十二月に入った頃〝オトとキイの物語の冬〟が終わった。
 自覚した恋心を認めきれない冬に、私たちは少しばかり設定をプラスした。キイはグループ内に好きな人がいて、その相手には恋人がいる。オトはそんなキイの恋に気づいているという一方通行の関係。
 キイに恋をしても苦しいだけだとオトは自分の気持ちに抗おうとするけれど、結局感情に嘘はつけなかった。というのが〝オトとキイの冬〟だ。
 春は片思いだけど少しずつ関係を深めていき、夏には告白を決意する、という流れにする予定。
 
 四季の中で冬の配分を多くすることに決めた。オトが恋を自覚するまでの感情の揺らぎが、この話一番の切なさで見どころではないか、と考えたから。
 春と夏は想像しないといけないから大変という消極的な理由もあるにはあるけど。
 今までぼんやりとしていた物語像がしっかりと固まり〝オトとキイの物語〟の完成形が見えてきた。

 物語は順調に完成に向かう反面、keyの投稿は一旦停止となった。

 イルミネーションをまだ見に行けていないからだ。
 私たちは、オトがキイへの気持ちを認める舞台をイルミネーションに決めた。
 オトとキイはいつものグループで遊んだ後、偶然二人きりの帰路となる。イルミネーションが素敵なエリアを通りかかり、キイの提案で少しだけ立ち寄ることにする。煌めく世界の中にいるキイがライトよりも輝いて見えたオトはついに抗っていた気持ちを認め、降参する。

 〝オトとキイの物語〟の山場となるこのシーンは、臨場感あるものにしたいという駆の考えのもと。実際にイルミネーションを見に行ってから150文字を考えることにした。
 だから今は先に春や夏の150文字を作っているところ。イルミネーションシーンを投稿するまでは、時系列を考えて投稿を一時停止している。
 
 肝心のイルミネーションは、十二月二週目の土曜日に約束した。
 オトの気持ちとリンクしてしまったらどうしよう。
 その日が来るのが楽しみなような、怖いような複雑な気持ちで私は今日もスノードームを逆さにする。
 
 ・・

「今日はお弁当ないんだ。だから学食に行こうかと思って」
「私もー。雫は? お弁当だよね?」
 
 私たちは教室でお弁当を食べることが多く、学食を利用することはあまりなかった。いつものように私がお弁当を取り出すと二人は申し訳なさそうにそう言った。
 
「うん。じゃあ私も学食で食べるよ」

 二人に合わせて微笑むと一瞬。ほんの一瞬、間があいた。

「えー付き合ってくれるの? ありがとー」
「じゃあ行きますか」

 ああ、しまった。きっと今のは〝不正解〟だったんだ。二人は笑顔のままでいてくれるけど、私が学食に行かない可能性にかけていたんじゃないだろうか。きっと教室に一人残るのが〝正解〟だった。
 だけど不正解を選んでしまったなら、もう進むしかない。私は二人の隣に並ぶと笑顔を浮かべて「二人は何食べるの?」とどうでもいい質問をしながら学食に進んだ。

 ガヤガヤとした学食で香菜はラーメン、友梨はうどんを購入した。私はトレイを持っていないから率先して席を探す。

「ここ空いてるよー」
「ありがとう。――ん、なんか珍しい組み合わせ」

 席に座ろうとした香菜がジィとどこかのテーブルを見ている。香菜の視線の先には……駆と、山本さんがいた。

「え? 鍵屋と山本さんが二人? 本当に珍しいね」

 席に座りながら友梨も感想を述べる。正直それは私も同意見だった。駆と山本さんが話しているのを見たことがない。あるにはあるがそれはクラスメイトとして用事があったときくらいで。そう、つまり普段の私と駆のように。
 だけどそれは教室内で見せている姿なだけかもしれない。そう思うほどに二人は仲よさげで話も盛り上がっているように見えた。

「本当に二人きりなの?」
「だって周り上級生じゃない? 他の子もいないって」
「えー付き合ってんのかな。意外ー。てか鍵屋って三組の子と付き合ってなかったっけ?」
「あの可愛い子ね。あの子とは夏休みには別れてたと思うけど次が山本さんって想像つかないわ」

 香菜と友梨の会話が耳をすり抜けていく。
 付き合ってるってことはないと思う。最初の公園で恋人はいないと言っていたし、恋人がいるのにイルミネーションの約束をするわけはない、と思う。
 けれど交際の事実がどうであれ、二人が親密な様子なのは明らかだった。
 
 ずしり。最近消えていたはずなのに。お腹の中にどっかりと座る何かがまた帰ってきてしまった。

「山本さんってけっこう積極的なのかな?」
「雫、よくペア組んでるけどどう?」
「あんまり話したことないからどうだろ。よく知らないや」

 なんとか口角は上げられたと思う。うまく笑顔が作れたかはわからないけど、二人は目の前のニュースに食いついたままで私の表情の変化には気付かない。

「確かに山本さんが話してるとこってあんま見たことない」
「でもその山本さんがあんなに喋ってんだよ」
「恋は偉大だねー。そうそう、私たち雫に提案があるんだよ」

 うっとりとした表情を作った後に香菜は私に視線を向けた。私に話が戻ってくると思っていなかったから慌てて表情を作り直す。

「恋は偉大ってことで! 雫も恋してみませんか!」

 香菜は楽しそうに私に指をビシッと向ける。
 
「恋……?」
「そうそう。私と友梨の彼氏って大学のサークルの友達なのね。そこのメンバーで何人か彼女募集中の人がいるんだよ。どうっ!?」

 身体に瞬時にぴりっと緊張が走る。ああ、これは〝不正解〟を選んではいけない。
 先日のトイレでの一幕を思い出す。これは彼女たちなりの優しさなんだ。輪に入れない私のための慈悲。一緒に恋の話が出来るように。
 でも、恋の話が出来ない私なんていらない。と聞こえてしまうのは、さすがにマイナスに受け止めすぎだろうか。

 キラキラした目で香菜は私の返事を待っていた。恋が楽しい香菜にとっては、恋人が出来る=嬉しいと信じている顔だ。
 見守る友梨もにこにこしていて、私は絶対に正解を選ばなくてはいけない。

「えっもしかして紹介してくれるってことー?」
 
 出来るだけ明るいトーンで嬉しそうに。そう意識しながらの返事は正解だったらしい。ぱっと華やぐ笑顔を浮かべて香菜は詳細を語り始めた。

「私と友梨で行きたいイルミネーションがあってね、元々ダブルデートしよって話してて。そこに彼氏たちの友達も呼ぼうと思ってる。つまりトリプルデートってこと! どうどう? 絶対楽しいよね」
「雫も好みがあると思うからさあ……どの人がいい? この人と、この人は恋人がいなくって」
 
 友梨はスマホを取り出すと何人かがうつった写真を私に見せる。
 呆気にとられながらも写真を覗き込む。こうして写真を用意していたり、恋人の有無を確認しているということは。この話は前々から二人が計画していたものなのだろう。
 
 正直行きたくはない。
 私は恋がしたいわけでも恋人が欲しいわけではない。それにイルミネーションの約束だってしている。
 だけど……二人の楽しげな顔を前に不正解を選ぶことなんて出来るんだろうか。

「じゃーん! ここすごくない!? きれいでしょ!?」

 香菜がチラシを見せる。それは私と駆が行く予定のイルミネーション会場だった。
 ずしりずしり。ますますお腹が重くなり胃までキリキリと音を鳴らし始めた。

 ――私は。駆としかイルミネーションを見に行きたいと思えない。他の誰とも恋をしたくない。恋人なんていらない。
 
 恋心に気付くなら。オトみたいにイルミネーションの煌めきの中で気づきたかった。こんなにガヤガヤした食堂で気持ちを自覚するなんて。
 物語のようなロマンチックさなんて何もない。現実はこんなものだ、なんて呆気ないんだろう。

 だけど自分の気持ちに気付いたからといってこの誘いを断ってしまったら……。
 これが最後の選択な気がした。これは輪に入れない私が内に入るための最後のチケット。二人が考えてくれたチャンス。これを無下にしてもいいのだろうか。

「すごいねーここ!」
 
 駆と約束してから何度も公式サイトを確認したくせに。楽しみで毎日眺めていたくせに。今初めて目にするかのようなリアクションをする自分に反吐が出る。

「でしょ。国内最大級だからね」
「でも私らだけでいくとアクセス悪いじゃん? 車出してもらえるから楽だよ」
「確かに」

 駆と電車とバスを乗り継いでいくつもりだった、もみじまつりのように。アクセスが悪くても道中で150文字を発表しあえばすぐに時は過ぎるから。足の疲れも感じないくらいに。
 
「いつ行く予定?」
「クリスマスあたりがいいかなって思ってる。まだ日にちは決定してないけどね。肝心の雫の相手もまだ決まってないし」
 
 友梨の答えに安堵した。十二月後半なら駆と行く日にちと被っているわけじゃない。
 それなら……別に二回行けばいいだけの話じゃない? 嘘のリアクションをするのは得意だから、二回目のイルミネーションもきっと初めてみたいに対応できる。
 
「雫どう? 雫んち、夜別に平気だよね?」
「うん、すごく素敵だねここ。行きたいっ!」
「やったー! ね、どの人がタイプ? この中にいなくても他もあたれるし」
「どんなタイプが好きかだけでも教えてー」

 二人の喜びが私を突き刺す。
 ……これでいいんだ。私は二人にとっての〝正解〟を選べたんだから。これできっと大丈夫だ。

 ・・

 図書室に行くのは気が重かった。お昼にイルミネーションの約束をしてしまったこともあるし、駆と山本さんの関係も気になる。

 私たちは恋人でもないし、お互い誰かとデートしたって問題はない。
 なのにどうしてこんなに全身が重いのだろう。ずっとお腹のなかにいる何かがアメーバみたいに増殖して肩や足の甲に乗っかっている。足を引きずって歩かないといけないほどに重かった。

「よ」
「わ、わあ!」
 
 図書室の扉を開こうとして後ろから声をかけられる。驚いて振り向くと歯を見せて笑う駆がいた。

「もう、びっくりしたあ」

 駆が笑わせてくれるから少しだけいつもの私を取り戻せる。

 作戦会議もいつも通り始まっていつも通り終わった。春に投稿する作品が今日は十も採用されて〝オトとキイの物語〟は順調。
 そろそろ夏に差しかかるけど水族館のおかげで、夏の話のストックも溜まっているし、このまま進めば私たちは〆切までに無事に完結を迎えることができそうだ。
 
 そしていつも通り、私たちは最寄り駅までの道を二人で歩く。
 この時間になればもう生徒はほとんどいなくて深まった冬の夕方はもう夜の空をしていた。

「そういやレナもLetter部門に出すらしいよ」
「……レナ?」

 話の途中、聞き馴れない名前に聞き返す。

「ああ山本のこと。山本玲奈」

 冬の風が一気に喉にすべりこむ。喉を通る冷たさに私は返事ができない。

「ん? 雫も玲奈がLetterやってること知ってるんじゃないの? 玲奈が雫とも話したって言ってたけど、美術の時間」
「あ、ああ! そうそう話した。駆も知ってたんだね」

 うまく駆の顔が見れそうになくて私は俯きながら答えた。会話の内容よりも駆が山本さんのことを「玲奈」と呼んでいることが気にかかる。

「俺も昨日知ったんだよ。静かなイメージあったけど、Letterのことになると結構しゃべるのな」
「……それで今日学食一緒にいたんだ」

 何も取り繕えない冷たい声が出た。慌てて口角を上げてみるけど、寒さで固まった唇はあまり動いてくれないから、代わりに慌てて目を細める。

「そうそう。昨日盛り上がってさあ、時間が足りないから今日学食で喋ってた。玲奈はあんまり周りのこととか気にしないタイプだから」

 ……それじゃあ私がすごく気にするタイプみたいじゃない。ささくれだった自分の心の声に驚く。
 駆の一つずつの単語がすべて気にかかって、妙にとげとげしい感情が飛び出してくる。

「玲奈、また雫とも喋りたいって言ってたよ」
「美術の時間に話してみるよ」

 どうせ美術の時間に余るのは私だし。出てくる考えが本当に全部尖っている。そんな自分に内心苦笑していると、駆が私をじっと見つめていることに気づく。

「てかイルミネーション。岡林たちとも行くの?」
「な、」

 なんで知ってるのか聞こうとしてやめた。香菜の声は大きい。きっとお昼の私たちの会話は駆に筒抜けだったんだ。

「う、うん。誘われたからね」
「じゃあ俺とは行かないってこと?」

 駆の顔がうまく見れない。どういう意図で訊ねているんだろう。
 駆が行くなと言ったら私はどうするんだろう。心臓が早鐘を打ち始める。

「ううん、駆とも行くよ! 楽しみにしてるし素敵なところは何度も行っても楽しいしね!」
「……でも恋人できるかもしれないんだろ? トリプルデートって聞こえたけど? そしたら俺とは行かないほうがいい」

 身体に入り込んだ風が冷たく凍って、うまく息ができない。

「うーん、恋人にはならないと思うよ。私恋人が欲しいわけじゃないし」
「じゃあなんで行くの?」

 駆はついに足を止めてこちらに向き合った。

「えー? だって断われなくない? 私のために言ってくれてることだし」

 駆は真剣な声音なのに私はへらりと笑ってしまった。向き合うのが怖い。彼が空気を読んでくれることを期待して。だけど駆は更に突きつける。

「行きたくなければ断ればいい」
「絶対行きたくないわけじゃないし……それに断れないよ」

 たっぷりと間があいてもう一度駆を見ると、呆れを浮かべた目で私を見ていた。私が行きたくないと思っていることなどお見通しなのだろう。
  
「そんなことも断れない友達って必要?」

 鋭い言葉が私を貫く。貫かれた胸に冷たい風が通り抜けていく。
 
「……駆は断るの?」
「断るよ、嫌なことは」
 
 強い目が私を見る。駆は私と似ているけど決定的に違う。駆は空気を読むのが得意でうまく立ち回るけど……絶対に逃げない。今もこうして私にまっすぐ向き合ってる。

「これはおせっかいだけど。――岡林たちといるより玲奈といる方が雫も楽しいんじゃないの?」

 かあと顔が熱くなる。……本当に、本当におせっかいだ。
 確かに美術の時間、山本さんといて楽だ、楽しいと思った。香菜と友梨といると苦しいこともある。駆の言うことは客観的に見れば正論なのかもしれない。
 だけど今三人組から飛び出て山本さんのもとにいったら、好奇の目に晒されるに決まってる。それに山本さんと仲良く出来る保証なんてないし、山本さんだって私が来るのは迷惑かもしれない。
 もし一緒にいて違った、てなったら? そしたらもう私にはもう戻る場所がなくなるんだから。

 私たちはいつだって薄い氷の上にいるみたいだ。ひび割れて落ちないように慎重に過ごすこの気持ちを……駆はわかってくれないんだ。
 
「あはは、そうかなあ? 確かに山本さんとは美術の時間よく一緒になるしLetterの話でも盛り上がったけど。他の話も合うかはわからないよー」

 とげとげしい言葉が飛び出そうになるのを堪えて、私はなんとか柔らかい声を出してみる。柔らかいというよりバカみたいにへらへら笑って。
 だけどきっとごまかせない。駆にはきっと愛想笑いも全部ばれてしまうから。仮面を剥がされたらどう立ち振る舞えばいいかわからない。

「玲奈は自分持ってるし一緒にいて楽だと思うよ。Letterの話も合うし。雫もLetterの話だったらどれだけでも喋れるっていうじゃん。絶対話尽きないって」

 さっき上がった体温が急激に冷めていく。頭が黒く染まっていく。
 ほらね。やっぱり私は透明人間だ。自分がなくて、仮面の下はなんにもない。表面だけ合わせてる薄っぺらい人間。そんな私のことを駆も本当は呆れてるんだ。
 
「……それなら駆も私じゃなくて、山本さんと小説作ればいいんじゃない」

 凍ってしまった心からポロリと雫が垂れた。
 零れた言葉は〝不正解〟で決してぶつけてはいけない言葉だ。

「……なんだそれ」

 駆から知らない声が聞こえた。私は顔を見ることが出来ずうつむいたまま。なのに言葉は止まってくれない。

「山本さんとでもきっと作れるよ。山本さんのハンドルネーム教えてもらってこないだ見たけど、どれも素敵な作品だったし。山本さんは自分持ってるんでしょ? 私よりうまくいくんじゃない」

 めちゃくちゃだ。こんなこと言うつもりなかった。
 感情がぐちゃぐちゃで、怒りと焦りと恥ずかしさと、それから嫉妬と。全部かきまぜられて精査できない感情が冷たい言葉に変わっていく。
 
「それ本気で言ってる?」

 知らない駆の声は怒りだった。うつむいたまま頷く私に「もういいわ」と冷たい声が降ってきて私の方に向けてくれていたスニーカーが離れていく。
 
「あ……」

 呟いた時にはもう遅く。駆の背中が先を進んでいくのが見えた。
 
 追いかけて謝ろう。言っちゃダメなことを言った。駆とどうして小説を作ることになったのか。彼がなぜ小説家になりたいと思ったのか。それを打ち明けてくれたのに。

 早く謝ろう、今ならまだ間に合う! 走って追いかけて!

 頭の中で鳴り響くように、心の内では大きな声で叫べるのに。足の甲には重いものがへばりついていて一歩も動けない。
 私はその場に突っ立ったまま一度も振り返らない駆の背中を見つめていた。

・・

 私と駆の〝オトとキイの物語〟は終わってしまったんだと思う。
 次の水曜日、駆は図書室に現れなかった。

 週末の約束と水曜日の図書室がなければ私たちはただのクラスメイトだ。
 keyの投稿も止まっているし、clearも恋の話は二度と書くことができない気がする。きっとイルミネーションの約束もこのまま自然消滅だ。
 謝らなければ。わかっているのに駆の冷たい声を思い出すと小さな勇気も出なかった。次にあの声を向けられたら、心の柔らかいところ全てが凍って粉々になってしまいそうだから。
 
 好きな時間が二つ消えて、嫌いな時間だけが増えていく。

 嫌いな時間五位に『未来の恋人の話をすること』が加わった。
 この一週間、香菜と友梨の話題は私の恋人候補についてもちきりだった。二人は彼氏のサークルに行ったことがあるらしく、今回私に紹介する候補たちと顔見知りらしい。
「ユウゴくんは?」「ケンくんのが合いそうじゃない?」「ユウゴくんはちょっとちゃらいよね」と私のことなのに、私の知らない話で盛り上がっている。
 私はもうユウゴくんだろうがケンくんだろうがどうでもよかった。このまま二人の考えた人と付き合う、もうそれでもいいかもしれない。

 嫌いな時間四位は、お父さんと会話をすることだ。
 この一週間お父さんは毎夜早く帰ってきた。お母さんは悟の送迎で不在か体調不良だと部屋にこもるから。必然的に夕食の時間、お父さんと二人で会話をすることになる。

 お父さんは何を考えているのだろう。
 お母さんのように愚痴を言ったりもしないし、離婚についても触れない。私の学校についてぽつぽつ訊ねてくるくらいで普通の優しいお父さんだ。
 浮気をしているなどとても思えなくて。お父さんを信じたい気持ちの時もあれば、浮気をしているくせに平気で娘と喋れるだなんて気持ち悪い不潔最低だと軽蔑する時もあって。
 相反する気持ちがグチャグチャと私をかき乱していく。
 私に話しかける理由が罪悪感ならば、喋りかけないでほしい。
 父親としての義務感なのか、もうすぐ家族が終わってしまうから最後の名残惜しさなのか。

 喋りかけないでほしいと思うけど、たくさん私に質問をしてくれるのは嬉しい。だけどそれは私に興味があるからではない。それだけはわかる。だから惨めだった。


 嫌いな時間ナンバーワンの〝両親の喧嘩〟は、二人が顔を合わせなくなって自然と消滅した。
 代わりに新たな一位が誕生した。それはお母さんと二人きりの時間。お母さんは今頭の中がお父さんの不倫でいっぱいになっていて、私と二人きりになるとその話をしたがる。

 お父さんが話しかけてくるようになったのに、お母さんからお父さんの愚痴を延々と聞かされるのだから。板挟みになった私は常に混乱していた。
 できるだけ頭に残らないようにやり過ごすけど、自室に戻ると強い吐き気に襲われる。
 聞こえているものを聞こえなかったことにするなんて無理な話だ。愚痴は全然耳から抜けてくれなくて全身染みついて重くのしかかっていた。
 二人に離婚してほしくない。だけどここから抜け出すにはそれしかないんだろうか。


「駆来なかったな……」

 駆が来ない水曜日の図書室はいやに長く感じた。
 駆が来ない。それはある程度予想はしていたけど、それが現実として形になると大きなショックを与えてくる。
 いつもと同じ笑顔を見せてくれることを期待していた。来てくれるんじゃないかとずっと待っていたけど、とうとう現れなかった。
 自分から謝れなかったくせに期待してしまうなんて最低だ。
 なくしてから初めて気づく、駆との水曜日だけが今の私の支えだったのだと。

 それを自分でなくしてしまうなんて馬鹿だな。一番なくしてはいけないものだったのに。他の〝正解〟を求めるあまり、自分にとって一番大切なものを見失って壊すなんて。
 人に合わせていればうまくいっていたはずなのにどうしてこうなっちゃったんだろう。

 七時前。とぼとぼと家に帰るとお母さんの車だけあるのが見えて、全身スライムに包まれたみたいに私の身体はべっとりと重くなる。
 
「ただいま」
「おかえり。もうご飯にするから」
「わかったー、手洗ったらいくね」

 食卓にはお母さんしかいなかった。お母さんと私の分だけ並べられた料理。

「悟は?」
「お腹空いたって言うから。先食べて自分の部屋にいるよ」
「……そうなんだ」

 今日の私は、嫌いな時間ナンバーワンに耐えられる自信がなかった。駆が図書室に現れなかったダメージがずっと私をじゅくじゅくと抉っている。
 もう体調が悪いことにして部屋に戻ってしまおうか。実際本当に気分も悪いし頭も重い。

「わた――」
「春に離婚しようと思うの」

 だけど私の願いはお母さんの重大発表によって打ち消された。

「え……」
「色々考えたんだけどね。やっぱり裏切った人とは一緒に暮らせないから」

 ついにこの日が来てしまったのか。ガンガン、ガンガン。頭の中の音がどんどん大きくなっていく。

「それで雫は考えてくれた? お父さんとお母さんのどちらについていくか」
「…………」
「この家はお母さんがもらうつもりだし、お金のことは心配しなくても大丈夫」

 お母さんがじっと私を見る。私の身体は体温が下がっていて、見るものすべてが凍って見えるけど、目の前にいるお母さんの瞳だけはぞっとするほど熱かった。
 ……私にはわかる。お母さんは選んで欲しいのだ、自分を。不倫したお父さんについていくわけない。自分のことを愛して、選んでくれると信じているんだ。
 お母さんの〝正解〟を選ばないといけない。でも私は……本当はどちらかなんて選べないよ。

「……悟は? 悟はなんて言ってた?」
「悟にはまだ言ってないわ」
「離婚のこと? 不倫のこと?」
「どっちも。あの子は今大事な時だし繊細だから。傷ついちゃうでしょ」

 お母さんの言葉が私の胸を抉る、ナイフのように。
 
「雫と違って悟はお母さんがいないとどうしようもないし。だからもちろんお母さんの方」
「あ……そうなん、だ」
「雫はしっかりしてるから。子供の意思を大切に、って聞いたの」
 
 お母さんは悟のことは選ぶんだ。私のことは選んでくれないのに。
 冷えた身体が、もっと冷えることなんてあるんだ。凍ってしまって指先さえ動かせないほどに。
 
 お母さんの目が期待に濡れているから私は言わないといけない。『お母さんと一緒がいい』って。
 だけど私だって選んでほしかった。雫は絶対に離れないで、と言ってほしかった。

「……私、お母さんについていくよ」

 自分の感情がもうわからない。強引に連れ去ってもらえないのならお母さんにとっての正解を選ぼう。
 私の硬い声には気づかず、お母さんはほっとしたように微笑んだ。

「それでね、慰謝料を請求するには証拠を集めないといけないらしいのよ」

 私が正解を出したからお母さんは味方判定したように、生々しい話を始めた。私はこの場を去るための言葉を発する力も残っていなくて、頷いて見えるように顔をわずかに動かすことしかできない。

「再来週ちょうど悟の遠征があるの。その日にお父さんたちデートをするんじゃないかって思ってる。でもその日はお母さんどうしても行かないといけないから遠征に」

 続く言葉が想像できる。だけど気づきたくない。

「雫、証拠を撮ってきてくれない? 相手の女の住所はわかっててそこに行くと思うから。お父さんが出る前にそこでちょっと張っててくれれば写真が撮れると思うの」
「私にできるかな、そんなこと」
「できるわよ。雫はきちっとしてるから。大丈夫よね?」
「……うん、大丈夫」

 お母さんのことを選んだならずっと正解し続けないと。
 私は笑顔を作ってみたけど。口を歪めることしか出来なかったはずだ。だけどお母さんは私の表情の変化には気づかない。

「ごめん。今日はあんまりお腹空いてないかも」
「そう?」

 そこで「ダイエット?」と聞かれないのは、さすがにお母さんも私の気持ちを少しは察してくれているのだろうか。

「お母さんはお風呂入ってくるわ」
「うん。ごちそうさま」
 
 余った料理にラップをかけて冷蔵庫にしまうと足早に階段に向かった。

 登りながらスマホを出す。早くLetterを見よう。黒にすべてが塗りつぶされる前に。
 スマホを見るとメッセージが届いていた。もしかして駆から……!? そう期待して焦って開くけど、香菜と友梨とのグループメッセージだった。

『雫に紹介するのやっぱりケンくんにしようと思う』
『雫のこと可愛いって言ってたよ♡』
 何度か話に聞いていた人だ。写真も添付されているけどこんな顔だったかな。何度か見たはずなのに全く思い出せない。
『日にちは再来週の夜とかどうかな?』
 
 その日にちはお母さんに指示された日と同じだった。午前中にお父さんの不倫現場を押さえて、夜はトリプルデート?

「あはは……」

 思わず笑いがこみあげる。愛の終わりを見届けた後にデートなどできるんだろうか。
 他人の正解を選んできたはずなのに。うまくやりたいだけなのに。どうしてどんどん悪い方向に向かってしまうんだろう。それとも私がしんどくても周りにとっての正解ならこのまま突き進むしかないのかな。

「何笑ってんの」

 階段の上には悟がいた。笑んでいた唇が固まる。彼が私に話しかけてくるなんて珍しいけど今は悟と喋る気力がない。

「わ、悟いたんだ。びっくりー。なんにもないよ」

 私は悟の前を通り過ぎようとして――ガシッと腕を掴まれた。

「な、なに」
「俺、あの女にはついていかないから」

 百八十を超える高い背が私を見下ろす。久しぶりに悟と目が合った。悟の目に灯るのは怒りだ。

「え、どういうこと?」
「だから離婚するんだろ。俺は父さんの方に行くから」
「は……」

 悟の言った意味を飲み込む。だけど理解ができない。

「な、なに言ってるの?」
「お前らは隠してるつもりだろうけど俺だってわかってるから、家の状況」

 悟は怒りを込めた言葉を投げつけると浅く笑った。

「ようやくあの口うるさいやつからも離れられるわ」
「……でも野球チームとかどうするの。お母さんがいないと……」
「どうとでもなるだろ」

 ならないよ。悟はどれだけ恵まれた立場にいるのか全然わかってない。お母さんがどれだけ悟のために尽くしているのか。……それを私がどれだけ羨ましく思っているのか。甘えた考えが悔しくて唇をかみしめる。

「お前らこそこそして気持ちわりい。俺が気付かないと思ってんのかよバカにして」
「ちが……お母さんは悟を気遣って」
「子ども扱いもうざいんだよ」

 どうして。守られてるくせに。大切にされてるくせに。お母さんの一番なのに。私が求めても手に入らない場所にいるのに。なんでそれがわからないの。

「高校に入れば寮もあるし問題ねえよ」
「そういう問題だけじゃなくて……どれだけお母さんが悟のために」
「そういうのがもううんざりなんだよ!」
 
 悟の怒号が私の身体を震わす。彼の怒りに当てられて私の頭も真っ赤に染まる。

「俺は求めてない。干渉もうざい、なんでも俺のせいにするな」
「……悟は……悟は、なんにもしらないくせに……! そうやって甘えて自分が愛されてるって、恵まれてるって気づかずに! なんで気づかないの……!」

 思考が追い付かないまま叫んだ。だめ、言葉にしたらだめ。そう思うのに止まってくれない。
  
「知らねえよ、お前が言わないからな。へらへら笑って親のいいなりになって。親の言うことならなんでもするのかよ、気持ちわりいな」
「悟には私の気持ちわからないよ。私は悟のためにたくさん諦めて、気遣って――」
「俺が頼んだことかよ。お前が勝手に諦めたんだろ! そうやって姉ぶられんの本当にむかつく。ひとつも頼んでないから。お前のいいこぶりっこに俺を巻き込むな……!」
「……悟なんて、いなかったらよかったのに!」

 先ほどまで怒りに燃えていた悟の瞳が揺らいだ。
 ――これは言っちゃダメなことだ。
 だけど私ももう限界だった。悟の手を振りほどくと私は登ってきた階段を下りた。
 もうここにいたくない。真っ赤になった頭が点灯している。こんな家、もう嫌だ……!

「何かあったの?」

 私たちの大声に気付いたらしいお母さんが洗面所から顔を出した。目が合ったけど、すぐに逸らして玄関に向かう。今お母さんと喋ったら口から何が飛び出るかわからなかった。

「雫……!?」

 お母さんの叫び声に振り返らずに私は家を飛び出した。
 行く場所なんてないのに。この衝動をそのままにしておくことができなくて、私は走り続けた。

 ・・

「本当にどうしようかな」

 最寄り駅の椅子に座って私は呟いた。ポケットにスマホが入っているだけ。防寒具もなくて冬の夜にはブレザーだけだと心もとない。
 時刻は八時。制服を着ていてもまだ許される時間だ。電子マネーの残高はまだある。街まで出て適当に安価な服でも買って今日はカプセルホテルにでも泊まろうか。でも高校生でも泊まれるのかな、無理かな。
 変に冷静な考えに小さく笑ってしまう。頭はまだめちゃくちゃに混乱していて家に帰る気はないのに。

 結局二駅分乗って街まで移動した。都会というほどではないけど市の中心駅で服屋やホテルもある。

 改札を抜けてロータリーに出ると、まばゆいイルミネーションが目に飛び込んできた。
 ロータリーに生えている木々すべてに小さなLEDが張り巡らされていて、大きくはないがツリーもある。私はロータリー内にある公園のベンチに座ってみた。退勤したであろうスーツ姿の人たちは、イルミネーションには目を向けずに足早に駅に吸い込まれていく。
 明るくて煌びやかなイルミネーションの中にいると、自分がちっぽけでひどくみじめな存在に思える。

 白い息が空中に消えて、冷たいベンチが下半身から身体を冷やしていくことに気づく。
 そうだ、服を買わないと。でも買ってどうするの? ホテルに泊まれたとして今日を乗り越えても明日は来る。衝動的に家を出たところでどうしようもない。どこに逃げたらいいのかもわからない。逃げる場所なんてない。

 そう、逃げる場所がない。そう思うと赤く燃えていた怒りが灰に変わり途方に暮れる。どこにも逃げる場所なんてない。毎日嫌いな時間の繰り返しで、誰からも必要にされていない灰色の日々。

 ポケットの中のスマホが震える。――お母さんからの着信だ。バイブが途切れるとメッセージが届いた。
 
『どこにいるの? バカなことしてないで早く帰ってきなさい』

 お母さんは心配すらしてくれない。
 お母さん、私ずっといい子でやってこなかった?
 そんな私が家を出るってよっぽどなことだって思わないの?
 ……ううん、こんなの勝手な当てつけだ。
 でも心配もしてくれない。私の心情を理解しようともしない。必要とされていない。愛されていない。ああだめだ。心が黒に塗りつぶされていく。
 
 いつもこんな時はどうしてたっけ。――Letterだ。 
 雑踏の中でLetterを見てもそこまで癒やされないことはわかっていた。それでも助けを求めるようにアプリを開く。タイムラインには好きな言葉が並んでいる。

 だけど――。何も心に入ってこない。
 それどころか文章が二重に見える。ぼやけて揺れて、涙もでていないのに視界がおかしくなったみたいにうまく文章を読めない。
 同じような気持ちを探そうと黒色の投稿を見ても、何も感じない。共感もしない。何度スクロールしても、何も。

「……やだ、なんで」

 私は自分の投稿画面を開いた。今の気持ちを吐き出さないと。文章にすれば少しは気も楽になるはずだ。

 【          】

 だけど何も浮かんでこなかった。
 絶望の黒さえなかったみたいに。私の心はぽっかりと空いてしまってなんの色もなく透明だった。
 どうしよう、どうして。考えれば考えるほど混乱してしまう。

【苦しい、助けて】 

 ――ようやく打てた言葉は、それだけで。それ以上言葉にもならない。
 苦しい、助けて。私がどこにもいないの。誰にも必要とされてなくて、私も私が見えなくなっちゃった。

 縋るように、私はその一言を投稿していた。

 すぐに、ぴこんとハートが届く。
 さっと身体の温度が下がる。しまった、私の大切な居場所であるLetterに生身の気持ちを投稿してしまった。しかもこんな詩にも小説にもならないくだらない呟きを。
 震える手で投稿を消そうとする。

 ……だけど。初めて吐き出した本音だった。私は削除ボタンを押すことができない。
 
【苦しい、助けて】
 
 私の丸裸の気持ちはこんなにシンプルだったの……?
 
 二つ目のハートが届く。誰かが共感してくれている。こんなどうしようもないつぶやきに。
 苦しい、助けて。気持ちの行く場所がわからない、苦しいよ。

 次に画面に現れたのは着信画面だった。それは今日会いたくて仕方なかった――駆だ。
 どうして駆が……? Letterの投稿を見たんだろうか、数秒悩んでから応答する。

「もしもし雫?」

 切羽詰まったような駆の声が耳元に灯り、唇が震える。
 私はひどいことを言ってしまったのに。駆の声音はただ私を案じてくれている。

「どうした? 大丈夫?」

 いつもの私なら一呼吸おいて言えるはずだ。
『大丈夫』と言えばいいだけだ。いつものように。私の口癖なんだから。
 口角を上げて、目を細めて、明るく軽い口調で言えばいい。そうすれば誰も心配させないし嫌な気持ちにもさせない。駆は私に幻滅しているはずだ、これ以上迷惑もかけられない。

 だから『大丈夫』って言おう。言え、雫! 言うんだ……!


「大丈夫じゃない……」


 それはずっと言えなかった言葉。滑り出した呟きは、か細くて、痛いくらい剥き出しの産まれたままの言葉。

「大丈夫じゃない。助けて、駆……」
 
 私は本当は強くなんかない。いつも平気じゃない、大丈夫じゃない。しっかりなんてしてない、いいこじゃない。

 ずっと誰かに気づいてほしかった。この痛みを、偽物の笑顔を、強がった私を。誰かに助けて欲しかった。誰かに言いたかった。
 
「わかった、すぐに行く。今どこ?」