遥かな昔から、霊獣は地上を守護する善獣だった。
光、風、水という三つの力を持つ霊獣たちは禍闇に潜んでは地上に現れて人間を襲う妖魔を狩り、民と大地を護っていた。
けれど人間と言葉を交わせない霊獣たちを人は妖魔と同様ひどく怖れた。
怖れや恐怖など〈心の禍闇〉も妖魔の糧になるものだった。
人間が霊獣に抱く負の想いを払拭しようと、霊獣たちはある決断をする。
純粋な言霊を持つ人間の娘を選び、魂を通わせ、契りを結ぶことで彼等の言霊を得、その代わりに『選ばれし者』には妖魔を祓う霊力を分け与えた。
「貴族の中でも霊獣と人の姿という両方を保てるほどの霊力を持つ一族は、この彩陽国を統治している皇家の直系となります。もちろん、紫珱さまも。でも霊獣は選定の儀式を行うようになってからは太古の頃とは違って、産まれたときから霊獣の姿ではなくなりました。彼等は人間の姿で産まれ、その姿を主体として育ち十一歳になったときに一度、人間の姿は封じられ霊獣の姿を主体として生活するのだそうです。霊獣の声に応えた選定者と出逢うまで」
「人の姿で産まれてからの言葉はどうなっているのです?」
「もちろん親兄弟、貴族間では交わせますが貴族以外の人間との会話はできません。……傍系の、霊獣への変幻力を持たない貴族もいますが。彼等は人に近いせいか選定の儀式など必要なく、人間と喋れる者が多いです」
「なぜ子供のときに人間の姿を封じられるのですか?」
「まだ幼い時期の器では強力な霊力に馴染むことができないことが一つと、霊獣の身体に慣れさせることも理由の一つだと聞いてます。ただ、人の姿を封じたときに、霊力も半減するそうなんです。特に人へと変わる変幻の力が弱まるらしくて」
「それって……。人の姿になったときの紫珱さまの身体が、あまり鮮明に視えないことと関係がありますか?」
美琴が不思議に思っていたことを口にすると穂奈美は頷いた。
「今の紫珱さまはまだ半人前の半霊獣、と言ったところでしょうか。ようやく美琴さまという選定者を見出だし 言霊を交わせたばかりでしょう。人としての言霊を修得し、変幻の力や封じられて半減された霊力が戻ることこそが〈真の目覚め〉なのです。そしてその目覚めに繋がるお手伝いができるのは伴侶として選ばれた『朱の葩印』を持つ者だけなのです」
(お手伝い?)
「それはどんなことをするのです?」
「───え、えっと。それなんですけど……」
穂奈美の視線がなぜか落ち着きなく彷徨う。
「まずは霊獣の言霊修得についてですが。これはなるべく美琴さまから積極的に紫珱さまに触れてもらわないと」
「触れる……?」
「ええ、純粋に。紫珱さまが人の姿のときでも霊獣のときでもいいです。でもただ闇雲に触っただけではダメですよ。気持ちが大切です。相手を心から敬い慕う気持ちが伴わなければ言霊はなかなか伝わりません。……でもこんなこと急に言われても困りますよね……」
顔を赤く染めながら、こくこくと頷く美琴に穂奈美も苦笑いで頷いた。
「出逢ったばかりで、そんな簡単に想いを霊獣に向けることなんてできませんよね。私もそうでした」
……触れる、なんて。
あのモフモフしている銀の毛並みに触ってみたいという思いはあるけれど。
柔らかいのか硬いのか。……いいえきっと、あれは絶対に柔らかいような気がする!
────なんて。
そんな興味本位の想いでいたら言霊は伝わらないのだろう。
「こればかりは気持ちの問題ですから、あれこれ考えても仕方がありません。少しずつお互いを理解して心を近付けていけたなら、きっと自然に上手くいくはずですわ。そうしたら、次は紫珱さまが積極的に……」
「え、次とは? 積極的って?」
「───それは………ですね。ある程度言霊を修得したら、次に封じられて半減している霊力を戻さなければなりません。それには葩印の力が必要なんです。……あの、美琴さま」
なぜか穂奈美の声音が小さくなった。
「葩印のことなんですけど。あれはとても大切なものです。夫である霊獣以外が触れてはならない神聖な場所です。真の目覚めを促す要因として、美琴さまの葩印に紫珱さまが触れればいいだけのことなのですが」
美琴は自身の左の首筋からほんの少し後ろに現れた縁証印に手を当てた。
「触れるって、言霊修得と同じように純粋な想いでってことですよね?」
「ええまあ。でも手ではなくて息を込めるというものなので」
「い、き?」
「はい。俗に言う口づけ。接吻ですね」
返す言葉もなく硬直する美琴に、穂奈美は照れたような困ったような表情で話を続けた。
「息には「イ」と「キ」、そして「生きる」という意味の言霊が含まれます。触れる側もそんな気持ちや想いを伴って触れることが大切なのです」
そ……そんなこと言われても!
美琴の中にはまだ霊獣に対する恐怖心がかなりあった。
それはそのまま人の姿になったときの紫珱に対する感情へと繋がっている。
「あの……その葩印の効果はすぐに出るのですか? 触れるのは一度だけでいいとか?」
美琴の言葉に穂奈美は首を振った。
「触れたからと言って半減している霊力が一度に全部戻るわけでもなくて。霊獣それぞれ違うみたいです。うちの紅嵐の場合は三ヶ月くらいかかって。結構早い方だと言われましたけど」
「……そうですか」
赤くなったり青ざめたりしている美琴に、穂奈美は気遣うように声をかけた。
「大丈夫ですよ。お二人の気持ちが通じ合ってからでいいんです。紫珱さまは思慮深い方です。焦らせたり、急かしたり、美琴さまを困らせることはしないと思いますよ」
美琴は返す言葉もなく、すっかり冷めてしまった湯呑みに口を付けた。
「───穂奈美さま、よろしいですか?」
家の外から控えめに戸を叩く音と聞きなれない声がした。
「リン、どうかした?」
「女将さんから休憩時間をもらいました。それからお二人にお茶菓子を持っていくようにと」
「あら、嬉しい。お入りなさい」
中に入って来たのは穂奈美と一緒に雲蛇に乗って来た童女だった。
歳は十二才くらい。顎の辺りで切り揃えられた濃い茶色の髪と黒い瞳。
間近で見るととても可愛らしい少女だった。
「まあ、お団子!美味しそうだわ〜」
「私も先程いただきました。とても美味しかったです」
「それは良かったわね。美琴さま、紹介しますね。この子はリン。私が使役している風の精霊です」
「せ、精霊⁉ 使役って……」
「私が選ばれし者となったときに、夫から授かった霊力の一つです。美琴さまもそのうち使えるようになりますよ。たぶん、まだ霊力が身体に馴染んでいないと思いますけど。昨日まで体調が悪かったのはそのせいです」
「わたしにそんな力が?」
「霊獣があなたから言霊を得る代わりに、あなたに授けた霊力があるんですよ。紫珱さまが帰ってらしたら、また詳しく聞いてみてくださいね」
「よろしくお願いします、美琴さま」
リンがにっこりと笑って会釈した。
「あ、はい。よろしくお願いします。でも精霊って、こんなふうに普通の人間と変わらなく見えるものなのですか?」
「いいえ。全ての精霊が人の姿を保てるわけではないのです。貴族の〈使い〉として働き人間界の中に紛れるほどの霊力がある精霊は限られています。その種類は様々ですけど、美琴さまも早くご自分の〈使い〉が得られるといいですわね。とても役に立ってくれて助かります」
「穂奈美さま、戻ってもいいですか?」
リンがそわそわしながら穂奈美に聞いた。
「いいけど、どうかしたの?」
「裏庭にラセツがいました」
「あら、そう。行くのはいいけど、ラセツくんのお仕事の邪魔したらダメよ?」
「はぁ〜い、行ってきま〜す」
リンは何やら楽しそうに部屋を出て行った。
「あの、ラセツくん、とは?」
聞き覚えのない名前に美琴が訊くと、
「紫珱さまの使い───精霊ですよ。リンとは昔からの友達のようです」
「使い」に「精霊」。そして霊力のこと。
その他にもいろいろな事を頭に詰め込み過ぎてなんだか目眩がしそうだが、用意されたお団子を穂奈美に勧め、美琴はお茶を淹れ直した。
そしてしばらくは二人でお団子を堪能し、やがて香茶で一息ついた穂奈美が開口する。
「美琴さまの輿入れはなるべく早い方が良いと思いますけど、こんな時期ですから暮れよりは年明け……やはり新年を迎えてからでしょうかね。紫珱さまが戻られたら私は凉珪へ帰りますが、リンは美琴さまの輿入れまでお店のお手伝いも兼ねて、お世話係として置いていきますわ」
「いいのですか?」
「私共々しばらくお隣に御厄介になることも含めて女将の真紀乃さまには承諾済みです。美琴さまは輿入れまで少しでもゆっくりなさってくださいね。晶珂へ嫁いだらなにかと忙しくなりますから。今のうちだけですわよ、お嫁さんの休暇は」
「でもわたし、輿入れまでにどんな準備をしたらいいのか……」
「準備は特に何も。家具や調度品は向こうのお屋敷に備わってますから。衣類と、あとはどうしても愛着があって持って行きたいというものがあったら遠慮なく言ってください。それでは、そろそろ私はこれで。今日はこの後、東の都へ行って羽矢斗さまに謁見しなければいけませんの」
羽矢斗。
黎彩から東方の都、そしてこの沙英の街を含む領地を治める貴族。
会ったこともない霊獣の名前だった。
「ではまた後で、美琴さま」
優雅に微笑み会釈して、穂奈美は美琴の家を後にした。