東方地の中心となる彩都『芳珠(ホウジュ)』。


 東地を治めている守護霊獣、羽矢斗とその妻、紗由良が住む屋敷は芳珠で一番大きな街〈瑚湊〉にあった。

 場所は賑やかな市街地から少し距離をおいたところにあり、木立に囲まれた静寂閑雅な佇まいの邸だった。


「いらっしゃい、二人とも」


 雲蛇に乗って来た紫珱と美琴を羽矢斗が出迎えた。


 背が高く、顎のあたりで切りそろえられた真っ直ぐな銀色の髪がさらさらと揺れる。

 整った顔立ちの中にある瞳の色は美しい翡翠色。

 優し気な目元が笑うと更に穏やかさと優しさが際立って見える。それがとても好印象で安心感を覚えた。

 そしてそんなときの雰囲気は、やはり紫珱と似ているものがある。


「よく来てくれたね」

 羽矢斗が美琴を見つめて言った。


「は、はぃ。……ぁの、領主さま。ぉ、お初にお目にかかります、美琴と申します」


 緊張でカチコチになりながら頭を下げた美琴に、羽矢斗は優しく言った。


「領主さまなんて、堅苦しいから。これからは名前でね。親戚になったようなものだし。よろしく、美琴さん」


「……はい。あのこれよろしければ。私が働いていたお店のお菓子です」


「わぁ、ありがとう。いい香りがする、紗由良も喜ぶよ」


 美琴が差し出した包みを受け取りながら羽矢斗は言った。

「さあ、いつまでも玄関先じゃなんだから。中へどうぞ」


 促され、紫珱と美琴は屋敷の中へ入った。


「紗由良さんは留守なのか?」


 紫珱が訊いた。

 今日、美琴たちが来ることはラセツが昨日のうちに知らせてあるはずだった。

 返事も二人揃って楽しみにしている、というものだった。


「いや、居るよ。居るんだけどね、今朝から少し体調が悪くて。でも美琴さんに会うの楽しみにしていたから。───クラマ、ここへ」


 立ち止まった羽矢斗がこう言うと、廊下の奥から人が現れた。


 それはどこからともなく舞い降りたという感じがして、美琴は気付いた。

(このひと、精霊だ)

 焦げ茶色の短い髪に顔立ちは精悍さがあり、壮年の雰囲気のある男性だった。


「クラマ。美琴さんを紗由良がいる部屋まで案内してくれ」


 クラマと呼ばれた精霊は頷き、美琴たちに向くと腰を折る仕草をした。

「ご案内します」


「でも体調が悪いのなら、私は遠慮した方がいいのではないですか?」


 美琴は紫珱を見つめた。

 紫珱の意見を聞いてみたいと思った。

 そんな美琴の思いを察し、紫珱は羽矢斗に訊いた。


「紗由良さん風邪か? 腹でもこわしたとか? 休ませておいた方がいいのではないのか? 過保護過ぎるおまえのことだ、心配だろう。俺たちに気遣うこともない、しっかり休ませてやれよ」


「過保護なのはおまえも同じだろ。……うん、いや……。そういう病気とは違うんだ。本人もそれほど心配したこともないと言っていたし。とにかく本当に大丈夫だからさ」


 羽矢斗の言葉に紫珱は頷き、美琴に言った。

「行っておいで。俺は羽矢斗と話があるから」

「わかりました」

 美琴はクラマの案内に従うことにした。


 ♢♢♢

 紫珱と別れ、クラマの後から廊下を進む。

 幾度か廊下を曲がったが、片側壁には幾つもの窓硝子が嵌め込まれ、そこから陽射しが注がれているせいかとても明るく、そして冬でも温かく感じられた。

 窓の向こう側は中庭だろうか。時折、常緑樹の枝葉が見え隠れしている。


「こちらのお部屋でございます」


 クラマが引き戸の前で立ち止まり言った。そして戸口から中に向かって声をかけた。

「紗由良様、美琴様をお連れしました」

 少しして「どうぞ」と返事があり、クラマは戸を開け美琴を促した。


 美琴が入ると、広い部屋の奥に大きな窓があり中庭と思える風景が広がって見える。

 窓は閉じられているが、開ければ外に出られる作りになっているようだ。

 そして庭を眺めるのに丁度よい位置に革張りの長椅子があり、そこに腰かけていた女性が美琴に向いた。

 腰の辺りまである黒い艶髪に、美しい銀細工の耳飾り。

 見た瞬間ハッとして、そのあとすぐに溜め息がでるほど美しい顔立ちをした女性だった。

 くるりと大きな瞳は霊獣(羽矢斗)と同じ翡翠色だ。


「はじめまして、美琴様。羽矢斗の妻、紗由良です。座ったままでごめんなさいね。今日は朝から身体が怠くて。───どうぞ、美琴様もお座りになって」


 卓を挟みもう一方に置かれた長椅子を紗由良は美琴に勧めた。


「紗由良様、はじめまして。……あの、本当にお話していても大丈夫ですか?」


 長椅子に腰を下ろしつつ体調を気遣う美琴に紗由良は頷いた。


「大丈夫。これは病気とは違うから。あのね、これはね、お腹に赤ちゃんがいるせいなの」

「えっ」

「つわり、と言うものよ。調子がいいときもあれば、こんなふうに動くのが億劫だったり。でもそんな日はここで外の景色を眺めていると気持ちも紛れるから」


「そうでしたか。おめでとうございます、紗由良様」

「ありがとう。美琴様こそ、紫珱様の花嫁さんに選ばれたこと、おめでとうございます。妖魔が絡む事件に巻き込まれたと聞いて……。本当に無事でよかった」


「紗由良様」


 クラマが声をかけた。

「美琴様よりお菓子を頂いております。お茶と一緒にこちらへ運びますか?」


「あら、嬉しい。でもそうね、旦那様たちのお話が終わったら皆でお茶の時間にしましょう。お菓子はそのときに。旦那様に言っておいて、話が終わったようなら知らせてくれる?」


「かしこまりました。では私はこれで」


「ありがとう、クラマ」


 クラマが部屋を後にしてから、紗由良はしばらくじっと美琴を見つめ、そして言った。


「その髪の色、なんだか懐かしい」

「私の髪がですか?」

「ええ。私、羽矢斗さまの……霊獣の呼び声に応える前は美琴様のような髪の色をしていたの。蜂蜜色の髪、わりと気に入っていたのよ。でも、選定の儀式で選ばれし者となって、霊獣と縁を結んだ証という意味の〈縁証印〉を受けてから黒く染まったわ。瞳も藍色から翡翠色になった。美琴様も驚いたでしょ?」


「───はい。あの、私の以前の髪色は今の紗由良様と同じ黒色で。友達にも褒められる髪で……それは私の唯一の自慢でした」


「そうだったの。女性は髪や目の色が変わるだけで雰囲気も違ってくるから。この前、こちらに来ていた穂奈美様なんて、縁証印の現実を受け入れるのが大変だったそうよ。でも霊獣の花嫁に選ばれた者は皆、たくさん悩むことが多いから」


 美琴は頷いて言った。


「私も、どう接していいのか。貴族との関りはわからないことばかりで。とても不安でした」


「貴族なんて身勝手でわがままで。なのに……純粋で。人より強い力があるのに、人のように悩んでしまう弱さもある。霊獣はその呼び声に応えてくれる者がいなければ、出逢わなければ、愛という言霊さえ得られない。選ばれし者だけがその想いを伝えてあげられる。私たちにはそういう役目があるのだと思う。でもね……」


 紗由良は言葉を区切り、微笑する。


「そう思えるようになるまで時間がかかったわ。羽矢斗様に嫁いで五年が経つけど。選ばれし者は皆、霊獣の呼び声に応えてから運命が一変してしまう。その結果、諦めなくてはならないことがたくさんある。───でも得られるものも多い。私は……羽矢斗様からたくさんの勇気をもらった気がするの。信じる勇気をね。───でもね、だけどね」


 紗由良はほんの少し美琴の前に顔を近付けるような姿勢になり小声で言った。


「羽矢斗様って、ときどき子供みたいに拗ねるときがあって。私を困らせるんですよ」


「……ぁ、紫珱さまも子供みたいだなって思うときあります」


 なぜか声をひそめ、二人して内緒話をするような雰囲気になる。


「まあ、同じですね」

「はい、同じですね」

 美琴と紗由良は見つめ合って微笑んだ。


「なんだかホッとしました」

 美琴は言った。

「私だけじゃないんですね」


「ええ、それに一人じゃないですからね、これからは。穂奈美様から聞いてるとは思いますけど、美琴様も〈銀主連〉の仲間入りですから」

 以前、穂奈美は言っていた。〈銀主連〉という組織があり、それは『銀霊獣の主を夫に持つ会』という意味だと。


「皆で同じような悩みを分け合えますよ、励ましたり励まされたり。姉妹のような関係になりますからね」

 親族のいない美琴にとって、紗由良が言う『姉妹』という言葉は嬉しいものだった。

「旦那さまと喧嘩したときも、嫁仲間はみんな味方ですからね。愚痴を聞いてもらえるし。でも悩みや愚痴ばかりじゃなくて、旦那様の自慢話を言い合ったりもしますよ。美琴様の暮らしが落ち着いたら皆で集まる計画を立てると穂奈美様が言ってましたから」


「わぁ。とても楽しみです」


 笑顔になった美琴の反応に紗由良も微笑み、しばらくお喋りを楽しんでいるとクラマの声が入った。


「紗由良様、旦那様方のお話が済んだようです。お茶とお菓子の準備も整ってますが、お部屋はどうされますか? こちらへ運びますか?」


「客間へ移動するわ。美琴様は私が案内するから」


「かしこまりました」


 クラマへの対応後、紗由良はゆっくりと立ち上がった。


「大丈夫ですか?」


 立ち上がるだけで一呼吸置いた紗由良の様子に、美琴は心配になる。


「大丈夫よ。美琴様とお喋りしていたら、なんだかとても気分が良くなったわ。朝ご飯があまり食べられなかったけどお腹もすいてきたし。お菓子が楽しみよ。さぁ、行きましょう」


 案内された客間にはすでに羽矢斗も紫珱も着いていた。

 持参した菓子は柑橘系の香りがある、しっとりふわふわな食感の焼き菓子で、紗由良と羽矢斗にとても好評だった。

 つわりで食が進まなかった紗由良が、毎日でも食べたいと言うほどで。

 羽矢斗はしばらく毎日、蜜華亭へ買いに行くことになりそうだった。