蜜華亭の屋敷から宿場街まではそれほど遠くなく、寄り道さえしなければ夕刻前には戻れる距離だった。


 道中、驚いたような視線を受けることは度々あったが、美琴はなるべく無心になって、ただ黙々と歩くことだけに集中した。



 依頼主の店に着くと〈只今支度中〉との看板があり女将は留守だった。


 仕方なく店の使用人に品物を渡して言付けを頼み、美琴は店を出た。



 宿場街から大通りへ出てホッと息をつく。


 荷が軽くなったせいか、なんだか妙にスッキリした気分だった。


 行きは心に余裕がなくて気にもとめなかったのだが。

 見上げると冬の青空がとても美しい。


 その眩さに銀色が思い浮かぶ。


(霊獣は………紫珱さまはいつ帰ってくるのだろう)


 今頃 何してるのかな。もしかしたら、もう戻って来てたりして⁉


 ───でも。

 まだやっぱり緊張するし、怖いな……。


 心に冷たい雫が落ちてくるような感覚に戸惑う。


 帰りも歩くことだけに集中していよう!

 ……あ、でも。

 時間もまだあるから、買い物でもしていこうかな。


 街の衣服屋の中でもお気に入りの一軒は、服の他に可愛らしい小物や履物なども売っている店だった。


 ここへは穂奈美さまも連れて来てあげよう!


 そんなことを考えながら、店内で久しぶりの目の保養に心を弾ませていたそのとき、



「美琴さん?」


 背後から控えめな聴き覚えのある声がした。


 振り向くと黒髪に細い眼鏡の男が立っていた。


「鷹也さん……!」



 あの日、霊獣の『選ばれし者』となった日に会う約束を交わしていた見合い相手が、柔和な笑みを向けて立っていた。


「美琴さんと、こんなところで会うなんて。なんだかちょっと照れますね。僕の方がここでは場違いかな」


 店内は女性客が多く男性の鷹也は確かに目立っていた。


「あの、先日は申し訳ありませんでした」


 困惑しながら謝る美琴を優しげな眼差しでみつめながら鷹也は言った。


「よかったら、少し話しませんか? ここの二階、茶房を開店したんですよ。実はちょうど美琴さんに渡したい物があるんです」


 店内で目立つのは鷹也だけでなく、どうやら美琴も同様のようで。

 度々感じる周りからの視線が気になった。


「はい……」


 美琴は鷹也に促されるまま二階へと移動した。


 ♢♢♢


 二階の茶房は個室の造りになっていた。

 白い紗の帳で仕切られた小部屋には洒落た卓と椅子が置かれ、小窓から差す陽光が程良く室内を照らして雰囲気の良い店内だった。

 お茶と菓子を注文すると鷹也が優しく笑みながら言った。


「改めて、おめでとうございます美琴さん。あの日、体調が悪くなったと聞いたときは心配したけど。その後、幟が立って真相が判って。驚いたけど元気そうで良かった」


「あの日は……もうなんと言っていいのか……」


「噂でしか聞いたことがなかったけど、本当に髪や目の色が変わってしまうんだね」


「……はい」


「でも、それもよく似合ってますよ。───残念だけど……」


(え………?)


 残念、とはどういう意味だろう。


 話し下手な美琴が訊けるわけもなく。


 注文した菓子とお茶が運ばれ、会話は中断された。


「なかなか美味しいと評判ですよ、ここの『柚子風味羊羹』は。いい意味で蜜華亭の商売敵ですね」


「え、そうなんですか。わたし、ここは初めてで」


 鷹也に勧められるまま注文した柚子風味羊羹を美琴は口に運んだ。


「……わ、ほんとに美味しいですね。甘いけどさっぱりしてる」


 それはおもわず笑みがこぼれるほど美味しい羊羹だった。


 そんな美琴を笑顔でみつめながら鷹也は言った。


「どちらへ嫁がれるのですか?」


「西の晶珂です」


「そうですか、そんなに遠くへ。でもここで会えて良かった。───美琴さん、これを受け取ってもらえませんか」


 鷹也は手提げの中から純白の包装紙に品良く包まれた小振りの四角い品物を取り出すと、美琴の目の前に置いた。


「実はさっきこれを下の店で買って。今日、あなたへ届けようと思っていたんです」


「何ですか?」


「輿入れする美琴さんへ、祝いの品です」


「そんな……。頂けません」


 慌てて包みを返そうとする美琴の手を鷹也は制した。


「記念だと思って貰ってください。僕の中で、あの日からなぜかずっと燻っていた気持ちがあって。これはやはりもう一度、あなたに直接会ってお別れを言うべきだなと思いました。そしたら……後悔せずに気持ちも吹っ切れると、そう思ったので」


「わたし……。わたしもあの日会えなかったこと、気になっていたのは同じです」


 鷹也と会う約束の日を楽しみにしていた気持ちがあったことは嘘ではない。


 あの日、霊獣と出逢うまでは。


「だったら、やはり受け取ってください。美琴さんと結ばれる縁はなかったけれど、ここでこうして最後に会えたのもまた御縁ですから」


 美琴を見つめる鷹也の眼差しは、見合いの席での出逢いからずっと変わらない優しいものだった。


 断ることに罪悪感を感じるほどに。


「わかりました。……頂きます。ありがとうございます」


「じゃあ僕はもう行きます。支払いは僕が済ませますから、美琴さんはゆっくりどうぞ」


 鷹也は立ち上がり紗の帳に手をかけた。


「さようなら、美琴さん。会えて本当に良かったです。……幸せでいてくださいね」


 陽光を受けた彼の背が眩しく霞む。


「ありがとう、鷹也さん。……さようなら」


 ゆっくりと、だが振り向くことなく鷹也は小部屋を出て行った。


 ♢♢♢


(何だろう、これ)


 鷹也が去ってから、美琴は包みを開けた。


「綺麗……」


 白い小箱の中には、手のひらほどの大きさの丸い手鏡が入っていた。


 鏡面の裏に牡丹の花を模した螺鈿細工が美しい。


 手鏡を覗き、おでこの辺りでくるりとはねた髪を美琴は手で撫でた。


 自分の顔を間近にし、美琴は溜め息がでそうになるのをぐっとこらえた。


(いい加減慣れないと)


 美琴は改めて自分の瞳を直視する。


 藤色にほんのり青みがかった不思議な色。


 そしてその中心には紫珱と同じ金色が添えられている。


「あれ……」


 瞬いて、少し違和感を覚えて目をこする。


 痒みのような痛みのような感覚が、一瞬起こった。


 疲れたのかな……。


 美琴は手鏡を箱へ仕舞い店を出ることにした。



 寄り道をしたせいで時間は夕刻を過ぎていた。


 急ぎ足で店の裏口から自宅へ通じる小道へ入ろうとしたとき。

 視界の隅の石畳み近く、花壇の横に見慣れない少年が立っていた。

 浅葱色の装束に身を包んだ姿は十四、五才に見える。

 柔らかそうな濃い茶色の髪。

 そして闇色の目がこちらを向いていた。


「紫珱さまの使い、ラセツと申します」


 少年は一礼して言った。


(彼が穂奈美さまの言っていた精霊なの?)


 驚く美琴に然して構うこともなく、ラセツは淡々と言った。


「明日の昼前に紫珱さまが戻られるそうです」


 それだけ言って、ラセツは消えた。


「明日、帰ってくる……」


 ───こっ、心の準備しておかないと!


 美琴は慌てて家に戻った。


 ♢♢♢



「そうですか、紫珱さまがお戻りに。良かったですね、美琴さま」


 今夜は穂奈美を家に招き一緒に食事をとった後、そのまま食後のお茶の時間となった。

 もっぱら、穂奈美はお茶ではなく果実酒だったが。


「それにしても……。今日は頑張りましたね、美琴さま」


「?」


 何のことでしょう。と視線で訴える美琴に、穂奈美は言った。


「縁証印が現れてから外出するの、初めてでしょう? それもお一人で。美琴さまは心がお強いのですね。私なんて、ひと月も引きこもりましたもの」


「そんなことないです。わたし……いろんなことに自信がなくて。わたしのような者が、貴族とか……務まるかとか、よく判っていないことも多いし……。不安でいっぱいなんです。それに紫珱さまのこと、まだ怖くて」


「紫珱さまもまだ半人前。子供っぽいところ、たくさんあるんじゃないかしら」


「あの、穂奈美さま。霊獣さんたちは皆さん甘党ですか?」


 美琴の唐突な質問に、穂奈美は一瞬間を置いたがすぐに笑って答えた。


「皆ではありませんよ。うちの紅嵐なんて甘いの苦手ですし。でも紫珱さまは甘いものが好きだと聞いたことがあります。美琴さまはお菓子作りがお上手だって女将さんから聞きましたよ。何か作ってさしあげたらきっと喜びますわ」


「そうでしょうか……」


「ええ、もっと自信をもってもいいと思います。美琴さまは私より落ち着いてて、とてもしっかり屋さんですわ」


 穂奈美は うふふ と笑った。


「私ったら、なんだか酔ってきたみたい。リンに叱られないうちに、そろそろ退散しますね。───おやすみなさい、美琴さま」


「おやすみなさい」


(穂奈美さまに、もう少し聞いてみたかったな、紫珱さまのこと)


 そう思いながらも美琴はその晩、早めの就寝を決めた。