羽矢斗の屋敷を訪問したその後、紫珱と美琴は瑚湊の街を見物し、羽矢斗が美味しいからと勧めた店で昼食をとり帰宅した。

 その夜、夕飯時。紫珱は久しぶりに晩酌を楽しんでいた。

「羽矢斗も来年は父親になるのだな」

 感慨深げに紫珱は言った。

「出産は来年の初夏の頃だと言ってましたね」

「あの屋敷も賑やかになるだろうな」

「……あの、紫珱さま」

「なんだ?」

「紫珱さまも早く子供が欲しいですか?」

 改まった様子で言う美琴に少し驚きつつも、紫珱はゆっくりと答えた。

「べつに早くなくてもいいよ。早いとか遅いとか考えなくても。ただ俺はまだ美琴と二人きりを楽しみたいな。始まったばかりの生活をね」


 美琴は頷きながら恥ずかしそうに微笑んだ。

「あのな、美琴。羽矢斗とも相談したんだが、生まれつき異能のない貴族を『はじき者』なんて呼ぶことをやめるように提議しようと思うんだ。里子に出すことも含めて、子供にとって幸せな環境を与えてやれるように、貴族の間でもっと議論した方がいいと思うから」

「そうですね……」

 トウヤが辿った悲惨な運命を繰り返さないためにも。


「どのような産まれであっても、子供たちが不幸であってはならないと、私も思います」


「ああ、そうだな。───美琴、これおかわり」


 紫珱が空になった皿を指して言った。


「鰤大根ですね」


「うん。とても美味い。あとかぼちゃの煮付も美味い」


「いま持ってきますね。かぼちゃの煮付もまだありますから、たくさん食べてください」


 美琴は炊事場へ行き鰤大根を皿に盛り、再び紫珱の傍へ戻る。


「はい、どうぞ。お酒のおかわりはどうですか?まだありますか?……紫珱さま?」


「───ああ、酒はまだいいよ」


 返答が遅く、ぼんやりと何か考え込んでいる様子の紫珱が気になった。

 ほろ酔いという感じでもなさそうだ。いつもなら、この程度の酒量で紫珱が酔うことはない。


(紫珱さま、疲れているのかな)


 なんだか心配になり、じっと紫珱を見つめていると。


「美琴。……俺は莉乃に謝りたかったんだ」


 ぽつりと言ったその横顔は哀し気だった。

「過ぎてしまったことだが、考えてしまうんだ。俺は莉乃を不幸にしたと。俺が現れなければ莉乃はもっと違う生き方を……そしてもっと長生きしていたかもしれない。でも莉乃は謝るなと俺に言った……。トウヤと逝けて幸せだと……最後に言ったんだ」

 紫珱の中に残る悲しみや苦しみ。それらが全部、消えてなくなることはない。

 でも分かち合えたら、それは半分になる。

 紫珱から伝わる辛さや悔しさを、美琴はぜんぶ受け止めたかった。

 心からそう思うと涙が溢れた。


「───美琴、泣いてるのか……?なんでおまえが泣くんだ……」


「だって紫珱さまの心が泣いてて……。なのに紫珱さまは泣かないから。泣いていいのに、霊獣だって……悲しいときは泣いていいんですよ、紫珱さま」

 ぐすぐすと鼻をすすりながら美琴は言った。


「うん……。そうだな、霊獣は泣くことに慣れてない。代わりにおまえが泣いてくれるのだな、ありがとう。おまえが話を聞いてくれるだけで、なんだか苦しさが減るから不思議だ」

 紫珱の言葉が嬉しかった。

「分かち合うんです」


「わか……ち、あう?」


「辛いことを打ち明けたり、聞いてあげたり。二人で分け合えば半分になりますから、苦しさも悲しみも減りますよ」


「……そうか。美琴は凄いな」


「凄いなんて、そんなことないです。凄いのは莉乃さんです」


「莉乃が?」


「はい。莉乃さんって、すごいなぁと思いました。家族や大切な人を殺されても、妖魔に支配されていた彼を……トウヤを受け入れようとして。許していて……。私だったらきっと、トウヤを許せない……」


「莉乃はトウヤを救いたかったのだろう。心を浄化して受け入れて。そうやって救いたかったんだろうな。そんな莉乃の愛情がトウヤを気付かせた。人の心を思い出させたんだ。───でも……美琴。あれも愛というものなのか?トウヤが莉乃を想う気持ちにはどこか歪んだものもあったように思うが」


 美琴は上手く答えられそうになかったが、思う言葉をそのまま口にした。


「一方的で偏った愛は、ときに相手も自分も不幸にしてしまうことがあるのかもしれません」


「……難しいのだな。愛には歓びだけでなく哀しみも含まれるようだな」


「そうですね………」


「でも俺は美琴の持つ温かな愛が好きだ」

「私が持っている愛?」

「ああ、陽だまりのようなぬくもりを感じる愛情だ。美琴が喚んだ精霊の気配もそれとよく似ていた。精霊は主の性質を宿すからな」


「そうなんですか……。私、まだよく感じられなくて」


「それなら名を付けてやるといい」


「私が名前を?」


「美琴が喚んだ精霊だからな。主はおまえで名付け親になるんだぞ。名前を呼べば精霊も形を成せる。名前は真っ先に閃いて心に浮かんだものを名付けるといい」


「それなら……」


 美琴は決めた。


「日向。───ヒナタと名付けます」


 明るく暖かい意味のある言葉を選んだ。


「今ここへ呼んでごらん」


 紫珱の言葉に頷きながら、美琴は決めたばかりの名を呼ぶ。


「光の精霊、ヒナタ。……ここへ来て」


 しばらくすると、どこからともなく舞い降りたように、小さな光が現れた。

 そしてそれは美琴と紫珱の目の前で、ゆっくりと形を成していく。

 人のかたちに。

 柔らかそうな髪は胸の辺りまである薄茶色で、瞳の色は濃い灰色。背丈は美琴より少し低く、顔立ちもまだ幼い。けれど真っ直ぐに美琴を見つめる眼差しには意志の強さを感じた。

「美琴さま。素敵な名前をありがとうございます。未熟者ですが、これからよろしくお願いいたします」


 はにかむような微笑みと声の響きから、少年というより少女と言った方が似合うなと美琴は思った。


「こちらこそ、これからよろしくね、ヒナタ」


 ヒナタはにっこり微笑むと、その姿をまた光に戻し、クルクルと美琴の周りを浮遊してからすぅっと消えた。


「ヒナタはまだ美琴と同じで成長途中だ」

 紫珱が言った。

「美琴が雲蛇を扱えるようになったり、今より霊技を高められればヒナタもその分成長する」


「わかりました!私、頑張りますっ。ヒナタの成長のためにも!」


 美琴は両手で握りこぶしをつくり、ぐぐっと気合いを入れるような仕草で言った。

 それがとても可愛らしく見えて。紫珱はたまらなく愛おしい花嫁を見つめながら微笑む。


「美琴、酒のおかわりを頼む」


 紫珱が浮かべていた哀し気な表情はもう消えていた。


「はい、すぐに用意しますね」


 かぼちゃの煮付を嬉しそうに食べる紫珱の様子に美琴はホッとしながら立ち上がり、炊事場へと向かった。