとの会話に気を取られているうちに、私はそっと扉へ近付いていき橋まで出ると走り出した。

 長い橋だけど、とにかく渡り切ってみよう。

 一秒でも早くこの奇妙な空間から逃げ出したい一心で、私は全速力で走る。それでも、走っても走っても同じ景色が続くばかりだった。

 この橋に終わりはあるのだろうかと不安がピークに達した時、(もや)の向こうに大きな門が現れた。今まで続いた白一色の無機質な空間とは異なり、金銀で装飾された豪華な門だ。

 その門に恐る恐る手を伸ばしたその時、この場所まで一瞬で移動して来た彼が強く私の手首を掴んだ。

「ダメだ! 戻れなくなるぞ!」
「は、はな、離して……下さ……」

 その手を振り払おうとしたけれど、恐怖で体が固まり声も震えてしまう。

「怖がらせてごめん。でも、この門を越えたら君の意識が体に戻れなくなる。それと、今はとにかく時間がなくて……。君の意識が下界に降りる前に、俺のことを完全に忘れてもらわなきゃ駄目なんだ」
「わ、忘れます……だ、誰にも言ったりしません。だから……」

 ここから帰る方法を教えて下さい!
 混乱する思考の中でそう続けようとした私の言葉が、弾んだ彼の声に勢いよく遮られた。

「ありがとう! 俺たち天使にとってはただの記憶消去でも、人間にとっては意味のある行為だって知ってるから。了承してくれてよかったよ」

 そんな言葉の意味を考えるより先に、不意に引き寄せられた私の体は彼の腕の中へと倒れ込む。

 え?

「じゃあ、消させてもらう。ごめんな」

 耳元で甘い低音が響いたかと思うと、大きな手のひらが私の後頭部を優しく包み込んだ。そして、背の高い彼が身を屈めて顔を近付けてくる。

 え、え、えっ……?
 うそ?
 もしかして、わ、私、キスされちゃうの?

 混乱して動けない私に、ゆっくりと迫ってくる彼の唇。あと十センチ、あと五センチと距離がなくなり……。

 やだ、触れちゃう。

 そう思った瞬間、二人の唇が重なる前に私の視界がグニャリと歪んだ。そこから一気に抗えない程の脱力感に襲われ、私の意識が徐々に遠のいていく。

 どうしよう。
 消えてしまいそう……。

 ふわふわとした感覚が体を包み、そのまま深い眠りへと落ちていく。意識が、寝ていると起きているの中間地点を彷徨う中で、また彼の声が聞こえたような気がした。

「間に合わなかった。隊長! タイムオーバーです! 記憶を消す前に、奥井 澪の意識体は下界の肉体に戻りました」

 その言葉を聞いた数秒後に、私の意識は完全に暗転したのだった。