それから数日たって〝オトとキイの物語〟はスタートした。

 【いつからだろう。
 キイが「オト」と僕を呼ぶ、その声が雑踏の中でもクリアに聞こえてきたのは。
 僕たちはただの友達。六人の中の一人。
 それ以上でもそれ以下でもない。ずっと平行線のまま続く関係。
 その時の僕はまだ何も知らないままで。
 夏が終わり、まだぬるい秋の風が新しい僕を連れてきていた。】

 それが初めての投稿。二人で考えた150文字、物語の始まり。
 
 私たちが物語を作り始めてから半月が過ぎて、物語の中の〝秋〟は完成した。
 オトがキイへの恋心をはっきり自覚するものの、自分の気持ちに戸惑ったまま冬に突入していく。

 Letterに投稿するまでの流れも出来た。
 水曜日は作戦会議。それまでにお互い何作か考えてきて、その場で投稿する150文字を決定する。
 会議で採用された150文字を、駆が投稿順を決めて物語を構成していく。
 大枠は相談してくれるけれど投稿順は投稿するまでお楽しみに、といたずらに笑うから。Letterのアプリを見る楽しみが一つ増えた。
 
 休日も一度だけ出かけた。電車で数駅の場所にある小さな水族館。
 〝冬の話〟を考えたいのに、青の光景を見ていたら二人とも〝夏の話〟ばかり思いついてしまったけど。
 
 十一月も下旬になった。
 私の生活は特段代わり映えなく嫌いな時間トップスリーも変わらないままだ。
 偽物のピンクも、無理やりあげた口角も、口癖の「大丈夫」も。
 だけど好きな時間が二つ加わった。水曜日の図書室と、駆が投稿してくれた〝オトとキイの物語〟を読む時間。

 今日も私たちは水曜日の図書館で六回目の作戦会議を行っている。
 
「冬のネタが枯渇しています」

 深刻なニュースを読むように悲痛な面持ちで駆が言うから吹き出してしまう。

「こないだは夏の話ばっかり思いついちゃったもんね」
「まあおかげで夏のストックは溜まったけどな」
「夏はもう告白を意識してるから雰囲気変えないといけないし難しいね」

 ひとまず私たちは持ち寄った150文字を発表することにした。お互いノートと手帳を取り出すのもいつもの仕草だ。

「実は私も冬の話が思いつかなくて。今回、季節関係ない話になってる。えっと、これは二人で行った映画の日をもとに作った話なんだけど……」

 駆との時間をネタに使ってしまったから先に言い訳をしておく。駆にノートを渡すと興味深そうに読んでくれた。

【二人で一つの時間を共有した。
 少し効きすぎた空調も、キャラメル味のポップコーンも、驚きの展開に手に汗握った感覚も。
 一つ残らず忘れたくなくて捨てられない半券。
 映画の名前も、スクリーンの番号も、座席のアルファベットさえ特別に見えるから。印刷された文字ごと抱きしめて】

「あーいいねえ、clear節が効いてる。俺これかなり好き」
「ほんと? よかった」

 いつだって優しいリアクションを取ってくれる駆だけど、心から好きな作品とそうではない作品に微妙に差が出る事に気づいていた。
 それは私も同じでどの作品も素敵だと思っているし褒めるけど、ほんの少しの差を駆には読み取られている気がする。
 でもお互いそれを顔には出さず、二人が心から気に入ったものだけを採用作として決定している。

「でもこれは採用にはできないかな……」

 だから駆の言葉には正直驚いた。先ほどの駆はお世辞なくこの話を好きだと思ってくれていると受け取っていた。

「あーごめん。これ作品としてはかなりいいんだけど。オトとしてはどうかなと思って」
「オトとして?」
「うん。オトはたぶん半券を取っておかない人間。俺のイメージの中では」
「あー……そういうこと」

 意味が分かってなるほどとうなずく。記念に取っておくタイプの人もいれば、そうでない人もいる。
 駆の中でオトは〝そういうタイプ〟ではないらしい。

「オトじゃなくて私が出ちゃったね」
「俺オトをけっこう自分と重ねちゃってるかも」
「駆は半券残しておかないタイプ?」
「ポケットの中にぐしゃぐしゃになってるタイプ」

 なんとなく想像がついて笑ってしまう。駆とオトが似ているならこの話は〝オトとキイの物語〟は不採用だ。
 
「でもこれclearで投稿してよ。作品としては絶対いいから」
「そうしようかな」

 久しぶりにclearで投稿する作品。
 これからは駆みたいに色んな背景色で恋の話を投稿しようと思っていたけどもこれは【ピンク】の話だ。淡い恋心。

「俺も映画のことを思い出して書いてみたのある」

 駆はそう言うと手帳に書いてある文字を私に見せた。

【僕たちが集まるのはたいてい学校帰り。
 だからその日、僕はキイのワンピース姿を初めて見た。
 スカートは制服で見慣れているはずなのに秋色のワンピースは大人っぽくて知らないキイに見える。
 最近僕は知らない君ばかり見つけている。
 君が変わったのか、僕が変わったのか。】

 ……読み終えると体温が高くなっていることにいやでも気付かされる。
 私だってあの映画の日をもとに150文字を作った。
 だけどさっき駆がオトを重ねていると聞いたから。自分とキイを重ねてしまう。
 もしかして駆はあの日こんなことを思ってくれていたのだろうか。
 ただ単に作品のネタとして。あの日のワンピースを使っただけの話だ。そう思うのに心臓のリズムが早くなる。

「ちょっと微妙かな?」

 うまくリアクションが取れなかった私に駆が訊ねる。

「ううん。かなり良くて感動しちゃった。これは採用したい」
「文章ちょっと手直しできそう? 中身は悪くないと思うんだけど語感がなあ」
「それならここのリズムを変えてみるのは?」

 余計なことは考えるな。と思うけど。
 その後発表しあう作品の〝オトとキイ〟が〝駆と雫〟に思えてしまってそのたびに自意識過剰だと笑い飛ばして頭から追い払う。だってそうしないとただの告白合戦じゃないか。

「俺やっぱ風景見ないとダメだわ。今度は冬っぽいことしよ」
「冬らしいこと考えないとね」
「てか春夏どうする? 〆切年末だから春と夏は想像するしかないよなあ」
「夏はこないだ数を稼げたけどね。イメージ力を鍛えないと」
「春のことはまた考えよう。……でも冬はもう見たまま書かせて」

 目の前にない季節を想像するのは難易度が高い。
 幸いハロウィンを終えた街はクリスマスモードになっていて、恋の話にクリスマスはぴったりだ。
 私たちは〝冬っぽいこと〟を検索してみた。ちょうどクリスマスマーケットが開催されるらしく、来週末の約束を取り決めて六回目の作戦会議はお開きとなった。
 
 ・・

 美術の先生はペアを組ませるのが本当に好きらしい。
 今日のお題は『校内で見つける秋』。まるで駆と私の小説ネタ探しのようなお題だ。
 校内のどこかで秋を見つけてそれを絵にする。ペアにしなくても個々で好きに書けばいいんじゃないかと思うけど、ペアで同じ景色を選び、完成した絵を見比べて自分とどう違うのかを感じる目的があるらしい。

「山本さん、ここらへんでいいかな?」
「うん」

 美術の時間、固定ペアのようになった山本さん。物静かで穏やかな彼女といるのは嫌ではない。
 だけど私が別の人と組むのが当たり前になってしまった事実だけは、心に隙間風が入るような感覚になる。
 今日も香菜と友梨は形だけ「どうしようか」と言葉を発して「私が誰かと組むよ」と私が言うまでだんまりを決め込んだ。

 でも二人はこれでも最近気を遣ってくれてるのだ、と思う。
 本当は二人はずっと彼氏の話、二人共通の話がしたい。話に入れない私のことを気遣ってなるべく違う話をしてくれたりもする。
 だけど恋に染まった女の子の頭の中は桃色でいっぱいで二人は飽きる事なく恋の話がし続けられるのだと思う。
 こうして二人きりになれるのなら、思う存分話したいことをいつまでも話せるのだろう。
 ペアを作る時間の沈黙が『自分が一人になりたくないからどちらでもいいから出ていって欲しい』ではなく『雫が邪魔だから出ていって欲しい』に変化していることをひしひしと感じ取れて惨めだった。
 
 私と山本さんは校門近くに腰を下ろした。
 校門から出ると桜並木があってこの季節は桜も黄色やオレンジ色になる。同じことを考えていた生徒は何人もいるらしく木々の下にある縁石には既に十人ほどの生徒が腰掛けていた。
 その中には楽しそうに笑う香菜と友梨もいた。香菜の声は大きいから彼氏の話をしているのがわかる。
 
 そしてそのすぐ近くには駆がいた。
 ……この時間を駆と一緒にいられたら。絵を描きながら〝オトとキイの話〟を進めることができたのに。
 だけど私たちは教室内では「鍵屋くん」「瀬戸」と呼び合う関係。駆は何人かの女子を名前で呼んでいるけど、私が教室で「鍵屋くん」と呼んだら「瀬戸」と返してくれた。
 それは周りを気にする私に合わせてくれているのだろう。駆が教室で私に話しかけることはほとんどなかった。

 私たちは混み合っている縁石には座らずに校門近くに腰かけた。ここからでも充分桜は見えるし人気の場所よりずっと静かだ。少し離れているほうが見やすいかも。なんていくつかの理由を並べたけど結局余った姿を人に見られたくなかっただけの話だ。
 周りからどう見られるかを常に意識してしまう自分が恥ずかしくなる。

 しばらく桜の絵を描いていると山本さんが制服のポケットから小さな手のひらサイズのノートを取り出して何かを書き込む。
 何を書いているんだろう。ああでもあんなふうに小さなノートを持ち歩いてればネタをメモするのもよさそうだな。スマホを出せない場面もあるし。

「私の顔、何かついてる?」

 あれこれ考えていたら山本さんをじっと見てしまっていたらしい。怪訝な表情で山本さんがこちらを見返す。
 
「ご、ごめん。素敵なノートだなと思って」
「え? これが?」

 ノートと言われて一番に思い浮かべるくらいどこにでも売っているメーカーのノートで、素敵という形容詞はあまり似合わない。下手なお世辞を言っている人のようになってしまった。

「えっと、ネタをメモしておけそうでいいなと思って」
「ネタって……漫才でもしてるの?」

 思いもよらない質問がきて目を丸くしてしまった。漫才師は私から一番遠い職業じゃないだろうか。

「ち、ちがうよ!」
「ふふ、冗談」

 山本さんも冗談とか言うのか。いや、物静かでいつも一人で読書をしている人だから、どんな子なのかあまり知らないけど。

「実は私もネタをメモしてるの。Letterってアプリ知ってる? それに投稿してて、そのネタになりそうなことがあればその都度メモに書き込んでる」
「え、うそっ! 私もLetterで投稿してるの」

 小さな興奮が大きなリアクションに繋がる。山本さんは私の反応に少し驚きつつも笑顔を見せた。彼女がこうやって笑ってくれるのは初めてかもしれない。

「Letterに投稿してる人が見つかるなんて嬉しいな」

 駆以外ともLetterの話ができる人が見つかるとは思わなかった。以前に香菜と友梨に話した時、二人はアプリの名前をなんとなく知っている程度であまり興味もなさそうだったから。
 
「瀬戸さんはコンテストに応募する?」
「うーん……まだ考え中。山本さんは?」
「私はせっかくだしLetter部門には投稿するつもり。過去の投稿でもいいみたいだし、Letter部門のコンテストタグだけでもつけた方がいいんじゃない?」
「だよねー」

 駆と小説部門に応募できたのは〝keyの名前〟で〝二人で〟だからだ。〝clearの名前〟で〝一人で〟応募するのは勇気はいまだになかった。
  
 山本さんも私と同じでLetterのことなら饒舌になるタイプらしい。
 今までペアを組んだ時ほとんど会話もなかったのに今日の話は自然と盛り上がり、私は初めて美術の授業を楽しいと思えた。
 香菜と友梨といる時間よりも。
 
 ・・
 
 駆と〝オトとキイの物語〟を始めてから書くことのなかった黒く塗りつぶされた感情。黒い背景の気持ちを久々に下書き保存した。

 【プラスとマイナスの天秤って人類平等なんだろうか。
 私の天秤は、常にマイナスに傾いている気がする。
 プラスとマイナスは交互に来るって言うけれど本当かな?
 マイナスの皿の方に悪魔がどっかり座ってたりして。
 幸せなことがあると、それが許せないみたいに
 すぐに傾くの、大きく、マイナスに】

 今週は駆との予定はない。お父さんは会社の人とゴルフに出かけていて、悟は練習試合。お母さんはもちろんその付き合い。今日は送迎だけでなく何か仕事もあるとはりきっていた。
 香菜と友梨は今日もデート。もしかしたらダブルデートかもしれない。
 よくある週末だ。何も変わらない週末のはずだった。お母さんが帰ってくるまでは。

 Letterを眺めながら、お母さんが用意してくれていた卵サンドイッチを食べていたお昼。玄関から強く扉を閉める音がした。
 お父さんがもう帰ってきたのかと玄関側を見やると、勢いよくリビングに入ってきたのはお母さんだった。動作は大きく、目は赤く息も荒い。

「お母さん、大丈夫……? 体調悪い?」

 私が思わず立ち上がるとお母さんは私の姿にようやく気付いたみたいだ。その場にへなへなと座り込むから、私は慌ててお母さんの元に駆け寄る。

「どうしたの? 熱?」
「……してた」
「え?」
「お父さん、本当に浮気してた」
「……えぇ?」

 お母さんは頼りなく息を吐き出した。それ以上は何も言わず頭も垂れるから、私はお母さんの隣にかがみ背中に手を当ててみる。
 大きく息を吐いているお母さんを眺めてみても、頭が真っ白になっていて私もよくわからない。

 ええと。お母さんは今「お父さんが浮気していた」と言った?
 悟の練習試合に行っていたはずのお母さんがなぜこんなに早く家に戻ってきているのか……。そんなことはどうでもよくて。そこから考えてしまう私もだいぶ混乱している。
 お父さんが浮気だなんて信じられない。
 だけど今のお母さんの状態を見れば嘘をついているとは思えない。

 私が混乱しているうちにお母さんは立ち上がり

「ちょっとお茶飲むわ。のどがカラカラなの」

 眉を下げた笑顔でキッチンに向かう。私はいまだ回らない頭でお母さんが麦茶をグラスに注ぐ様子をぼんやりと見ていた。
 私の分の麦茶を注いでダイニングテーブルに座るから、私もお母さんの目の前に座る。お茶を一気に飲み干すとお母さんはまた笑顔を作った。

「ごめんね。まさか雫が下にいると思わなかったから情けない姿見せちゃった」

 涙は見えないけど、どう見ても先ほどまで泣いていた真っ赤な目。

「お父さんが浮気してたの。……お母さんの話、聞いてくれる?」

 弱弱しい声でお母さんが訊ねる。質問だけどそれは柔らかな命令だ。
 だめ。聞きたくない。お父さんの浮気の話なんて。心臓の音がやけに大きく頭に響いて私を引き留める。
 お父さんのそんな姿知りたくない。だって私はお父さんのこと……。

「うん、大丈夫だよ」

 痛々しいお母さんの姿に、唇が勝手に呪いの口癖を呟く。
 許可を得たお母さんはすべてを放出していく。はじまりから、すべてを。
 私はそれをどこか現実味のない知らない家庭の話のようにぼんやりと聞いていた。まだ半分以上残っている卵サンドを見つめながら。

 お母さんが語るには。数ヵ月前から女性の影を感じていて、今日お父さんの後をつけることにしたらしい。お母さんは本当は送迎担当ではなくお父さんを油断させるための嘘だったのだという。
 この日のためにレンタカーを借り、お父さんの車の後をつけ女性を車に乗せるお父さんをとうとう見つけたらしい。

「取引先の人が女の人だったとかは?」
「ううん。そのままホテルに向かったから」

 ガン、と頭で殴られたような衝撃。ほんの少し縋りつきたくなる希望も打ちのめされた。
 生々しいその言葉に吐き気がこみあげてきて、その現場を直に見たお母さんが目を赤くする理由もわかった。
 絶句してしまった私にお母さんは困った顔をするから「そ、そっかあ……」と慌てて言った。それしか言えなかったけれど。

「これからのこと、考えておいてね」
「……これからのこと?」
「まだどうなるかはわからないけど、お父さんについていくかお母さんといるか、よ」

 お母さんが帰ってきてからずっと脳がうまく機能していない。どくどくと鳴り響く心臓がうるさくて、耳鳴りがして何か考えようとしても雑音にかき消される。
 その質問の意味を考えたくないから頭を真っ白にするしかなかったのかもしれない。

「お母さん頭痛いから少し寝るわ……。夕飯はちゃんと作るからごめんね」

 その『ごめんね』は何に対しての『ごめんね』なのかわからない。
 お母さんはげんなりとした表情を向けるが、話したことで気持ちは落ち着いたようだ。先程より顔色は悪くない。
 二階に上がろうとしてお母さんは思いだしたように付け加えた。

「そうそう。お父さんと悟にはこのこと言わないでね。慰謝料とかのことを考えるともう少しお父さんのことは泳がせたいし、悟に余計な負担かけたくないから」
「わかった、大丈夫。もちろん言わないよ」

 私は階段に向かって笑顔を向ける。
 お母さんから吐き出された毒素を全身で受け止めてしまった私は、お母さんの姿が完全に見えなくなってからテーブルに突っ伏した。身体が重くて頭をうまく支えられない。
 
【受け取った言葉を、ゴミの分別みたいに分けられたらいいのに。
 人にあげたい言葉だけをリサイクルに出して。
 いらない言葉はすぐに燃やすんだ。
 どうして人からの言葉をどんどん貯めこんでしまうんだろう。
 忘れたい。捨てたい。なかったことにしたい。
 でも、全部全部蓄積されて、私はゴミ箱の中】
 
・・
 
 【恋愛なんていらない。恋は盲目だから。
 すべてを捨ててまで、愛に走る。
 それは愛と呼ぶのなら、愛なんていらない。
 愛に暴走した君に撥ねられた人を見捨てて
 それでもたどり着いた目的地に何が待っているんだろう?
 それは愛なのか、エゴなのか】

 目覚めて目に入ったのLetterの入力画面。あまりにも暗い文字に苦笑いをこぼす。
 朝一番にこんな文字を見るの嫌だな。寝落ちした自分を恨んでベッドから這い出る。
 
 今日は水曜日。七回目の作戦会議だ。だから昨日の私は少し焦っていた。
 〝オトとキイの物語〟を書きたいのに、恋を書くのが怖い。
 
 両親の愛の終わりをまざまざと見せつけられ、お父さんの恋に対する嫌悪感で嗚咽がこみあげる。
 今の私にピンクの恋心なんて書けるのだろうか。
 お母さんからのカミングアウト前に何作か書いていたからひとまずそれを今日は発表しよう。
 週末にクリスマスマーケットにいけば、冬から着想を得た150文字が書けるかもしれないから。
 
 十一月ももう終わりを迎える。十二月になればもっと冬が深まって素敵な話も描けるはずだ。
 学校の最寄り駅もクリスマス仕様になっていて、構内にもクリスマスイベントのポスターがいくつも飾ってあった。
 私はそれらからなんとか想像して冬らしい150文字を考える。

 そうだよ。今までこうして描いてきたんだ、clearのピンクの150文字は。実体験じゃなくて全部clearの妄想。私の身体の中にない感情。今まではこれが普通だったんだから、元に戻るだけ。
 私に芽吹いたかもしれない恋心も赤くなる前に枯れてしまったんだ、きっと。

 放課後。図書室に行く道で忘れ物に気づいた私は一度教室に戻った。
 図書室に行く前にトイレに行っておこうかな。図書室の近くのトイレは暗くて少し薄気味悪いから。そんな子供じみた理由をすぐに後悔することになる。
 私の天秤は悪い方向に傾いている時期らしい、悪いことは続くから。

 個室の外から聞こえてきたのは香菜と友梨の声だった。

「今日、彼氏の話しすぎたかな?」
「あー。香菜はもう少し気遣った方がいいよねえ」

 気づきたくないのにすぐ気づく。これは私の話だ。鍵を開けようとした手が固まる。すぐにここから出ればこれ以上聞かなくても済む。だけどなんて言いながら出ていけば――。

「だってどうしてもあの話は言いたかったんだもん」
「でも雫嫌そうにしてなかった?」
「えーやっぱ友梨もそう思った〜?」

 心臓の音が大きくなって二人に聞こえてしまうのではないかと思うほどに主張を始めた。
 失敗した……。恋に対して密かに絶望した私は、友人二人の恋の話をおざなりに聞いてしまっていたらしい。
 先週末に初めてのキスを経験した香菜は一番幸せな時らしくとろけきっている。いつもならそれも微笑ましく聞けたけれど〝キス〟という単語を聞くと途端に生々しく感じで、お父さんの顔が香菜の前に浮かんだ。
 友達の話でお父さんを思い浮かべるなんてバカバカしい。そう思うのにうまく笑えなかった。
 
「雫って彼氏いたことないらしいからうらやましいんじゃない?」
「嫉妬ってこと? なんかやだなあそれ」
「まあ雫ってあんま自分のこと話さないからよくわかんない、何考えてるか」
「わかる。うわべって感じある」
「話しにくいときあるよね。香菜くらいわかりやすけりゃいいんだけど」
「それ褒めてる? けなしてる?」

 笑い声がやけに響く。耳がおかしくなったのかキイキイと音もなる。
 それはうまくやれていたはずの仮面が剥がれ落ちていく音。仮面が剥がれたら、誰にも必要とされていない透明人間が現れた。
 
「雫にも彼氏ができたら変わるかもよ」
「じゃあさ彼氏の友達を紹介してあげようよ。そしたら話も通じるよね」
「正直気遣うもんね、雫いると」
「てか友梨準備できた? もう学校の近く着いたって」
「ごめんごめん。おっけー行こ」

 二人の楽しそうな声が遠ざかっていき、私は何度も大きく息を吐いた。
 息を吐き続けないと何かが身体の中から出てしまいそうで。
 ふらふらとトイレの個室から出ると、私は鏡にうつった自分を見た。

「ひどい顔」

 最近うまく眠れなくてクマが出来ているうえに青ざめた顔をしている。
 駆に会いたくないな。そう思うのは初めてだった。
 だけど勘のいい駆に何も気づかれたくない。私は蛇口を思い切りひねり手を差し込んだ。冷たい水が私の手のひらに当たりほてりを冷ましてくれる。

「大丈夫。絶対に大丈夫」

 鏡の中の私が笑う。そう、私は大丈夫なんだから。
 うまく笑えることに安堵して、私はスマホを取り出した。

【感情を下書きに保存する。それは私の儀式。
 身体の中に貯めこんだ想いを文字にしたら、ほんのすこし重りが消えるから。
 だけど今度は下書きを貯めていた箱の底が抜けた。
 手あたり次第に放り込んだ私が行き場をなくして溺れて

 ……だめだめ、こんな150字ばっかり書いてどうするの。

 私は感情のままに打ち込んだ文字を下書き保存せずに削除した。
 もう一度鏡で笑顔を確認してから図書室に走る。
 
 七回目の作戦会議はうまくやれたと思う。「ちょっとお腹が痛いんだ」と言ったら駆は心配してくれて早めに解散となった。
 お腹が痛いのは本当。あの日からずっとお腹が痛い。何かがずっとお腹にいるみたい。
 
 書かないと。ピンクの幸せな恋愛を。
 恋をしないと、香菜や友梨みたいに。紹介してもらって、恋をしないと。恋なんてしたくないのに。このままじゃ恋の話は書けないし、友達の中にも入れない。

 ・・

 あれからお母さんはお父さんをあからさまに避けている。悟がいない場所でお父さんの愚痴をしたがり、何かに感づいたのかお父さんは以前より早く帰ってきて私たちに話しかけてくるようになった。悟は話しかけられてもむすりとその場を立ち去る。

 香菜と友梨はやたら目配せすることが増えた。私を気遣っているのか、邪見にしたいのか。それはいまいち読み取れず、三人でいるぶん疲弊していた。よほど一人でスマホを眺めているだけのほうが楽なことはわかっているけれど。
 自分の心の平穏と、周りから一人ぼっちに見られることを天秤にかけて結局ここから離れられない。そんな自分のことがまた一つ嫌いになる。

 今までうまくやってきたはずのものが、どこか歯車が噛み合わなくなってきてじわりじわりと私を削っていく。
 今まで一ミリずつ減っていたものが一センチとか、もっと大きく。どうせなら減り続けて本当にこのまま消えてしまえたらいいのに。

 そんな暗いことを考えているくせに、日曜日のクリスマスマーケットを楽しみに思う気持ちは変わらなかった。楽しみに思うことがあるだけ私は大丈夫だよと言い聞かせて。

 駆といるときだけは意識を細かく張り巡らさなくたっていいし。ちょうどいいこの気候に今の気分を少しでも吹き飛ばしてほしさもあった。

「今日ちょうどいいな、寒すぎず暑くもない」

 合流してすぐに私と同じ考えを口にした駆は、今日はネイビーのコートを着ていてなんだか大人びて見える。
 私は白のニットワンピで、どう見られているか気になってきた。タイトなシルエットだしそんなに子供っぽくは見えないと思うんだけど。
 何度会っても服装の正解はわからなくてこれだけは駆相手でも悩んでしまう。そのたびに駆が作った〝ワンピースの話〟も思い出してしまうし。

「おー! クリスマスって感じする!」

 大型の公園の中心にある広場に入ってすぐに駆が大声をあげた。そこには赤いアーチ状の入り口があり大きなリースが飾られている。
 公園の中からはポピュラーなクリスマスソングが流れていて、二人で顔を見合わせて笑顔がこぼれる。
 実は駆と調べるまでクリスマスマーケットを知らなかった。もとはドイツなどヨーロッパ各地で昔から行われている伝統的なお祭りらしい。
 クリスマスの飾りつけをした屋台で料理や雑貨などを購入することができる、日本のお祭りのヨーロッパ・クリスマスバージョンみたいなものだ。

「すごい! かわいい!」

 入ってすぐ目にしたのはクリスマスモニュメント。そりに乗ったサンタがユーモアたっぷりな表情でこちらを見ていて可愛い。プレゼントと愛らしいトナカイもいて小さなクリスマスツリーたちと共に迎えてくれていた。

「メインのツリーは会場の真ん中にあるらしいよ」

 サンタをカメラに収めている私に、マップを見ながら駆が言った。
 
「まだあるんだ? 楽しみ!」
「にしてもすごい全力でクリスマスだな」
 
 モニュメントから会場に目をうつすとそこにはずらりと屋台が連なっている。通常のお祭りと異なるのはその外観だ。どの屋台も赤と緑のクリスマスカラーで統一されていて、リースやクリスマスツリーが飾られていて、これでもかとクリスマスを主張している。

「俺正直なめてたわ。ちょっとクリスマス感あって洋風な食べ物あるだけかと思ってたらだいぶ広いし」
「食べ物だけじゃないね」
「昼ご飯食べてツリー見て解散くらいかなって思ってた」

 駆の言う通り入口からは想像できないほど会場は広かった。私も正直『もみじまつり』の憩いの場くらいの規模だと思っていた。
 もちろん食べ物の屋台も多いけど、クリスマス雑貨やクリスマスギフトの屋台もたくさんあるし、フォトスポットも多数設置されていてクリスマスを堪能できる。
 屋台を覗いてみると日本では見かけないパッケージのお菓子や精巧な細工の雑貨があり目を奪われた。

「まだ昼食べるには早いしあれやらない?」
 
 駆が指さした先には『workshop』『手作り体験!』と看板が立てられている赤いテントがある。
 テントの入り口には案内板が立っていて、リースやキャンドルなど好きなものを選んで制作ができると記載されていた。値段も難易度も選べるから子供から大人まで楽しめる体験のようだ。

「どれがいい?」
「迷うね……出来上がりが素敵なのはリース。でもこれは時間もかかるしセンスがいるからリースは既製品を買いたいかも」
「ははっ、確かに。さっき売ってたし」
「でしょ? ――これがいいな、スノードーム」
「クリスマスらしいじゃん。俺もそうしよ」

 店員さんに伝えるとスノードームの材料が置いてある長机に案内された。私は小声で駆に訊ねる。

「ねえスノードームってちょっと子供っぽかったかな?」

 隣の長机で制作されているリースはシックな色合いがお洒落だし、クリスマスキャンドルもドライフラワーを入れて金色のリボンで大人な感じがする。
 対してスノードームコーナーは親子連れが何組かいて、用意されている材料も小さなサンタやスノーマンのマスコットやビーズだ。どれも子供の頃に集めたようなポップで可愛らしいものばかり。

「俺はこういうのもけっこう好きだけど」
「実は私も」
「ならいいじゃん」
「そ、そうだよね」

 さらりと駆は受け止めると「作り方はここに書いてあるらしい」と机に貼り付けてあるラミネートされた紙を指す。用紙には手順が記入されていた。

「最後まで出来たら店員さんが仕上げしてくれるって」
「おっけー」

 作り方は非常に簡単だ。台座にマスコットや飾りを接着剤で固定して、雪の代わりになる白い粉やキラキラとした砂やラメ、ビーズなどを選ぶだけ。親子連れが多いのはこの手軽さもあるに違いなかった。

 私たちが案内された長机の隣に材料が並べてある机があり、ここから好きなものを選択するようだ。マスコットから雪の代わりになるビーズまで合わせれば五十種類はあるだろう。マスコットはサンタにトナカイ、スノーマン、プリンセスもいる。飾りはツリーやプレゼントといったクリスマスらしいものからリボンやお城、貝殻まであって。幼児の宝箱のような光景に懐かしく心がときめく。

「迷う〜」
「貝殻使ったらクリスマス感ないだろ」
「夏のクリスマスの地域もあるから?」
「それもそうか。てかこれ基本料金の中に含まれてるのはメインマスコットと飾り一個だけだって。一つ追加するごとにマスコットは五百円、飾りは二百円」
「派手なものにしたら値段もすごいことになりそうだね」
「すごい商法を見た」

 私はメインとなるマスコットにオーソドックスな黒いハットを被ってるスノーマンを選んで、駆は驚いた顔をしているサンタさんを選んだ。

「このサンタとぼけた顔してて可愛いだろ」
「ふふ、ほんとだ」
「あー同じ顔してるトナカイも欲しいな。プラス五百円かあ……」
「いっちゃいましょう」
「でもこの後ソーセージも食べたいんだよ俺」
「私もホットチョコレート代を残しておかないと」

 結局駆はトナカイもスノードームに招くことにした。代わりに飾りはプレゼントが乗ったソリだけにしておくらしい。私は飾りにツリーと小さな家を選んでプラス四百円を支払うことにした。
 誘惑は降らせる雪にもある。白い雪か、キラキラしたラメやスパンコールを一色選ぶことができてそれだけなら無料。小さな星やハート、雪の結晶を降らせるには一つにつき百円がかかるらしい。

「私は白い雪を降らせて……プラスでこの雪の結晶がどうしても欲しいな、二つ」
「俺は星だな。青いキラキラの中に黄色の星。三つはいる」
「うわそれすごくいい、素敵」
「だろ? 仕方ない、払いますか」

 結局私たちは想定よりも多く支払って店員さんに仕上げをしてもらった。白いジェルのような糊を流し込まれて私たちのスノードームは完成だ。
 
 ワークショップの後は念願の屋台グルメ。クリスマスマーケットの発祥の地・ドイツの料理が多く、聞き慣れない名前の料理ばかりだがどれも美味しい。
 とろけたラクレットチーズがたっぷり乗ったカリッと香ばしいバケット。すりおろしたじゃがいもを揚げたライベクーヘン。駆の念願のソーセージはドイツ語でヴルストというらしい。最後にホットチョコレートも飲むと冷えてきた身体に染み込んで胸までぽかぽかとする。

 一通り食べ終えて満足した私たちはゲブランテ・マンデルンと呼ばれるクリスマスマーケット定番をお菓子を片手にフォトスポットを回ることにした。ポップコーンの袋のようなものに入ったこのお菓子はナッツをキャラメルでコーディングしたもので、たくさん食べた後なのにいくらでも口に放りこんでしまう。
 
 少し人が集まっているフォトスポットを覗いてみると大きなソリに座って撮影ができるらしい。プロのカメラマンが待ち構えていて写真を撮ってくれる。自分のスマホでもプロのカメラでも撮って、気に入ればプロの写真も購入してね、という観光地にありがちなやつだ。

 「可愛いカップル、写真どうですか?」

 サンタのコスプレをした陽気なお兄さんが私たちに向かって笑顔を向けて馴れ馴れしく駆の肩を叩いた。

「はーい、撮ります! せっかくだし撮ってもらお」

 駆は有無を言わさずに列に並ぶから私も大人しく従った。
 
 ……駆って私のことをどう思っているんだろうか。お兄さんの放った〝カップル〟の単語がやけに大きく聞こえたのは私だけなのかな。自分の気持ちさえよくわからないくせに、駆がどう思っているのか気になる。
 私たちは物語を書くために、毎週水曜日に集まって恋を知るために週末にデートのようなことを繰り返す。
 
 さすがに嫌われてはいないと思うけど……。
 目的達成のために集まった仲間。それ以外に私たちを表す言葉は今はない。クラスでは苗字で呼び合って、用事があるときしか話しかけないただのクラスメイトだ。
 〝オトとキイの物語〟には終わりがある。年末〆切のコンテストに間に合わせるのだから、私たちの目的は年内で達成されてしまう。
 クリスマスが終わったら――。

「雫、俺たちの番だよ」
「ごめん、ぼうっとしてた」
「最近ぼうっとしてない?」
「お話を考えてると空想に浸りがちになっちゃうの」

 嘘と本当を混ぜ込む文章がこんなにうまくなったのはいつからなんだろう。全部嘘ではない、本当もある。そんな喋り方ばかりしているから自分を見失ってしまった。
 
「ああ、それはわかるかも。俺も最近すぐ空想の世界にいきがち」
 
 駆は納得したように頷くとソリに座るから、私も隣に座ってカメラにピースサインを向けた。

「はい。まずは彼女さんのスマホでね! 次はこっちのカメラも向いてー。はいオッケー!」
 
 返されたスマホには本物でもない、だけど嘘をついているわけでもないカップルもどきの写真があった。
 でも二人一緒に並んでいる写真は初めてで、それを嬉しく思う気持ちは本当だった。
 
「そういやこのソリ、夜はライトアップされるらしいよ」

 駆の言葉にソリを見やると細かいLED電球がぐるりと張り巡らされている。これが夜に光るとなれば美しいことは間違いない。

「よく見るとどの屋台もイルミネーションのライトがいっぱいついてるね」
「夜はまた全然違う雰囲気だろうな」

 そんなことを喋りながら歩いていると広場の真ん中にある大きなツリーの前に出た。案内には八メートルと書いてあるツリー。あまりの大きさにてっぺんの方はよく見えない。

「すごい迫力」
「な」

 飾り自体はシンプルで赤と金色で統一してある。大ぶりのリボンやベルがおしゃれだ。こちらも電球がいくつもついていて夜はもっと輝くのだろう。

「これ夜見たいよなあ」
「クリスマスって夜が本番なイメージあるしね」
「俺らもみじまつりもライトアップ見れなかったしな」
「そういえばそうだったね」

 私が笑うと、駆は少しだけ言葉に詰まってから
 
「雫さえよければイルミネーション見に行かない?」
「えっ、うん。いいよ。イルミネーションこそクリスマスって感じするもんね。それにイルミネーションのお話も書きたいと思ってんだ」

 突然の誘いに心臓が驚いてしまって、脳で考えるよりも先に言葉が出てきてしまう。急に早口になった私を駆はじっと見下ろすから、口からまた言葉が出てきそうで。私はぎゅっと口をつむるしかなかった。

「このツリーの夜の姿も見てみたいけどまた同じとこ来るのもなあ。イルミネーションなら他でもやってそうだし」

 駆はすぐにツリーに目を戻すけど、少しだけ耳が赤い。
 違う、これは寒いから。風にあたって赤くなっているだけだ。そう理由をつける私の耳も熱い。

 クリスマスイルミネーション。
 それは〝冬の恋の話〟にぴったりなシチュエーション。だから恋の物語の題材を探している私たちにはうってつけの場所。
 だけどこんなに意識してしまうのはどうしてなんだろう。

「どこがいいか探してみるね」
「俺も探すわ。てか雫は家大丈夫? イルミネーション見るってなると夜になるけど」
「大丈夫だよ。夜親いないことも多いし」
「仕事忙しいんだ?」
「ううん。弟が野球のクラブチームに入ってて練習の送迎とかで夜いない日もけっこうある」

 厳密に門限があるわけでもないし問題ない。友達と夜ご飯を食べることだってあるし……別に駆は彼氏なわけでもないんだから挨拶するっていうのも変だし。それに私の行動をお母さんが気にするとも思えなかった。

「へえ、雫の弟もクラブチーム入ってるんだ。俺も中学の時入ってたよ。試合当たったことあるかなー? って年下だからあるわけなかった」
「弟は一年の時からレギュラーだったし二個下だから試合したことあるかもよ」

 私の言葉に駆はほんのわずかに眉を下げて

「でも俺は中二でやめちゃったから。……ほら、啓祐の件で。親ちょっと鬱ぽくなっちゃって。送迎とか難しくなって」
「そ、そうなんだ」
「チャリとか電車で通ってるやつもいたから、親のせいっていうより俺の気合いの問題なんだけどさ。俺もやる気がつぶれちゃって。結構好きだったんだけどなあ」
「……わかるよ」

 熱が入った同意になってしまったこと、気づかれなかっただろうか。
 
「だから今は帰宅部。高校にも野球あるんだからやればいいんだけどな」

 駆はそう言うと「あっちは白のツリーがあるらしい、いこ」と笑顔を作った。きっと彼なりに気を遣ってくれたのだ、人に聞かせる話ではないと判断して。
 『わかるよ、私も同じだから』それはついに私の喉から出なかった。
 
 私の吹奏楽も同じだ。本気でやる気があるなら、お母さんの言う通り覚悟というものがあるなら。B学園に入れなくても続けてもよかったんだ。
 高校入学後、帰宅部にすることを告げた時の「やっぱりね」というお母さんの目。
 だけど大人は知らないんだ。私たちの小さな勇気はいとも簡単に踏みつぶされてしまうことを。

 ・・
 
 てらてらと黒光りする豚バラの生姜焼きが胃に重くのしかかる。

「ごめん、もうお腹いっぱいになっちゃった。悟食べてくれないかな?」

 悟はちらりと私の皿を見ると、無言で豚バラを取っていく。

「ダイエットしてんの? お肉も食べなきゃだめよ」
 
 お母さんが咎めるように私を見つめる。あの日からお母さんは普通だ。悟の前だから普通にしているのか、開き直ってどうでもよくなったのかはわからない。
 私の気も知らないで。自分が「大丈夫だよ」と言って、お母さんの愚痴を受け取ったくせに恨みがましい気持ちがこみあげてしまう。
 
 玄関からドアを開ける音がして私の身はびくりと固まる。お父さんが帰ってきたからだ。
 お母さんは音に気づくと無言で立ち上がりキッチンからお盆を持ってくる。お盆にはお父さんの食事が乗っていて、それをテーブルに載せると「頭が痛いから寝るわ」と言って二階に上がって行ってしまった。
 お母さんと入れ替わりでお父さんが入ってくる。

「ただいま。――お母さんは?」
「おかえりー。頭が痛いみたいだよ、上行った」
「そうか」

 私はへらりとした笑顔を作る。お父さんは少しほっとしたような表情を見せると「生姜焼きかあ」と言いながら席についた。
 
 お母さんはずるい。あの日からずっとお父さんと顔を合わせないようにしていて。
 お父さんもずるい。罪悪感から来るものからか変に機嫌よく私たちに話しかける。話しかけられたこちらの気持ちも考えない自己満足だ。
 悟もずるい。何にも知らなくて。何も知らないまま反抗期を盾にして両親の仲介役を全部私に押し付けて。

 ……私だって部屋に戻ればいいだけだ。食事だって一緒に取らなくていい。お父さんのことなんて無視してしまえばいい。
 
 でも私が笑顔を作らないと本当に家族が終わってしまいそうで。
 私が何かしたところでいまさら家族の未来が変わらないことなんてわかっているのに。

 家族の誰にも、私は特別に思われていないのに。
 どうしてここに留まってしまうんだろう。どうして必死に繋ぎ止めてしまうんだろう。
 ……自分がどうしたいのかもうわからなかった。
 
・・

【雪を降らせてスノードーム。
 この気持ちに気付かないように、覆い隠して。
 昨日二人で話したくだらないことを一字一句覚えてしまっているの。
 まだ気づきたくないから真っ白に戻して。
 だけどね、降り積もった雪に君が足跡を残してく。
 スノードームを逆さにするたびに。】

 恋の話がまた書けるようになった。クリスマスマーケットに行って冬を体感したからかもしれない。
 私は下書き保存していた話を投稿した。背景色はピンク、投稿者はclear。
 この作品は気に入っていたけどオトらしくない、と判断して水曜日の作戦会議には持っていかずにclearとして投稿することにした。
 駆のイメージで行くと、オトは優しいけど結構おおざっぱなところがある。半券をくしゃくしゃにしてしまう彼がスノードームに願いをかける姿は想像がつかなかった。

 私はベッドボードに置いてあるスノードームを逆さにした。白い雪と大粒の雪の結晶がふわりふわりとスノーマンに落ちていく。柔らかな波のような雪を眺めていると心も白く平らにしてくれるから。帰宅してから私は何度もスノードームを眺めてしまう。

 「あ。更新された」

 keyが〝オトとキイの物語〟を投稿した通知が届いて、すぐにLetterを開いた。前回の投稿ではグループ六人でクリスマスマーケットに行った光景が描かれて、今回はその次の投稿だ。
 
【キイがスノードームを作りたいと言って僕だけが賛成した。
『子供っぽいなんてひどいよね』キイが口をとがらせながらビーズをつまむ。
『でもオトがいるなら楽しいし』その言葉に僕の手からビーズが落ちる。飛び跳ねたビーズたちが僕に訴えかけるんだ。
『子供ぽいところが可愛い』『キイと二人で嬉しい』と。】
 
 白く、平らになっていた心が泡立つ。この作品は既に読んだことがあるものだ。クリスマスマーケットの翌週の作戦会議で採用されたもので、駆の文章に私が少し手直しを加えたもの。
 知っている文章のはずなのに。ビーズが跳ねる音が耳元で聞こえる。私にも訴えかけているみたい。

 keyの投稿はまるでclearの投稿の返歌のようで、SNSを通した秘密の交換日記のようで、顔が熱くなる。

 今、駆は何を思ってるんだろう。
 どんな意図でこの投稿をしたの? ……私の投稿を見ずになんにも考えずに投稿しただけかもしれない。もしかしたら予約投稿だったかもしれない。
 
 私はスノードームを逆さにして、心を落ち着かせることにした。
 雪を降らせて、スノードーム。この波立つ気持ちを平らにして。