───美琴はとうとう旅立ちの日を迎えた。


 霊獣の花嫁として沙英の街を離れる日の朝。


 街は前夜に降った雪で白色に覆われていたが、朝陽に包まれると街中が白銀の光を放っていた。

 冷え込んだが、溢れるような色彩はとても美しい景色となり、銀霊獣とその花嫁に相応しく輝かしい門出だと街人たちは言った。



「美琴ちゃん、とっっても綺麗! 本当におめでとう」


 美琴の家の一室で、花嫁衣装に身を包んだ美琴を前に、蜜華亭の従業員の一人である瑠香が瞳を潤ませながら言った。


「瑠香さん。今日は朝早くから支度を手伝ってくれてありがとう」


 瑠香は美琴の髪をとても素敵に結ってくれた。

 この日、美琴は瑠香に髪を結ってもらおうと心に決めていた。

「私こそ、ありがとう美琴ちゃん。あのお見合いの日、美琴ちゃんの髪を結う約束をしてたのにできなくて。でもようやくこうして、それも花嫁さんの髪結いを任せてもらえるなんて。私、とっても嬉しかった」


「私も、こんなに素敵に結ってもらって。髪飾りまで皆から頂いて。とても……とても幸せです」


 美しく編み込み結い上げた蜂蜜色の髪には、淡い薄紫の小さな珠が房型となり、藤の花を模したような飾り細工の美しい簪をさしていた。

 これは蜜華亭の従業員たちが、ご祝儀を出し合って美琴に贈られた品だった。


「ほんとうによく似合ってるね。花嫁衣装もその簪も」


 蜜華亭の女将、真紀乃が目を細めて言った。

 真紀乃と穂奈美が美琴に内緒で仕立ててくれた花嫁衣裳は、銀箔糸と金箔糸が織り込まれた白絹生地で、上衣は淡い桜色をした紗の薄絹領巾を上から羽織る意匠となっていた。この領巾(ひれ)には銀糸で所々に小さな花びらのような刺繍が施されて、美琴が動くたびにふわりと、まるで花びらが舞うように見えた。

 腰から裳裾の下衣は金糸と銀糸で大輪の花模様の刺繍が繊細に施され、眩さのある豪華な衣裳となっていた。

 そしてそれに合うようにと真紀乃が贈ってくれた翡翠色の靴も素敵な意匠で、甲にあたる部分に可愛らしい硝子の珠飾りが付いていて、歩いて揺れる度にキラキラと輝くものだった。

「こんなに綺麗な花嫁衣裳、私にはもったいない気がして……」

 だけど、涙がでるほど嬉しい。

 言葉を詰まらせる美琴に真紀乃が言った。

「なに言ってるの。貴族に嫁ぐんだ、胸を張りな。もっと豪華にしてあげたかったけど。なにせ急なことだったから。だけどね、この衣裳の刺繍はね、無地の生地に特別に注文して模様を刺してもらったんだよ。間に合ってよかったわ」


「女将さん……。ありがとうございます」


「まったくもう、お礼なんて何度言うんだい。もう泣いちゃだめだよ。せっかくの化粧がとれちまう」


「そうそう、笑って。美琴ちゃん、幸せにね」


「さあさあ、そろそろ外へ出ないとね」


 真紀乃の言葉に、傍らに従えていたリンが頷いて言った。

「紫珱さま、きっと待ちくたびれてますよ」

 美琴の支度が済むまで、紫珱は朝早くから真紀乃の屋敷で待たされていたのだ。

 少し前にリンが呼びに行ったので、今は外で待っているはずだ。

「リンちゃんも今日までありがとう」


 美琴に続いて真紀乃と瑠香もリンに声をかけた。


「本当によく働いてくれたね、ありがとう」


「リンちゃん、ご苦労さま。二人がいなくなっちゃうと、やっぱり寂しいわぁ」


 瑠香がそっと涙を拭いた。


「いつでも遊びにおいでね。美琴も、落ち着いたらまた顔を見せておくれ。幸せになるんだよ」


「───はい」

 美琴は力強く頷くと、リンが差し出した手を取って靴を履く。

 瑠香が玄関の戸を開けると、わぁという歓声が響いて、眩しい光が差し込んだ。

 沿道には近所の者たち以外にも、霊獣の花嫁をひとめ見ようと大勢の街人たちが集まっているようだ。

 美琴はゆっくりと家から外へ出て前を向く。


「美琴……。とても綺麗だ」


 目の前に、白銀の毛並みを輝かせた霊獣が美琴を見つめて言った。


 昨夜、美琴は霊獣の毛を優しく梳かしてあげた。

 お願いして梳かさせてもらった、と言うべきかもしれない。

 嫌がりはしなかったものの、はじめは困惑気味の紫珱だった。

 けれど美琴が優しく櫛で梳かすと気持ちがよくなったのか、整えが終わる頃には「悪くないからときどき頼む」とまで言うようになったのだ。

 その甲斐あって、今朝の毛並みはいつもより虹色の光沢が増し、艶々でふわふわで。尻尾はふっさふっさで。

 花嫁衣装でなければ飛び付きたいくらいだ。


「出発だ、美琴」

「はい」

 霊獣と美琴の足元に雲のような霞のようなものが湧き、白い乗り物〈雲蛇〉に変化した。

「そこに座って、俺の首まわりにしっかり掴まってろよ」

 見れば美琴の目の前にだけ、白くモコモコとした雲が座布団のように盛り上がっている。

 それはとても座り心地の良いものだった。


「行くぞ」

 霊獣の声と共に、身体がゆっくりと上昇する。

 周りから再び「わぁ!」と歓声が上がった。


 こちらを見上げる人々の姿が段々に離れ、小さくなっていく。


「───女将さん! ───皆さん!お元気で!」


 もう声は下まで届かないくらいの高さだったが。

 美琴は手を振り叫んでいた。


(……行ってきます!)


 住み慣れた家の屋根がどんどん小さくなっていく。

 家の管理は真紀乃に頼み、任せることにした。

 利用したい人がいれば貸してもいいと言ってある。


(さよなら………)

 私の故郷。


 沙英の生まれではないけれど、五つの頃からあの家で暮らして。

 辛いことや悲しいこともあったけれど。

 私は恵まれていた。

 親切で優しい人たちに囲まれて、これまで生きてこられた。

 だから私はとても幸せ者だ。

 感謝の想いが溢れてくる。

 これから始まる新しい生活、そして新しい景色を目にすることが、とても楽しみに思えた。


「───美琴、どうした?……悲しいのか?」


 涙する美琴に紫珱が心配そうに訊いた。


「ちがうの。紫珱さま。これは悲しくて泣いてるのじゃありません。私、嬉しいんです。これは『嬉し涙』と言って、嬉しいときにも涙は出るんですよ」


「そういう涙もあるのか」

 紫珱が驚いたように言った。

「……でも綺麗だ。それはとても美しい涙だな」


(───あ、いま紫珱さま笑った……?)


 霊獣の姿のときにはあまり表情というものが感じられないのだが。

 今このときの紫珱は美琴に向けて微笑みを浮かべたように見えた。


(うん、きっとそうだ)

 以前よりも確信できる。

 そんな霊獣の表情に気付けたことをとても嬉しく思いながら。

 花嫁は晴れやかな心で青空を見上げるのだった。



〈完〉