【私ってほとんど透明だ。
 別にいても、いなくても、どっちでもいいそんな人間。
 世界を敵に回してまで、私を選んでくれる人はいない。
 みんな特別な一番がいて、私は三番手とか。ううん、それもかなり贅沢かも。六番手とか七番手とか、きっと私は誰かにとってそんなもの。
 もし私が死んだら――存在に気づいてもらえるかも】
 
 それは何度も書いては消して、ようやく完成した文章。
 誤字もない、リズム感もいいはず。我ながらいい。ちょっと……暗いけど。
 投稿ボタンを押すか三秒だけ悩んで、隣の下書きボタンを押した。
 私はここですら本当の気持ちを呟けない。

 
 ■ 透明な僕たちが色づいていく ■
 

 突然ですが、私の嫌いな時間ナンバースリーを発表します。
 それは家族団欒の時間、夕食です。
 
 中学二年の弟の(さとる)の好物で固められた夕食。げ、今日も豚バラの生姜焼き。私は生姜焼きはロースがいいのに。悟が脂っこいものが好きだから、週に二回は豚バラが登場する。
 
「土曜日、何時に送っていけばいい?」
「七時」
「お弁当はどうする? 何か食べたいものある?」
「ううん」
 
 思春期真っ盛りで口数が減った悟に、お母さんは矢継ぎ早に質問を続ける。悟は単語か「ああ」「ううん」しか言わない。この時間は悟に逃げられない唯一の質問タイムなので、お母さんはこのチャンスに賭けている。悟が所属している野球クラブチームの連絡事項を交えて質問すれば悟も答えないわけにもいかない。私は二人の会話に口を挟むことなく黙々と食べた。
 ご飯を二合は食べた悟が席を立つと「ごちそうさまはー?」とお母さんは優しく声を掛ける。返事はないってわかってるのに、毎日めげずにご苦労なことだ。
 
「ごちそうさま」
 代わりに私が言うと「(しずく)、お皿下げといてね」と言葉が返ってくる。私は悟の席に残ったままの皿をこっそり睨みつけた。
 
「はあ、お父さん今日も遅いしご飯いらないんだってー。もうちょっと早く言ってくれたらねえ」 
 流しに悟の分の食器も突っ込んだ私に、お母さんがぼやいた。

「悟が全部食べたし、ちょうどよかったんじゃない?」

 私が明るい声を出すと

「あの子ほんと良く食べるわよね。今日お肉何グラム買ったと思う?」
 
 くだらないクイズが始まって、仕方なく私は「一キロかなあ」と答えた。
 
「そうだ。宿題たくさんあるんだった」
 私は今思い出したかのように声を張り上げると、お母さんに背を向けて階段を登る。
 
 この後に続くお母さんの話は大体想像できる。お父さんの愚痴か、悟の話か、明日のご飯何がいいと思う?とか。全部そんなことだ。

・・

 次に、私の好きな時間ナンバーワンを発表します。
 それはこうしてベッドに寝転がって「Letter」のアプリを見ている時間。
 
「Letter」は『あなたの色とりどりの気持ちを教えて。あなたの感情は、どこかの誰かに届く』をコンセプトに数年前にサービスを開始した、〝150文字〟までの超短編小説や詩を投稿するSNSだ。
 とてもシンプルなSNSで、反応はフォロー、リポスト、ハートを送る、しかできない。投稿主同士のやり取りはおろか、感想を書くことすらできない。
 だけど、150文字の小説と詩だけがタイムラインに流れてくるのはとても居心地がいい。誰かの感想を気にしてみたり、投稿主同士の関係を思い量ることもない。
 自分がフォローしたお気に入りの投稿主と、その投稿主がリポストした150文字しか流れてこないこの場所は、誰かが紡ぐ丁寧な言葉、優しい言葉だけが並んでる。
 
 Letterの大きな特徴は、感情や伝えたいことが色分けされているところだ。投稿の背景色を自分で決めることができる。例えば一番人気があるピンクは恋愛にまつわること。黄色は友情、と言ったように感情や伝えたいことを色分けするのだ。
 私はタイムラインを一通り確認して、気に入った投稿にハートを押すと検索画面に移動した。

 Letterの検索機能はその特徴を活かしていて、色で検索することができる。検索画面を開くとふんわりとした丸が様々な色で並んでいて、その中から私は水色の丸をタップした。
 水色は淋しい気持ちを吐き出す人が多い。水色の投稿を見るといつもほんの少しだけ安心する。私と同じ気持ちを抱えている人が見つかるから。
 
 気に入った投稿を見つけては投稿主のホームに飛んでみる。その人の様々な色の投稿をざっと読んで、この人の文章好きかも、と思えばフォローする。
 そうやって好きな言葉や素敵な言葉を紡ぐ人を、新しく発掘するのが夜の密やかな楽しみだった。
 Letterに登録してから一年経つ、半年前からは投稿も始めた。フォロワーは二百人ほど。特別人気投稿主というわけではないがそれなりに反応ももらえている。
 一通り見終えた私は、昨日考えておいた話を投稿することにした。背景色はピンク。
 
【会いたいよって言えなくて、好きな動画を共有してみた。
 行かないでって言えなくて、裾を引っ張ってみた。
 一言だけでも言葉に変えることができれば、新しい僕たちが待っているかもしれないのに。
 言葉を飲み込むだけ、君への好きが積もっていく。
 自分の感情に埋まってしまってもう僕は身動きが取れない】
 
 私のホームはピンクの投稿で埋め尽くされている。下書きにたくさん水色や灰色の気持ちを残して。
 恋をしたこともないのに、今日もピンクを投稿する。

 まだ夜は時間がたっぷりあるから、水色の投稿を再度検索することにした。

「このお話、好きかも」

 惹かれた投稿を見つけて投稿主のホームに移動してみた。名前は『key』。
 
「まだ投稿は三件しかない」

 だけど瑞々しい情景描写はどれも私の心にしっくりと馴染んで、すぐにフォローボタンを押した。こういう期待の新星を見つけるのも楽しいんだよね、なんてベテランぶったことを考えていると通知が届いた。keyが私の投稿にハートをつけてくれたのだ。それから私の投稿を遡ってくれたみたいで次々とハートが届く。
 そして最後にフォロー通知も届いた。
 
 私たちは直接言葉を交わさない。だけどお互いの言葉を知って、受け入れる。Letterを利用する人間だけが交わす特別なやりとり。それは私が存在することを許された気がする。

 たとえ私の投稿が、全部空想で出来たもので。私の気持ちが入っていないとしても。

 ・・

 続いて、私の嫌いな時間ナンバーツーを発表します。
 
「今日のテーマは手。手のひらでも指でも何でもいいわ。ペアになった相手の手を書いてね。じゃあペアを組んで」

 午後。私たち一年五組は美術室にいた。この先生はやたらペアを組ませたがる。先生の言葉に、自由に席についていたクラスメイトたちは賑やかになり、私たち三人も顔を見合わせた。
 
「えーどうする?」
 香菜(かな)は不満げな声をあげて、くるりと巻かれた毛先を指で遊ぶ。

「うーん、こないだは雫が行ってくれたもんね」
 友梨(ゆり)が私を気遣ったように見て、二人は目を合わせたまま黙り込む。

「……私が別の人と組むよ」

 心の内が伝わらないような声を出して微笑んで見せる。二人がほっとしたように顔を和らげるのを確認してから席を立った。
 
「山本さん、ここに座っていいかな?」

 柔らかい声と表情を意識して、一人で座ったままのクラスメイトに声をかける。彼女は教室でもいつも一人で過ごしている。山本さんは黒髪をさらりと揺らしながら頷いて、彼女と対面するように座った。
 
「俺余ったから誰か組んでー!」

 大きな明るい声が飛んでくる。声の主は鍵屋駆(かぎやかける)

 正直鍵屋くんが余ることなんてない、と思う。男女問わず人気があるムードメーカー。背が高く集団にいてもすぐにわかる。鍵屋くんは近くにいた目立たない男子生徒に声をかけてへらりと笑った。
 
 ――私は鍵屋くんがちょっと苦手だ。ほんの少しの同族嫌悪と、ほんの少しの嫉妬。
 彼は人より少し空気が読めて、他人の顔色を窺って立ち回ることができる。そういうところは私と似てるくせに、私には到底なれない存在だから。明るくて、人気者で、優しくて、きっと彼を一番の相手にしたい人はたくさんいる。
 
「私から描いてもいい?」
 ぼんやりしていた私に山本さんが訊ねた。

「ごめん、いいよー」
 私は目を細めて楽しげな唇を作ってから手を差し出した。
 
 山本さんの奥に友梨と香菜が見える。どちらから始めるかじゃんけんをして楽しそうに笑っている。

 別にペアを組むときに余ること自体はいい。山本さんは穏やかで一緒にいて苦もないし、三人から誰が抜けるか話す時間が長くなるよりずっといい。
 
 だけどこうして選ばれなかった事実を突きつけられるたびに、私という存在は薄れていく気がする。

 ・・

「二人って今日予定あるー?」

 放課後、友梨がリップを直しながら訊ねた。マットな質感の赤が唇を彩りいつも以上に大人びて見える。

「ないよ。だけど友梨って今日デートじゃなかった?」

 友梨は大学生の彼氏がいて、校門の近くに停まった車に時々乗り込んでいく。
 
「彼氏が友達連れてくるんだって。それで良ければ友梨の友達もーって言われてるんだけど、どう?」
「予定ない! 行きたい!」

 香菜が即座に返事して、私も「予定ないから行けるよ」と答えると、友梨はスマホを見て表情を少し曇らせた。
 
「あーごめん……友達来るのは一人みたい」

 瞬間、空気がピリッと張る。遊ぶと言っても……つまりこれはダブルデートのお誘いだ。求められているのは〝一人だけ〟。
 彼氏が欲しいと常にぼやいている香菜は私の反応を待っていて。そしてこういう時、どういう答えを用意すればいいのか私は知っている。
 
「私、知らない人は緊張しちゃうからやめとこうかな」

 出来るだけ軽く聞こえるように私は言った。
 
「え、ほんとー? じゃあ私行く!」

 香菜が嬉しそうな顔に代わり元気よく手を挙げると、友梨もほっとしたように微笑んだ。
 
「ごめんね雫、また遊ぼうね」
「全然大丈夫。私のことは気にしないで」
 
 二人が眉を下げるから、私定番の台詞を口にして口角を上げてみせた。
 
「じゃあまたねー」
「ばいばーい」

 友梨と香菜は私に手を振ると、先ほどまでの申し訳なさそうな顔から一転、はしゃいだ様子で教室を出ていった。
 
 別にいいですけど。彼氏が欲しいわけでもないし、知らない人がいると緊張するのも本当だし……それにどうせ万年六番手ですし。
 悲しき突っ込みがお腹からこみあげてくる。
 
 ちょっと心がすり減ったときは、Letterを見て癒されるのが一番だ。そう思って一つ二つ投稿を見てみるけど……ガヤガヤとした教室ではカラフルな世界には飛び込めない。Letterは一人で家にいる時に見るに限る。さっさと帰ろう。
 
 だけど立ち上がった瞬間。私に衝撃が訪れた。
 
「わ……」
「うわわ」
 
 カシャン! 誰かに思いっきりぶつかられて、その衝撃で手にしたスマホが落ちて滑っていく。
 
「ご、ごめん、瀬戸!」

 私にぶつかったのは鍵屋くんだった。彼の色素の薄いふわふわの頭が見える。――鍵屋くんが私に向かって大きく頭を下げているからだ。
 
「大丈夫。私もよそ見してたから……」
「てか、スマホ!」

 私の身体の無事を一度確認してから、鍵屋くんは慌ててスマホを拾うと「あーっ!」と大きな声を上げた。
 
「ごめん……画面割れてる……」
「えっ!?」
 
 さすがにそれは私も笑顔では対応できない。慌ててスマホを覗き込む。
 
「あー、大丈夫。これガラスフィルムが割れてるだけで、スマホの画面自体は無事だよ」

 鍵屋くんから受け取って念のためにスマホを操作してみるけど、機能的にも問題はなさそうだった。

「ごめん、フィルム弁償す――」
 
 心配そうに鍵屋くんはスマホを覗き込むと「あーっ!」とまたしても叫んだ。
 
「瀬戸ってclearさんなの?」
「え?」

 鍵屋くんは嬉しそうに私を見た。
 
 ――なんで、その名前を。
 
「ほら」

 きっと間抜けな顔で鍵屋くんを見ていただろう私は、彼につられて画面を覗き込む。
 それは私のLetterのホーム画面で、私のハンドルネームが表示されていた。そう、私は『clear』という名前で投稿している。
 
「えーすごい。俺ファンで、clearさんの」
「ちょ、ちょっと待って」
 
 教室にほとんど人は残っていないけど、私たちのことをチラチラ見ている人もいる。鍵屋くんは目立つのだからやめてほしい。私は声を潜めると
 
「ごめん、ここではこの話は……」
「なんで?」
「恥ずかしいから……!」
 
 注目を浴びるのは嫌だ。小声で抗議すると鍵屋くんは少し考える仕草をして
 
「わかった。今からちょっと時間ある? フィルム代の弁償も兼ねておごらせてくれない?」

 ・・

 学校の最寄り駅にあるカフェで、私は鍵屋くんと向かい合ってメニューを選んでいる。ほんの十分前まで全く想像もしていなかった展開だ。メニューを見るふりをしながら鍵屋くんを盗み見る。
 
「ここ来たかったんだよ、でも男だけだと入りづらいから」
 
 鍵屋くんはきょろきょろと店内は見渡しながら楽しげな表情をしている。鍵屋くんの言う通り、店内は淡いパステルカラーで統一され、可愛いメニューを売りにしている。だとしても、鍵屋くんなら誘える女子はいっぱいいそうだけど。
 
「瀬戸がclearさんなのは合ってる?」
 
 くまのはちみつレモンティーを一口含んでから鍵屋くんは切り出した。私はうさぎのチョコレートが添えられたミルフィーユを切り分けながら頷いてみせる。
 
「うん」
「やっぱりそうなんだ!? うわー、さっきも言ったけど俺clearさんのファンで」
 
 人懐っこい笑顔を鍵屋くんは向けた。
 
「てことは鍵屋くんもLetterやってるの?」
「うん。clearさんにもフォローしてもらってる」
 
 鍵屋くんはポケットからスマホを出すと、自分のLetterのホーム画面を見せた。そこには『key』の文字。
 
「あ……!」
「俺ずっと読み専で、clearさんの作品のファンだったんだよ。最近会員登録したらclearさんにフォローされて舞い上がったわ」
「……そうなんだ」
 
 体温が一気に高くなる。Letterの性質上感想はもらえない。フォローやハートはもらえるけど、好きだと言ってもらえたことはない。頬が勝手に緩みそうになる。
 
「それで相談があるんだけど」

 鍵屋くんの声のトーンが下がり、その声につられて私も鍵屋くんを見つめた。
 
「Letterで今度コンテストがあること、瀬戸知ってる?」
「知ってるよ」

 Letterはハートやリポスト、フォローはできても交流が目的のサービスではない。どちらかというと壁打ちのようなSNSだ。
 そのLetterで先日初めてのコンテストを行うと告知があった。受賞すれば書籍化に繋がる大きなものだ。
 これには賛否両論があり、Letter外のSNSでいろんな声があがっているのを見かけた。
 以前からコンテストを熱望していた人、せっかくなら応募したいと思っている人もいれば、今までの穏やかな雰囲気が消えてしまうのではと反対する声もあった。

 書き手の〝誰かが読んでくれるかもしれない〟という温度感と、読み手の〝あなたの感情をこっそり見せてね〟という距離感を気に入っていた私も、この雰囲気が変わってしまったらどうしようとは密かに思っていた。それにコンテストに応募しようとも思っていない。
 

「俺はそれに応募しようと思ってる。どうしても小説家になりたいから」

 鍵屋くんはまっすぐ私を見て静かに告げた。そして――……。


「瀬戸。物語を一緒に作って欲しい」


 鍵屋くんの表情はあまりにも真剣で、それでいて言葉は突拍子もなく。一瞬、時が止まってしまった。私は慌てて鍵屋くんの言葉を噛み砕き、

「ええと。物語を一緒に作るというのは……?」

 そっくりそのまま彼の言葉を返してしまった。

「あーごめん。言葉が足りなかった。俺、小説家になりたいけどほんっとーに初心者で。だから小説の作り方っていうか、極意みたいなのを教えて欲しい」
「私が……? 力になりたいけど、私小説を書いたことなんてないよ」

 いつもの私ならお願いごとは断れない。鍵屋くんの瞳はあまりにも真剣だったし。
 だけど小説の作り方を教えて、と言われても小説を書いたことなどなければ、普段本をたくさん読む方でもない。ただLetterに投稿されている150文字が好きなだけなんだから。

「でもclearさんはミニ恋愛小説みたいな話を投稿してない? 俺はそれも小説だと思ってる。――難しいことを頼みたいわけじゃなくて、いつもどうやってネタを考えてるとか、語彙力はどこで鍛えてるとか、そういう小さいコツでもいい」

 鍵屋くんは真面目に手を合わせるから面食らってしまう。keyの投稿は素敵だったから私が教えるまでもなさそうなのに。
 だけどいつもへにゃりと笑っている彼がこんなに必死な表情をするのを見たことがない。

「私が手伝ってもなんにも得られないかもよ。でも何か力になれることがあれば……」

 鍵屋くんの気迫に負けて私は承諾していた。
 空気を読んで、人の希望にできるだけ答える。いつもの私。
 でも今頷いたのは初めて誰かに必要とされた、と思ったから……かもしれない。

「まずコンテストについて確認してもいい? 私は応募するつもりなかったから実はあんまり詳しく見てなくて」

 私がスマホを取り出すと鍵屋くんは目を丸くして

「えーっ、もったいな。応募したほうがいいって、こんなチャンス」
「そうかも……。とにかく応募要項見てみるね」

 私は曖昧に笑うと、Letterを開いてコンテスト特設ページを見ることにした。

『あなたを教えて、世界を色づけて
 〜Letter初のコンテスト! 受賞作は書籍化!〜

 Letterサービス開始から三年。毎日ここには美しくて繊細なたくさんの色が溢れています。
『あなたの色とりどりの気持ちを教えて。あなたの感情は、どこかの誰かに届く』というコンセプトのもと、今日もあなたの言葉はたくさんの方に届いています。
 この度、Letterを利用してくれている方だけでなく、もっとたくさんの方に届けることができればと今回のコンテストを企画しました。みなさんの言葉がネットの海を超えて、形となり本になる。
 あなたの素直な気持ちを世界に伝えてください。きっと届く人がいます』

 そんな運営からのメッセージの後には応募要項が記載されている。
 
 募集は、Letter部門と小説部門からなる。
 Letter部門はいつも通りの150文字の投稿にコンテストタグをつけるだけでいい。
 小説部門は150文字の投稿を続けて、最終的に一万文字〜三万文字の小説にする。
 Letter部門から百作、小説部門から何作が受賞となり、一冊の本となる。というのがこのコンテストの概要だ。

「受賞したら本になるってすごいね、S社とのコラボなんだ」
「夢あるよな。今まで読み専だった俺が登録したのもこれに応募したかったから」

 そう語る鍵屋くんの瞳は水分をたっぷり含みキラキラとしている。
 だけど意外だ。人の印象を見た目や雰囲気だけで決めつけてはいけないと思うけど、彼と小説というのはあまり結びつかない。
 いつも友達に囲まれていて……なんというか文学少年っぽくない。じゃあどういう人が文学少年や小説家になりたい人なのか、と聞かれるとそれはそれで困ってしまうけど。
 
「俺は小説部門に応募にする」
「Letter部門じゃなくて?」

 どちらも倍率は高そうだけど、純粋に難易度の高さで言えば小説部門じゃないだろうか。

「うん。どうしても小説が書きたいから」

 鍵屋くんははっきりと言い切った。

 それもまた彼の意外な顔だった。私は鍵屋くんに近しいものを感じている。周りの空気に同調して、誰かの意見に賛成する。いつもへらへらしている私に似ているって。
 だからはっきり自分の意見を通してきたのは意外だった。というか今日の彼はずっと強引だ。彼と出会って半年、そんな姿を見たことがなかった。――まあそんなに彼と親しくはないのだけど。

「どうして小説が書きたいの?」と聞きたかったけど、反感を持っていると思われたくなくてその言葉は飲み込んだ。かわりに
  
「どんな小説を書こうと思ってるの?」と訊ねてみる。

「まだ全く未定」

 小説を書きたいとはっきり言うのだから、描きたいものも決まっているとばかり思っていた。
  
「コンテスト告知があってから考えてはいるんだけど何も思いつかなくて。だから小説的に言うと、藁をも掴む、気持ちで瀬戸に依頼した」

 それはことわざであって小説的なのだろうか? という素朴な疑問はさておき。とにかく素人である私に頼むくらいには困っているらしい。
 
「〆切はいつだったかな」

 返事に困った私は応募要項に再び目を戻す。
 〆切は年末。今は告知から半月ほど過ぎた十月上旬。私たちに残されている時間は二ヶ月半というところだ。

「二カ月半で最低一万文字かあ」
「150文字……毎回150文字ぴったりに投稿しないとしても、七十回くらい投稿すればいける。そう思うと行ける気しない?」
「確かに」
 
 私が納得すると鍵屋くんは白い歯を見せた。……二カ月半毎日投稿すれば文字数的には足りる。
 文字数には、だ。
 だけど単発の150文字の七十回の投稿と、一万文字の小説は全然違うんじゃないだろうか。

「つまりまとめると、鍵屋くんは小説部門に絶対に応募したい。だけど肝心の小説は全くの白紙。〆切は二ヶ月半」
「正解」

 なるほど。全然のんびりしている状況ではない。
 私の戸惑いはほんの少し顔に出てしまったのか、
 
「でもざっくりと考えてることは一応あるんだよ」

 そう言うと鍵屋くんは革の手帳を取り出した。大人が使うような上品なネイビーのものだ。使い込んでいるのか少しくたびれている。

「青春恋愛で、季節にまつわるものにしたい」

 そう言って彼がぱらぱらとページをめくると「〇青春恋愛 テーマ→季節」とだけ書いてあるページに行き着いた。
 ベタなテーマではあるけど、それなら私でも手伝えるかもしれない。ここで鍵屋くんが時代小説や本格ミステリを書くと言い出したら私にできることは全くなかった。

「主人公とかストーリーとかは? 何かある?」
「それは全くない!」
「一欠片も?」
「一欠片も。――ここで〝一欠片〟って言葉が出てくるところが文章うまいな、と思うわ」

 ……そうかな?という突っ込みは笑顔に変えておいた。

「アイデアをどう出してんのかまず聞きたかったんだよな。clearさんはいつも恋愛について書いてるけど、毎回登場人物は違ってて。片思いだったり両想いだったり、別れたカップルとか幅広いじゃん。それ全部が実体験ってわけじゃないよな?」
「そうだね」

 ほんとのところは実体験、ゼロだ。「はい」とも「いいえ」にもならない返事で濁す。

「だからどうやってネタを考えてるか知りたい」

 鍵屋くんは嫌味など一切なく、純粋な気持ちで聞いているみたいだから、私も真面目に答えることにした。
 
「今日は片思いの子の話にしようかな、両想いにしようかな、ってなんとなく決めてるだけかも」
「なるほど……」
「バレンタインだからバレンタインの話を書こうかなって思うときもあるよ」

 改めてネタの出し方を問われると難しい。あまり細かいことは考えずに目についたものから考えていたと思う。150文字ではそれが許されても、小説となると変わってくるんじゃないだろうか。

「テーマは季節って決まってるんだよ。それをテーマにしようと思ったのどうして? そこから膨らませてみるのは?」
「……いや、特別考えたわけじゃない。青春恋愛物で季節にまつわるものにする、ってこと以外は本当に全く考えられてない。主人公もシチュエーションも特にない。――ごめん。こんな状態でアドバイス求められても困るよな。自分でももう少し考えてみるわ」

 鍵屋くんは眉を下げてへらりと笑う。いつもの鍵屋くんが戻ってきた気がする。それはどう見ても愛想笑いだ。――私とよく似た。
 だから私は思わず言ってしまった。

「ううん。一緒に物語作ってみよう。まだ二カ月半あるよ!」


 ・・

 
  私の嫌いな時間ナンバーワンを紹介します。

「早く帰ってくるなんて知らなかったから。文句があるなら連絡してくれる? いつも遅いんだから」

 嫌いな時間、それは両親が会話をしている時間。

 棘のあるお母さんの言葉が食卓に響く。私は二人の顔を見比べてしまうけど、悟は知らん顔で豚バラを口に放り込んでいる。

「別に文句を言ったわけじゃない」
「じゃあなんでわざわざ言ったの」
「靴下がある、と感想を言っただけだろ」
「そんな言い方してない」
 
 久々に夕食の時間にお父さんが帰ってきた。手を洗おうとして、洗面所に汚れた悟の靴下が漬けてあったことが気に入らなかったらしい。リビングに入るなり「靴下が邪魔だった」と吐き捨て、それにお母さんがカチンときたわけだ。
 お父さんは気に入らないことがあると我慢できずにぼそりとつぶやき、お母さんはそれに大きく反応してひとこと言い返さないと気がすまない人だ。二人は相性が悪い。子供ながらなぜ二人は結婚することになったんだろうと思うほどには。
 
 バタンッ! 二階から苛立ちに任せて扉をしめた大きな音がする。お父さんはイライラすると物に当たりすぐに書斎に閉じこもる。

「ご飯どうすんの!? 食べるの、食べないの!?」

 お母さんが二階に向かって叫ぶけど返事はない。

「はあ、もう……」
 お母さんは「物に当たらないでよ」とため息を付く。
 
 二人の刺々しい会話はいつも私の心を的確に刺す。どうして二人とも全てを吐き出してしまうのだろう。ひとこと留めておくだけでこんな空気にはならないのに。

「今日中に洗わないと明日間に合わないもんね」

 神経質に箸をトントンと打ち付けるお母さんに、私は笑いかけてみる。

「そうよ。それに洗剤に漬け込んでおかないと汚れ取れないし」

 お母さんは私の共感に少し表情を和らげた。

 ……良かった、〝正解〟だった。あまり味のしなくなったご飯を噛み締めながら安堵する。
 だけど機嫌は完全に回復していないらしく、いつもの悟への怒涛の質問もなく、ダイニングには静かな重い空気が漂っている。

「そういえば今日帰りに久々に田岡のおばちゃんに会ったよ」

 この空気を和らげようと私はどうだっていい話を始めた。絞り出した世間話は自然と早口になる。

「田岡も野球やってるって知らなかったなー。今田岡も私立いってるみたいで――」

 そのとき、私の言葉を遮るように音を立てて悟が立ちあがった。食べ終えた皿はそのままに、白けた顔をして二階に上がろうとする。お母さんはすぐに悟を追いかけて

「悟! 監督にもらってきたプリントがあるから! 後で見てね!」

 と階段に向かって呼びかける。

 そうして私のどうだっていい話は宙ぶらりんになる。こんな話は私だって本当は全然全く一切興味はない。だけど誰にも受け止められず無意味となった言葉たちが私の体積を一ミリ削った。こうして私は少しずつ削られていって最後には消えちゃうのかもしれない。
 
 ――今の感情。あとでLetterに投稿しようか。
  
 お母さんは悟がいなくなると堂々とお父さんの愚痴を始めたから、私はLetterのことを思い浮かべながら、愚痴を一つずつ受け流す。
 お母さん曰く、私は友達のような存在らしいのだ。悟は子供で私は友達。それは喜ぶことなのか悲しむことなのかいまいちわからなかった。

 食べ終えて二階に上がると書斎の扉が開いてお父さんが出てきた。どうやらトイレに行くつもりらしい。

「お父さん、おかえり」

 私は笑顔を作ってみるけれど、お父さんは不機嫌そうにちらりとこちらを見るだけで私の横をすり抜けてトイレに入っていった。

 ……機嫌が悪いだけ。私のことが嫌なわけじゃない。

 そう心のなかで呟いて早足で自分の部屋に入ると、焦るようにスマホを取り出した。身体の力を抜いてベッドに寝転ぶとLetterを開く。

 心臓がすっかり冷えてしまった時は、黒色の投稿を見ることにしている。もやもやが絡まったこの感情と同じ感情を見つけたかった。それから自分の感情を打ち込む。

【言葉も、視線も、態度も。剥き出しの刃だ。
 誰かを斬り捨ててまで、言葉って吐き出さないといけないの?
 僕の言葉は鞘に収めたまま錆びついて抜けない。
 笑顔の鎧が重いよ】

「はは、テーマ侍かよ……これは没」

 そして今日も投稿ボタンを押せず、削除する気にもならず、真っ黒の感情を下書き保存した。
  

・・

 水曜日。放課後の図書室に鍵屋くんはやってきた。

 私は図書委員として毎週水曜日は図書室で貸出の係をしている。部活やバイトで忙しい人たちが放課後の拘束を嫌がったから、いい子ぶって立候補した図書委員。だけどここは案外居心地がよく、家にすぐには帰りたくない私にとってもちょうどよかった。

 鍵屋くんがやってきたのはもちろん、物語を一緒につくる件だ。

「ここ隣座っていいよ。私一人だから」

 図書室の仕事は特別忙しいわけではない。貸出カウンターに座っているだけで、いつもほとんど宿題をして過ごしている。大きな声で喋らなければ鍵屋くんとここで小説について打ち合わせをしたっていいだろう。そう思ってこの場所を指定していた。

「昨日のclearさんの投稿も良かったよ、切なくて」
「本当? ありがとう」

 黒の代わりに投稿したピンク。どこかの片思いの女の子の気持ちを勝手に想像した、私の中に存在しない感情。

「それで早速本題に入ってもいい?」
 
 鍵屋くんはどこかそわそわとした表情をしている。

「おっけー」
「じゃあお互い発表していこう」

 私たちはあの日、自分たちに宿題を課した。

 アイデアが何ひとつない状態で話し合っても進まないだろうと判断して、二日後の水曜日までにそれぞれ考えてみることにした。
幸い〝青春恋愛〟と〝季節〟という大枠のテーマだけは決まっている。宿題で考えるべきことは二つだ。

 一つ目は、主人公と恋の相手。男か女か、年齢はどうするか。ざっくりしたものだけでも決めておく。恋愛物にするのだから相手役も。
 二つ目は、季節に関連するワードをたくさん書き出してみること。
 そのなかからこれを描きたい!というものが見つかるかもしれない、という私のナイスアイデアだ。

「主人公は男子高校生にしようと思う。自分と同じ属性の方が書きやすいと思って。年齢も十六」
「いいと思う。恋の相手はどうする?」
「それも……クラスメイトってことにしよう。イメージしやすいし」

 書きやすいからというだけのネガティブな理由ではあるけど、ひとまず主人公と相手役はすんなり決まった。二人の更に詳細な設定は次回までの鍵屋くんの宿題となった。

「次は季節について。ワード考えてきた」

 鍵屋くんは文字を書き込んだコピー紙を机の上に広げた。
 
 春――花粉症 入学式 四月
 夏――暑い 夏休み
 秋――落ち葉 焼き芋
 冬――寒い 雪 クリスマス

「…………」

 正直な感想は「えっ、これだけ?」だったがもちろんそれはストレートに口にしてはいけない。代わりに私のコピー紙を渡す。

「私は自分の投稿の中に季節にまつわるものがあったからまとめてきた。例えばこれは花火。花火を見ている君の横顔を見て恋心に気付いたって話。これはクリスマス。去年は一緒にツリーを見たけど今年は隣に君がいないって話」

 いくつかの投稿をまとめて印刷したものを鍵屋くんは食い入るように見ると、感嘆の声を漏らした。

「あーこういうことかあ。さすがclearさんだし、瀬戸って感じ。しっかりしてる」

 鍵屋くんが読んでいる間に、私はkeyの投稿を思い出す。――あれも季節についての投稿だった。私はアプリを開いてkeyの作品を見る。

【カランと氷が落ちた。音に視線をあげる。
 グラスの水滴と、君の喉に張り付く汗が重なって目を落とす。
 眩しくてずっと目をそらし続けてた。君と、このじっとりとした気持ちに。
 だけど今日は決めている。次に氷が落ちたらそれが合図。君に明かすよ】

 他の二作も春と冬の瑞々しい恋の話で情景描写が素敵な作品。私を頼らなくても作れるのに。
 
「keyの投稿も季節のものだし、鍵屋くんは季節について描くのが好きなの?」

 私の素朴な疑問に、コピー紙から顔を上げた鍵屋くんは眉を下げた。それは肯定の笑顔に見えるけど――困っている笑顔でもあった。毎日愛想笑いを繰り返す私にとってはそれは既視感がある。本音を隠すための笑顔だ。

「そう。てかまあ季節って定番じゃん」
「あーそうだね。色々思いつきやすいかも」

 彼の隠された感情はスルーして、表面の言葉だけを受け止めておく。

「四季の移り変わりを描くのもいいかもね。でも一万文字でそれは難しいかなぁ」
「難しそうだなー」
「それなら季節を絞っちゃった方が楽かも。keyの投稿のこの夏の詩も素敵だし、夏は青春小説でも人気じゃない? 春は切ないし――鍵屋くんは好きな季節ってある?」

 私はスマホを鍵屋くんの目の前に移動させる。鍵屋くんはじっと視線を落として自分の投稿を見た後に「秋にする」と宣言した。

「俺、秋が一番好きだし。それに今の季節の方が描きやすそう」
「確かに」

 描きやすそう、という相変わらずの理由だが時間もないし反対する必要もない。決めきってしまったほうがいいだろう。

「次は秋に限定してワードを考えてみる宿題にする?」

 私の提案に鍵屋くんは少し考えてから「いや、やめとく」と首を振った。

「それよりも秋、探しにいかない?」
「秋を探す?」
「そう。家でじっと考えてても無理そうだから。せっかく今秋だし題材探しにいかない?」

 なるほど。家でじっと考える型の私と違って、鍵屋くんは感覚派でその場で見たものをぱっと取り入れる天才系なのかもしれない。それなら宿題では何も思いつかないのも頷ける。

「うん、行こう」

 何かを描くにはインプットも大事だとどこかで聞いたかもしれない。keyの150文字の作り方を知りたくなった私は即座に了承した。

「じゃ連絡先教えて」

 ごく自然に鍵屋くんはスマホを差し出した。男の子と連絡先の交換。少し戸惑いながら彼を見ると「今週の土日空いてる?」と追加で訊ねてくる。

 私のスマホに鍵屋くんの連絡先が加わって、今週の土曜日に鍵屋くんとの予定が出来た。

 ちょうど本を借りたい生徒がカウンターの前に訪れて、私たちの一度目の水曜日は終わりを迎えた。


 ・・

 帰宅するとちょうどお母さんの車が停まるところだった。車からお母さんとジャージ姿の悟がおりてくる。
 
「おかえり。ポストの物、取ってきてくれる?」

 お母さんは大きな荷物を車からおろしながら私に言った。泥だらけの悟が家に入ろうとするから「待って待って、その荷物は家に持ち込まないで! すぐにシャワーも浴びてよ!」と悟を追いかけていく。
 悟は有名な野球クラブチームに所属していて、週の半分はお母さんが送迎をして練習に行く。

 荷物で手一杯のお母さんの指示通り、ポストから郵送物を取り出す。すぐに捨てるDMたちに紛れてA4サイズの封筒。封筒に記されたロゴを見て――身体がほんの少しこわばる。
 なんとか息を吐いて家に入ると洗面所に向かった。

「何」
 洗面所にはジャージを脱ごうとしていた悟がいてぶっきらぼうな言葉と目線を投げられる。

「手洗うだけ。あとこれ届いてたよ」
「そ。早く出てって」

 悟は興味なさそうに封筒を眺めると、早く出て行けと視線でアピールする。
 私だって悟と長くいたくはない。さっさと洗面所を出るとダイニングテーブルにDMや封筒を置いた。封筒のロゴと差出人が再び目に飛び込んでくる。

 ――それは私が行きたくて行くことを許されなかった私立高校。そして悟が目指す高校だ。


 ・・

 土曜日、約束の時間の十分前。私は落ち着かない気持ちで何度もスマホを出したり引っ込めたりしている。何度時計を確認したって時間が短縮することはないのに。

「あれ、もう来てた」

 完全に油断していた私の前に影が出来た。

「お、おはよう」
「おはよ」
 
 今日は私たちの秋の題材探しの日。市で一番大型の公園がある駅で待ち合わせをしていた。

 男子と待ち合わせをして二人きりで出かけるなんて初めてのことだ。別に好意がある二人がデートをするわけではない。目標に向かって協力するだけのこと。だとしても落ち着かない気持ちにはなる。

「今日結構あったかいな」

 鍵屋くんは深いグリーンのシャツにブラックのパンツを合わせていてシンプルだけど、そのスタイルの良さもありとてもオシャレに見える。
 ……私は変じゃないだろうか。自分の服装を見下ろす。公園ならとデニムパンツにしたけど――いや、別にデートじゃないんだからなんだっていいはずだ。と思うけど、二人並んで歩くだけで気恥ずかしい。

「そういや今更だけど瀬戸って恋人いないよな?」
「え、うん!」

 恋人という響きにぴくりと肩が震える。
 
「それなら良かった。結構強引にお願いしちゃったから迷惑かけたらと思って」

 鍵屋くんの表情に気遣いの色が浮かぶから私は首を振った。

「私も題材探したかったし……てことは鍵屋くんも恋人はいないんだよね?」

 不誠実なことはしなさそうだけど一応確認しておく。創作の手伝いをして修羅場に巻き込まれるのは私も避けたい。誰かの恋人と二人で出かけるなんて周りになんと言われるか……想像するだけでぞっとする。鍵屋くんが頷くのを見て私はひとまず安心した。

「てか鍵屋くんってやめない? なんか痒くなる。みんな駆って呼んでるし駆にしてよ」
「名前……善処します」
「あはは、なんだそれ」

 私の返事に笑ってから鍵屋くん――じゃなくて駆は「雫」と呼んだ。突然呼ばれた名前にびくりとするけど

「瀬戸は雫、だったよな」と訊ねられて、それが呼びかけではなく確認だったと気づく。

「うん、瀬戸雫」
「カギヤカケルってめっちゃカ行だけど、セトシズクもまあまあサ行」
「ふふ、ほんとだ」
「公園ついた。行こ、雫」

 さらりと名前を呼ばれて次は胸が少しだけ震えた。

 ・・

 私たちが訪れた公園は市で一番大きな公園だ。
 図書館が併設されお洒落なカフェから茶室、子供用の遊び場から競技用グラウンドもあり、子供から大学生、お年寄りまで様々な人が訪れる。今日は天気もよく気候のいい時期だから公園はそれなりにたくさんの人がいた。
 公園は四季の花も見ることができて、季節をイメージするにはぴったりな場所ともいえる。
 今日の私たちの目的は〝秋探し〟。公園をブラブラ歩いて秋を見つけること。ひとまず私たちは公園を一周することにした。

「ここ鯉に餌やれるらしい」

 大きな池に差し掛かったところで駆は嬉しそうな声を出した。何組かの親子が池に向かって何かを投げている。
 駆が指さす方を見ると『鯉の餌 100円』と手書きの札があり、小さなガチャポンのような機械が置いてある。
 駆はためらいなく機械に百円を入れるとモナカが出てきた。モナカを割るとウサギのフンみたいな――多分鯉の餌が入っていて、半分を手渡してくれる。
 ……餌やり体験をするなんていつぶりだろう。小学校二年生の時に動物園に行ったのが最後かもしれない。その後、悟が野球のチームに入ってからは家族で出かけた覚えがないから。

「雫どうした?」
「ううん、なんでも!」

 楽しそうに鯉に餌をあげている家族連れの隣に私たちも並ぶ。近づいてみると思っていた以上に鯉がたくさんいて驚いた。
 離れた場所からは気づかなかったが、池の底の土色にまぎれて土色の鯉が何十匹もいる。五十匹、いやもっといるかもしれない。池の底に同化した彼らをすべて数え切ることはできない。
 
 駆が餌を投げると十匹程がなだれ込むように群がる。

「腹減ってんのかな」
「勢いすごいね」

 必死に口をパクパクさせて群がってくる様子は見ていて少し恐ろしくなるほどだ。

「赤いのもいるな」

 土色の鯉の中に三匹ほど目立つ鯉がいる。全身が赤に近い橙色の鯉と、白と赤が混じった鯉だ。私の中の〝鯉〟のイメージはこっちだった。

「あのおさかなさんにあげたいのー」

 隣から女の子の声が聞こえた。三歳くらいのその子は橙色や紅白の鯉に餌をあげたいらしい。
 だけど無数にいる土色の鯉が大量に押し寄せてきては餌を食べ尽くしてしまうらしく、なかなかお目当ての子に餌をあげられないようだ。

「ほら! 赤白の子きたよ!」

 お母さんであろう人が女の子に呼びかける。女の子は紅白の鯉に向かって餌を投げるけど子供の力では遠くには飛ばず、近くに群がっていた土色の鯉があっという間に食べてしまった。
 不機嫌になる女の子をお母さんが必死に慰めながら「次はオレンジの子が来たよ」と呼び掛ける。

 私の前に群がっているたくさんの土色の鯉は必死にパクパクと口を開けている。それに比べてあの美しい鯉は少し離れた場所を優雅に泳いでいる。生命感溢れる土色の恋に同情し、自分を重ねてしまう。こんなに頑張っているのに、皆が夢中になるのはあの美しい鯉なのだ。

 私はモナカを逆さにして、すべての餌を池に落とした。……全員に行き渡るといいな。

 ふと顔を上げると駆がこちらを見ていてはっとする。駆にもらった餌だったのに、それはあまりにも投げやりな動作だった。
 そう気づいたときには遅く、

「鯉苦手だった?」
 
 気遣い屋の駆がそう訊ねるのは至極当然だった。

「ご、ごめん。一気にあげちゃって。苦手じゃないんだけど……お腹空いてそうでかわいそうになっちゃって」

 根っこにある本当の理由は隠してみたけどそれっぽいことは言えたし、駆は「腹減ってそうだもんな、わかるわ」と共感してくれた。

「まだ餌やりしたいから次は私が買ってくるよ!」

 それだけ言うと私はガチャポンの元に走った。……私と駆は似ているところはある。だけど駆は橙色の鯉だ。皆を惹きつける明るい色をした男の子。

 ・・
 
 池を離れた私たちはガーデンに向かうことにした。園内はどこも緑が美しいけど、花が咲き誇るガーデンエリアがあるらしい。季節感を求めて公園に来た私たちは、四季の花からヒントを得ようと考えたのだ。

 広大な芝生広場を抜けながら、私は考えていたことを話すことにした。

「コンテストの応募作、もう結構集まってきてるからどんな作品があるか見てみたの」
「敵情視察てやつだ」
「それで気づいたことがあるんだけど、小説部門は大きく二つの傾向に分かれてた」

 駆が目を開き関心を寄せてくれていることに安堵して、私は話し始めた。

「短編小説として書く人たちと、150文字を連載している人たちに分かれる」
「……どういう意味? ちょっとよくわからん。小説部門なんだから小説を書くし、Letterは150文字までしか投稿できないよな。みんな150文字を連載してるんじゃ?」

 駆は正直に訊ねてきた。私もうまく説明できるかわからない微妙なニュアンスなのだ。
 小説部門は一万~三万文字の小説を募集している。だけど小説部門もLetterで150文字ずつ投稿する必要がある。小説部門のタグをつけて投稿し、日付順に読んで一つの小説にするのだ。
 
「Letterは150文字までしか投稿できないから、投稿の仕方は一緒なんだけど……なんというのかな。数万文字の小説をただ単に150文字に区切ってる人と、150文字ということに意味を持たせてる人がいると思うんだよね」
「……なるほど。なんとなくわかってきた」
「普段からLetterを利用している人だけじゃなくて、コンテストだから小説家を目指している人たちも多く応募しているみたいなの。そういう人は予め短編小説を書いて150文字に区切って投稿していると思う」

 Letter外のSNSやネットニュースを検索した結果、今回のコンテストはちょっとした話題になっていて普段Letterにいない人も呼びよせているらしい。

「でもきっと〝150文字〟〝Letterでの投稿〟ということに意味があると思うんだ。だって数万文字の小説を応募するのに、150文字に区切るのって投稿者はすごく面倒だし、審査する側も読むの大変じゃない?」
「すごい、絶対にそうだよ!」

 駆は興奮したように同意してくれる。
 
「私が憧れててすごいなと思うLetterの作家さんたちは後者で、150文字を連載してるの。150文字だけでも一つの作品としても成立しているし、続けて読めば一つの小説にもなる」

 私の言葉に駆は足を止めた。そして困った表情を浮かべる。

「それってかなり難易度が高くない?」
「そうかも。でもね、普段からLetterにいる私たちはそっちの方が得意だと思うんだよ。keyの投稿も素敵だったし。私も150文字なら協力できるかもしれない」
「……なるほど」

 駆は考えながらまた足を動かし始めた。先程までの興奮した様子は潜め、じっくり考えているから私は次の提案をすることにした。

「だからまずは150文字のお話をたくさん考えてみるのはどうかな? 主人公だけは固定して。それを最後に一つに繋げてみればお話になりそうじゃない?」
「確かに。一万文字は難しいけどそれならいけそうな気がしてきた」
「まあ150文字を七十個くらいは作らないといけないんだけどね」

 私が苦笑すると駆も同じ顔をした。
 
「だから設定を細かく練る前に、公園を見ながらいくつか作ってみようと思って」
「花見てたらなんか思いつきそうだもんな。難しいこと考えずに作るか!」

 駆は笑顔に戻り、私も提案を受け入れてもらえてほっとする。クラスで提案したりまとめたりすることはある、そういう役割を求められているから。だけど周りの空気を読み取るのではなく、自分の見解を伝えることは慣れていない。
 だけどLetterのことなら私でも積極的に意見ができるのかもしれない。

「俺にいろいろ協力してくれてるけど、雫はどうなの?」
「何が?」
「何がってコンテスト。小説書くの無理って言ってたけどこの方法なら雫も書けるんじゃね?」

 ……それは私も思った。最低一万文字の小説なんてとても無理だと思ったけど、この方法なら私も書けるかもしれない。

「でも今回はやめとこっかな。駆を手伝って自信が持てたら次回は応募するかも」
「次はないかもよ」
「そうだよねー、考えておくよ」

 私が濁すのを読み取ったのか駆はそれ以上言及するのをやめた。「あそこに見えるのがガーデンかな?」と話まで変えてくれる。空気を読んでくれる駆は私にとってありがたい存在だ。

 コンテストには応募したくない。Letterのコンテストなんて絶対に。
 ……だって選ばれなかったら。ここでも選ばれなかったら。
 Letterに受け入れられないことが、怖い。
 

 ・・

 玄関の扉を開けるまで今日の私は間違いなく幸福だった。

 秋の花を見てどのような言葉にするか、思いを巡らせるのはとても気分が良かった。
 今までの私のLetterは、偽物の感情を想像してピンクの恋心に変えていた。
 だけど目の前の景色をそのまま言葉にできる。それを美しいと思う心に偽りはなかったし、誰にさらけ出しても不快に思わせない言葉だ。
 
 駆の「家で考えるんじゃなくて探しに行こう」という作り方を体感し、keyの言葉はこうして生まれているのだと知った。
 神経質な私は結局その場で150文字をまとめることはできなかった。それは駆も同じらしく、公園ではインプットに留め、お互い帰宅して落ち着いた空間で文字にしたためることに決めた。

 今日はシンプルに楽しかった。いつもの何倍も喋ってしまったけどどうでもいい話をしなくてもよかった。

 だけどそのふんわり膨らんだ気持ちも扉を開けた瞬間、ぱちんと割れる。リビングの方から刺々しい声が聞こえたからだ。
 ……ああ、お父さんいるのか。今日朝から出かけてたはずなのにどうして。そんな私の疑問に答えるようにお母さんの尖った声が聞こえる。

「今日本当にゴルフだったわけ?」
「そう言った」
「どうだか」
「わけのわからんことを言うな」

 そうしてリビングは静かになる。きっとお父さんは会話をめんどくさがって書斎に向かったに違いない。
 私は靴を脱ぐか迷って音を立てないようにそっと家を出た。

 階段が廊下にあればいいのに。心のなかで愚痴る。
 我が家はリビングを通らないと二階にはいけない造りだ。今リビングを通ればきっとお母さんに捕まってしまう。

 ――楽しく満たされた身体をお父さんの愚痴で流されたくない。
 私は行く宛も意味もなく家の周りを歩いた。見るもの全てが輝いて見えた公園と違って、今目に入るものはすべてが灰色で重く見える。

【君がくれた金木犀を水に浮かべる。
 透明な水面に咲いたオレンジたちがゆらゆら揺れて私を照らす。
 一滴の墨汁が、水面に落ちる。
 揺れる、滲む、広がる、混ざる、染まる。
 一度広がった黒が優しい橙を消していく】

 ……初めて名前を知った花の柔らかな詩を書くつもりだったのに。
 私から出てきたのは黒い気持ちだった。嫌だ。こんな気持ちがどろりと現れることが。下書きボタンを強く押す。
 吐き出してみたのに、消えてくれない黒。

「シュウメイギク、タマスダレ、ツワブキ、パンパスグラス……」

 黒を消すように、呪文のように、今日初めて知った花の名前をつぶやく。消えて、消えて、私の黒い気持ち。オレンジ色の花を必死に思い浮かべる。咲いてよ、黒を覆い隠すくらい。


 ・・
 
「雫! おはよ!」
 
 教室に入り、香菜と目があった途端、彼女は転がるように私のもとにやってきて「報告があるの!」と弾んだ声を出した。
 
「なになにー? 嬉しそうだね」
 香菜が満面の笑みを浮かべるから私も明るさのギアを上げる。

「じ・つ・は! 彼氏ができましたー!」
「えーっ、ほんとー!? 例の彼?」
「正解っ! 昨日告白されたっ!」

 出来るだけ目と口を開いて大げさに反応して、香菜が飛び跳ねて抱きついてくるのを受け止める。
 そのうちそうなるかもしれない、と思って身体の中に用意していた反応だからすんなりと表に出てきた。
 香菜の相手は予想していた通り、先日ダブルデートをした友梨の彼氏の友人だった。友梨の彼と同じ大学の十九歳で三回目のデートで告白されたらしい。

 私たちが抱き合っているところに友梨も登校して、二人で冷やかすと香菜は顔を赤くしながらもくすぐったそうにしていた。
 素直に感情を口に出す香菜の言葉はどれも興味深い。
 私は恋をしたことがない。リアルなかわいいピンクの気持ちを頭にメモした。

  
【昨日と今日 君と私
 身体の成分は0.1グラムだって変わらないのに
「好きだから付き合って」
 たった10文字で、
 爪先から髪の毛1本まで作り変わったみたい
 昨日の君と私 今日は彼氏と彼女
 私を呼ぶ声の温度が10度変わる
 私、こんなにあたたかな名前なんだって初めて知った】

 
「昨日の投稿ちょっと雰囲気違ったね」

 駆はブレザーを脱ぎながら席について一番にそう言った。
 二回目の水曜日の図書館。
 太陽が最後に力を振り絞るこの時間はカウンターに西日が強く差し込み、十月とは思えない暑さになる。

「雰囲気?」
「clearさんの作品いつもほんのり暗くない? 俺はそこが好きなんだけど。昨日のは珍しく純度百%だったから。昨日のも好きだけど」

 自覚はなかったが、根の暗さが文章に溢れてしまっていたのかもしれないと苦笑いがこぼれる。

「昨日のは友達のことを書いたから自然と明るくなったかも」
「あー岡林? 嬉しそうだったもんなー」
「聞こえてた?」
「教室の入口で騒いでたらそりゃ誰でも」
「香菜は元気だよねー。香菜の話聞いてたら可愛くってお話にしちゃった」

 香菜の気持ちを想像して描いた話は、可愛くて明るい混じり気のないピンクになった。

「雫ってもしかして恋愛マスター?」

 唐突に駆は言った。恋愛マスター、私とはかけ離れた単語に面食らいおかしくなって吹き出してしまう。

「なんで? 全くそんなことないよ」
「clearさんっていろんなパターンの話投稿するから経験豊富なのかと」
「残念ながら全然。友達の恋話とかほとんど想像だよ。駆こそ経験豊富なんじゃない?」

 私が言うと駆は「まあそれなりに?」と笑った。
 私が彼と知り合ってからは半年だけど、二人くらいは彼女がいた気がするし誰かに告白されたという噂も回ってきていた。

「私は恋愛ってまだよくわからないから。clearは本当に想像ばっかりで実体験なんかないんだ」

 ……Letterの話を絡めると少し自分のことを喋りすぎちゃうな。何にも経験がないのに知った風に書いてるなんてバレるのは恥ずかしい。
 私よりよっぽど恋愛マスターな駆を見やるとなぜか「あー」と納得したように呟いた。

「俺も正直わからない。告白されたらその子のこといいなって思っちゃうんだよな。でもそれが恋かわからない」
「……それはちょっとわかるかもしれない。自分を選んでもらえるって嬉しいよね」

 告白されたこともないから想像でしかないけれど。
 私を選んでくれた。そのひとの彼女に、唯一の存在になれるなら。それが永遠でなくても、中身が伴わないとしても、彼女になりたいと思ってしまうかもしれない。

「まあそんな失礼な考えは見透かされてすぐ振られちゃうわけ」
「そっかあ。でも誰かに告白されるってだけですごいよ」
「俺、見た目だけはいいからな」
「自分で言うー?」

 駆はおどけて笑うから合わせて私は突っ込みを返す。
 ――駆は自分のことが、内面が、好きではないかもしれない。
 それは私と似ていて欲しいと思うただの願望かもしれないけれど。おどけた裏に隠されたものがちらりと見えた気がした。

「それでは宿題発表といきますか」

 私が仕切りなおすと駆はお母さんに叱られる子どものような顔をした。

「ごめん。実はあんまりうまくいかなかったんだ」

 シンプルな黒のリュックからファイルを取り出しその中から一枚の紙を引き出して私の前に置く。
 一つ目の宿題は、〝主人公と相手役、ストーリー全体の設定を決める〟だった。

「主人公はどこにでもいる男子高校生でクラスメイトの女子が好き。二人の距離が縮まっていく話にしようと思う」

『主人公――十六歳。高校生
 ヒロイン――十六歳。主人公のクラスメイト』

「うーん。……ちょっと情報が少ない、かも」

 一呼吸おいてから言った。
 指摘をするのは緊張するけど、前回決めたことから何も進歩がない。高校生でクラスメイトということは一回目の宿題で決まっていたし『二人の距離が縮まる』においてはどの恋愛小説にも当てはまることだ。
 
「だよなあ。でもやっぱ思いつかなくて」
「もう一つの宿題はどう?」

 二人で見た秋の花を題材にした150文字。
 小説の設定は思いつかなくても、150文字の方から考えていってもいいはずだ。そうしているうちに大枠のストーリーが生まれるかもしれない。

 「うん。でも……一つしか思い浮かばなかったんだ。これでも必死に考えたんだけど」

 駆はぼそりと言うとファイルから次の用紙を取り出した。

【オレンジの花が並んでいて、香りがした。
 君と花を眺める。君のことが好きだと思った】

 150文字というか五十文字にも満たない言葉。
 私は偉そうに批評できるほど文字が得意なわけではない。だけど……。

「シンプルだね」

 言葉を選んで口にすると駆は苦笑いをして

「正直に言っていいよ、全然ダメだって」
「ダメとは思わないけど……シンプルだからこそ全体的なストーリーを練らないといけないかもね」

 150文字を元に一緒に設定を練ろうかと思ったけど、今日これ以上を進めることは無理かもしれない。
 カウンターには明らかに気まずい空気が流れるから

「飾った言葉で詩的にしすぎるよりも、シンプルで伝えやすい方がいいこともあるし悪くはないと思うよ」
「ごめん、本当に思いつかなくて」

 いつも笑みを浮かべている駆が、こんなふうに目を落とす姿を初めて見た。
 駆の表情からしてたくさん考えてくれたのだとは思う。コピー紙には何度も消した跡だってある。
 ……どうしようか。このまま家に持ち帰っても多分同じ結果になってしまう。
 何か言わなくては、助言ができればと思うけど、私は素人なわけでどうアドバイスをしていいかもわからない。
 客観的に見て私たちが手詰まりなのは明らかだった。

「そうだ。あの花を見て私も何個か書いたんだよ。参考になるかわからないけどこれから何か思い浮かんだりするかも!」

 私はLetterのアプリから下書き一覧を開いた。
 公園で見た秋の花をもとにした恋の話が十ほど保存されている。見たままをストレートに表現したので自分の作品の中でもお気に入りになった。
 駆の小説にも使えるかもしれないと思って投稿はせずに下書き保存しておいたのだ。

 私のスマホを受け取った駆はじっくりと読み

「あーやっぱclearさんってすげー」

 そう言って駆は天井を見上げた。古い椅子がギィと揺れる。

「ほんとにすごいよ。こないだ見た花が今にも思い浮かぶもん。それを恋愛と絡めてて、すごい」
「褒めすぎだよ」
「いや、これはまじで。……あー俺ってやっぱり才能ないな。小説家になれるコンテストって聞いて飛びついたけどかなり甘かった」

 駆は先ほどまでの重苦しい感じはなくさっぱりとした口調で。
 なぜか胸騒ぎがする。駆からどこか諦めのようなものが香る。
 
「今スランプ……に陥ってる感じ?」
「違う。最初から才能がない」

 へらりと駆は笑った。――その笑顔の意味を私は知っている。

「でもkeyの投稿はどれも素敵で――」
「あれはkeyの作品だからだよ」

 ぴしゃりとした言葉が私と駆の間を区切った。
 あ、なんか。今扉を閉められたかも。
 駆は私に向き合うと真剣な面持ちに変わる。
 
「ごめん、雫。今まで雫のこと振り回して付き合わせて。……でも本当に申し訳ないんだけど、今回のコンテストに協力してって話ナシにしてくれない?」
「……な、」

 突然の終了宣言に戸惑う。
 なんで? あと二ヶ月この協力関係が続くと思っていた。
 だけど駆の瞳はなぜか傷ついて見えるから私は受け入れることしかできない。

「本当にごめん」
「ううん、大丈夫だよ」

 改めて謝罪されて彼は本気なのだと知る。
 どうして? 本当は理由を聞きたい。
 だけど……聞けない。その理由は踏み込んでもいいのか、決して立ち入られたくない場所なのか。その判断がつかない。
 何の理由もなしにこんな依頼を駆が持ちかけるわけもなく、「やめる」というならそれも何か理由がある。それで充分だ、問いただしても仕方ないんだから。
 
「でも雫はコンテストに出した方がいいよ。この秋の話すごくいい。小説部門じゃなくてもLetter部門で――」

 私と似ている笑顔を貼り付けたまま駆はスマホに目を落として――突然、表情が変わった。
 先ほどまでの笑みが消え失せて黙り込み、しばらくじっとスマホを見ていた。彼の変化に驚いていると

「clearさんって恋愛以外も書くんだ」
「え?」

 一瞬考え、すぐに思い当たった私は「待って! よ、読まないで!」と小さく悲鳴を上げた。

 恋愛以外の話。それは秋の花の話より前にある、たくさんの下書きのことに違いなかった。そこまで読み進められることを考えていなかった自分はバカか!
 後悔しても遅く、私が手を伸ばすと駆はスマホを胸に抱き

「なんで? 読みたい」
「お願い。それだめなやつだから。へたくそだし、それに」
「本音だから?」

 駆は私と同じで空気を読んでくれる同類じゃなかったの? こんな意地悪なことをするなんて――。
 そう思って駆の顔を見上げると、彼はひどく真剣な顔をしてこちらを見ていた。意地悪をされているわけではない。暴れていた心臓が冷えたように落ち着く。
 駆は私の手にスマホをそっと返した。そして表情と同じくらい真剣な声音で

「なんでこれ投稿しないの?」
「暗すぎるでしょ」
「俺は好き」
「……私は好きじゃないの」

 こんなことを考えてしまう自分が。
 表面では明るく笑顔を取り繕うくせに、内心は水色と灰色と黒ばかりな自分が。
 私のことが、私は好きじゃないの。
 ほら、またこうして表面に出した言葉以上に暗いことを考えてる。

「雫。この後すこし時間ある? 話したいことがある」

 いつも私は人のお願いを断れない。
 だけどこの駆の誘いを断れる人はきっといないんじゃないだろうか。
 駆の表情はなぜだか切羽詰まっているようで。見ていて泣きたくなるほどだったから。

「keyは俺じゃないんだ」

 ・・

 委員の仕事が終わり、群青色が溶けて紫のグラデーションがかかる頃。
 私たちは話し場所として駅に向かう途中にある小さな公園を選び、そこに続く道を歩いていた。

「秋といえば紅葉って思ったけど意外にまだ色ついてないよな」
「私も思った。調べたらもう少し後みたい」

 次は秋の花だけでなく紅葉を見に行くのもいいなと思っていた、小説の題材探しに。だけど私たちの小説作りはたった二週間で、今日で、終わりを迎える。
 
 それ以上お互い言葉はなかった。
 何か世間話をひねり出してもそれは上滑りするだけだと気づいていた。これから語られることが明らかになるまでこの空気は変わらない。

 だから公園にある木製のベンチに座ると駆はすぐに本題に入った。

「keyは俺の兄なんだ」

 温度の低い風が駆の髪の毛を撫でる。瞳にはまた諦めが浮かんでいた。

「お兄さんだったんだ」
「そう。だから雫が褒めてくれた描写は兄――啓祐(けいすけ)のもので俺は文章の才能はゼロ」

 駆はカバンの中から革の手帳を取り出してぱらぱらと捲ると、keyが投稿していた三作の文字が現れた。
 少し大人っぽいその手帳がお兄さんのものだと知る。
 
「啓祐は小説家なんだ。鍵 音太郎(かぎ おんたろう) って知ってる?」
「ご、ごめん。私小説あんまり読むわけじゃないから」
「はは、ごめん。知らなくて当然だよ。鍵 音太郎は存在しない作家だから」
「えっ?」

 駆の言う意味を咀嚼してみるけどよくわからない。
 駆の顔からはいつもの朗らかさは完全に消えていて秋と夕方の色が差し込んでいる。

「啓祐は俺より四歳上で二年前に事故で死んだ」
「…………」
「啓祐は死ぬ数ヶ月前に小説の新人賞に選ばれた。それなりに有名な賞だったみたいで、現役高校生作家!とかいって華々しくデビューするはずだった」

 〝存在しない作家〟の意味がわかり、唇も喉も固まり声が出ない。

「賞を取ったってそのまま本が出せるわけじゃないらしい。特に啓祐の作品はアイデアが評価されてたけど、文章とか構成は粗だらけだったみたいで大幅に変更が必要だった。啓祐の担当って人が何度か家に来てくれて両親と話し合って――どういう経緯があったかはわからないけどとにかく啓祐の小説が世に出ることはなくなった」

 駆は淡々と話した。なんの感情も浮かべずに淡々と。

「出版社の人がこれじゃダメって言ったの?」
「どうだろ? 俺は詳しくは知らない。両親と出版社で話し合って何かがうまくいかなくて結果的に本は出なかった。それしかわからない」
「そっか」
「親はあの日から魂が抜けてる。啓祐が死んでからはまだ気丈に振る舞ってたんだよ。だけど半年経って正式に小説が出ないと決まった日にぷつん、と」
「…………」

 想像だけではすべて理解はできない。
 それでも想像だけでも胸が締め付けられる。当事者ならどれほどの痛みだったのだろうか。

「あの日から俺の家は死んだまま」

 それは少し想像がつく気がした。我が家は悟がいなくなったらその日に死ぬのだろう。

「Letterのコンテストの告知を見て、これなら俺もできるんじゃ?て正直思った。小説は読まないけどLetterはいつも見てたし。そしたら雫がclearさんって知って、これはもうやるしかないだろって。……啓祐になれるわけなんてないのに」

 先ほどまで表情を変えなかった駆が少しだけ眉根を寄せた。
 駆の応募理由を知って。その気持ちだけは痛いくらいにわかって胸が紐で縛られたように悲鳴をあげた。
 
 きっとこういうときは「お兄さんにならなくても、駆は駆だよ。ご両親は駆のことも愛してくれてるよ」って言うのが正解なんだ。

 だけど何も言えなかった。だって私の家も同じだから。
 悟が死んでも私は代わりになれない。一番の席が空いたからって私はそこに座れない。ずっと空席が続くだけだ。
 
 だけど駆は空席に座ろうともがいた。

「でも本当に甘かった。やろうと思えばやる分だけ俺がダメだって思い知らされただけ。……俺の身勝手な事情に巻き込んで本当にごめん。もうわかったんだ、俺には無理だって」

 駆は苦し気に吐き出した。駆の言葉が私の中に入り込んで息をするのが難しい。
 彼は私と似ているのに――決定的に違う。

「……すごいな」

 同情でも共感でもなく、私から零れたのは感嘆だった。
 
「え? どこが?」 
「……私が駆ならコンテストに出すなんてきっとできない」
「下手すぎて?」

 駆が自分をバカにしたように薄く笑う。

「違う。私はコンテストに出すことが怖いから。自分はお兄さんみたいになれないって突きつけられちゃう気がして。だから挑戦しようとするだけて……本当にすごい」

 駆が本音を晒してくれた分だけ、私も自分の気持ちを少し明け渡す。

「でも俺才能ないってこの二週間でよくわかった。すごくない、これは考えなしのばかげた行動だった」

 駆が笑ってまた自分自身を否定する。
 それは私だった。彼は私と決定的に違う、だけど似ている。
 私はそんな駆を見ていられなくて

「一緒にコンテスト応募しようよ」

 自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。

「え?」

 聞き返す駆の瞳が、意味を確かめるように私を見ている。

「こないだ応募要項見直してたんだけど共作でもいいんだって。今までは駆を応援する、協力するだけの立場だったけど。一緒に作ってみようよ」
「共作っていっても俺に文才ないのわかっただろ。ただ雫が書くだけになるよ。俺と一緒にやる意味なんてない」
「……違う。秋の花のお話は、私には絶対書けなかった。駆が連れ出してくれなかったら書けない話だった」

 私の声は必死だった。子供みたいにムキになっている声だった。
 これは駆の中の一番柔らかい、触れられたくない場所だ。そこにずかずか踏み入ってしまっている。こんなことしてはいけない。

『勇気を出せたことがすごいよ、挑戦しただけですごい。傷つくのは嫌だよね、わかる。疲れたね、お疲れ様』そんな綺麗事を並べて笑顔で終わればいいだけだった。私たちはたった二週間、仲間になっただけのこと。
 
 そう思うのに、私は止められなかった。
 
「私、秋の花を書いたときに初めて偽りのない自分の感情を書けた。それに気づかせてくれたのは駆なの。だから一緒にやる意味はあるよ」

 駆は茫然と私を見ている。私だって自分の言葉に驚いている。

「一緒にやってみようよ」

 自分の言葉で誰かの行動を決めようとしている。こんなのありえない、横暴で私のエゴだ。 

 だけど……家の中で自分の頭の中だけで閉じこもっていた私に秋の花を教えてくれた。
 ろくに話したこともないクラスメイトに、ばかげたことだとわかっているのに依頼をしてくれた。
 彼が私と似ているなら、それは大きな意味を持つことだ。だから、私のエゴでも。諦めてほしくない。

「……わかった」

 駆はそう呟くと表情を和らげて……くつくつと笑う。まさか笑いだすと思っていなかったから面食らう。

「なんでそんなに必死になってくれるの、雫」

 駆の指が私の手をつついた。
 そこで初めて自分の固く握りしめた拳に気づき、肩の力を抜いて笑顔を作ってみる。顔がカチコチになってしまっていたからうまく笑えなかったけど。

「ご、ごめん。図々しかった……駆の気持ち全部はわかんないけど……私も優秀な弟がいるからちょっとだけわかる……から暴走しちゃった」

 少しだけ吐露すると駆は思い当たったように「なるほどね」と呟く。

「さっきclearさんの下書きにあった作品に、これ俺の気持ちか?ってのがあったんだけど……あれ雫の弟への感情か」
「どれ読んだかわからないけど、そうかも」
「わかった。応募しようコンテスト」

 駆は私に向き合ってはっきりと宣言した。私が頷くと白い歯を見せて笑う。

「それで相談がある」
 
 駆はお兄さんのものである革の手帳を開いて私に見せてくれる。
 作戦会議初日に見せてくれた「〇青春恋愛 テーマ→季節」というページだ。その次のページにkeyが投稿した三作がメモされている。
 
「多分これ次の作品のネタだったんだと思う」
「それで……」
「俺Letterのコンテスト告知を見た時は正直『親のために啓祐と同じ小説家になろう』っていう単純な気持ちだった。でもその後すぐに啓祐の話を出したいって思った、この世に。だからkeyとして投稿もした」
 
 手帳に走り書きされた小さなお話を改めて読む。角ばっていて細い字を指でなぞる。ここには確かに駆のお兄さんの文字が残ってる。

「だから……雫が協力してくれるなら、啓祐が残したこのテーマで書きたい」
「そうだったんだね」

 なぜこのテーマにしたのか? それを駆が答えられなかった理由もわかった。お兄さんが考えたテーマだからだ。

「それならこの三つの作品を、一万文字の中に、七十回投稿する中に、入れようよ。――これはLetterだからこそできることだと思うの。私たちは一万文字の短編小説を作るんじゃない。150文字の想いをたくさん重ねるの。その中にお兄さんの150文字も絶対入れようよ」

 熱っぽい声が出た。どうしてこんなに突き動かされてしまうのかわからない。こんなに熱く語るのは初めてかもしれない。
 駆も熱のこもった瞳を返してくれると、

「……うん。俺もそうしたい」

 それから私と同じようにお兄さんの文字を指でなぞった。

「小説の季節を秋に設定したのは、この三作を超えられる気がしなかったから。この作品に影響されてなぞってしまいそうだったから」
「うん、わかる……。でも私たちは、駆は、お兄さんの代わりの作品を作るわけじゃないもんね」
「そうだ! やっぱり四季の話にしたい。啓祐の三つの150文字をいれて四季の話にしたい」
「そうしよう。代わりじゃなくて、超える必要もない。三人の作品を作ろう」

 先程まで肌寒かった秋の風がぬるく感じる。
 私たちの物語はまたここから始まっていく。