「───愛だと⁉ 笑わせるな!」


 妖魔の気配を濃くしたトウヤが、叫びながらこちらに向かってきた。

 顔の左半分が赤黒く染まり目玉がない。

 振り上げた左片腕が不気味に変形しながら刃の形を作り、攻撃の姿勢で迫っていた。

 人間のものではない速さを感じ取った紫珱が美琴を腕の中に引き寄せる。

 その背を盾に身構えたとき、ふわりと視界を掠めた色があった。

 銀色の中に黒色のまだら模様が入ったような髪を風に靡かせた者が紫珱の前に立った。

「───莉乃っ⁉」

 美琴の耳に紫珱の声とトウヤの声が重なって聞こえた。

 莉乃の姿はぼんやりとだが人の姿を成していた。そして妖魔(トウヤ)が振り下ろした刃を莉乃は右手で掴んでいた。

「───っ、はっ、放せっ……莉乃!」

 その手の甲に浮き上がる葩印が緋色へと変化し、輝きを放つ。

 妖魔の刃が莉乃の手から離れることはなかった。


「トウヤ、目を覚まして。そんなものに支配されないで。───ごめんね、トウヤ。私があなたを変えてしまったのだとしたら……私のせいであなたが……」

「ち……違う、莉乃。違うだろ、莉乃。蘇って、もっと幸せに……次こそは幸せに生きなきゃ……そうだろ……?」


 莉乃は首を振った。

「私を蘇えらせるために、あなたに復讐なんてしてほしくない。……私を想う心がまだあるのなら戻ってきて……トウヤ。肉体は滅んでも想いは寄り添える……。私はトウヤと一緒に逝きたいの……未来へ」


「み、らい……?」


「妖魔の支配がそうさせていたとしても、人を殺めてしまったあなたの罪は消えない。でも最後は人の心を取り戻してほしい。戻れたら、人の心で想い合えたら、繋がれる。そして未来でまた逢えるわ……」


「莉乃……」


「一緒に逝こう、トウヤ。もう一人ぼっちにはしないから……」


「───ウ、グゥゥッ‼」


 トウヤが苦痛の声を上げると、だらりと下げていた右手が変形した。それは鎌のような形になり、莉乃の下腹部めがけて動いたように見えたのだが。


「……ヤ、メッ……ロ……ゥォオオッ!」


 次の瞬間、鎌はトウヤの太ももに刺さっていた。


「トウヤッ……」


「莉乃に刃物を向けるなんて。僕は莉乃を傷つけたくない。傷を負わせるなんて……絶対にッ……ご、めん莉乃……ごめんよ……。好きなんだ、莉乃が。……ァイ……シテルョ……莉乃ノコト……」


 トウヤは泣いていた。

 莉乃は空いている腕でトウヤを抱きしめた。


「……トウヤ。泣かないで。最後に私を守ろうとしてくれたんだね。ありがとう、私も大好きよ……アイシテルヨ……トウヤ───」


「───クッ……ソ、ソレデ我ガ支配カラ、逃レタツモリカ……!」


 トウヤから不気味な声が響いた。


「ノコッテイル目玉ヲ喰ライ、次ハ血モ肉モ我が喰ライ支配ス、ル!」


 莉乃が掴んでいた妖魔の刃から瘴気のような煙が立ち上り、葩印の輝きを奪っていくように見えた。


「紫珱さまっ、このままじゃ妖魔の支配が進んでしまう!」


 紫珱の腕の中から様子を見ていた美琴が叫んだ。


「攻撃を加えてみるか……。美琴、ここを動かないように」


 美琴にこう告げ、紫珱が立ち上がろうとしたときだった。


「紫珱さま、動いてはなりません」


 莉乃が言った。


「美琴さんを……あなたの花嫁をお守りください。今度こそ、しっかりと」


「莉乃……」


「トウヤは支配されていません。肉体を手放し、御魂となって私としっかり繋がっています。……あなたから授かった葩印の霊力で。───だからこのまま妖魔共々取り込みます。その後は……ほら、感じませんか? 空からこちらに、貴族たちが。だからこのまま……」


 紫珱は暗闇の空を見上げた。

 遠くからだんだんと、北方の貴族たちが雲蛇に乗りこちらに向かってくることに気付いた。

 ラセツが知らせに向かい、慶秦たちを連れてくることができたのだろう。

 けれどしかし。


「莉乃、おまえたちは……。───莉乃、俺はおまえに……」


 この後なにが起こるのか。───予感はしている。

 自分はこの沙英の地を守護する霊獣ではない。

 トウヤと血縁のある北の貴族でもない。

 三年前からトウヤを探していたのは慶秦たちで。見つけたときの処分などすでに決まっているだろう。

 自分と美琴は運悪く巻き込まれただけなのだ。

 だからこの先、トウヤと莉乃にどんなことが起きても、自分にできることはない。

 だけど……。

 莉乃には謝りたかった。


「……謝らないでください、紫珱さま」

 まるで紫珱の心を読んだかのように、莉乃は振り向いて言った。


「紫珱さま、あなたは……霊獣はなにも悪くありません。あなたの呼び声に応えぬまま、自害という許されない行為をしてしまった私が悪いのです。……私はトウヤと逝けて幸せです。───美琴さん、ここまでありがとう。どうかお二人とも末永くお幸せに───」


 莉乃は微笑み前を向いた。


「───だめっ、そんな……紫珱さま!───止めてくださいっ、矢が!」


 天空で、雲蛇に乗った五人の貴族たちが弓矢を構えていた。

 矢先には炎のような輝きがあり、日差しのような明るさが辺りを照らす。

 そして一斉に矢が放たれると、炎の矢先はトウヤに向かいながら集まり、大きく燃え上がりながら一本の矢となってトウヤの背中に刺さり、その先端は彼を抱き締めていた莉乃の身体をも貫いていた。

 妖魔のものだろうか。断末魔が響き、紅蓮の炎が二人を包んだ。

 そして妖魔が発していた瘴気は見えなくなり、莉乃とトウヤの姿も陽炎のようになり、やがて消えた。



「───紫珱様。……美琴様も、ご無事ですね。間に合ってよかった」

 二人の前にラセツが降り立った。

「ああ、ラセツ。おまえがリンに知らせてくれたおかげだ。リンにも礼を言おう、出ておいで」


 紫珱が呼ぶと、リンが遠慮がちに木陰から現れた。


「リンちゃん、本当にありがとう」

 美琴が言うとリンは照れくさそうに笑みながらも首を振った。

「私はほんの少しお手伝いしただけです。美琴様の強い意志と想いが紫珱様に届いて力になったんですよ」


「紫珱様、北方のみなさんが………」

 ラセツの視線へ目を向けると、空にいた貴族たちが地上へ降りて来るところだった。

 貴族たちは少し離れた場所からしばらくこちらを見ていたが、その中の一人、慶秦がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 慶秦は紫珱の前まで来ると軽く頭を下げ、視線を落としながら言った。

「ご無事でなにより。無事に妖魔を討伐できましたこと、我らより王都へ報せますのでご心配には及びません。───では」


「待ってくれ」

 背を向けた慶秦を紫珱は呼び止めた。


「トウヤは最後、肉体を手放し妖魔ではなくなっていた。心だけは……人の心を取り戻していた。それだけは忘れないでやってくれ」


 慶秦に返事はなかった。ただほんの僅かに頷きを返してくれたのがわかった。


 そして北方の貴族たちはまた雲蛇に乗り去って行った。


「美琴……?」


 美琴は泣いていた。


「どこか痛むのか?」


「いいえ、そうじゃなくて……。二人は確かにもう人ではなくなっていたけど。あんなふうに……消えてしまって。討伐とか……あんなやり方で……」

 仕方のないことだとは思う。けれど美琴はとても悲しかった。


「もっと時間が稼げていたら、俺の力で妖魔の支配を取り除けたかもしれなかったんだが。せっかく美琴が真の目覚めに導いてくれたのに……」


「え……。紫珱さま、今なんて……? 」


 真の目覚めが……?

 でもあれには儀式が。

 けれど紫珱から感じていた不安定な気配がなくなっている。

 紫珱を包むように視えていた薄い膜のようなものがなくなっている。ぼんやりと霞んで見えることがないのだ。


「話は後だ。俺たちも帰ろう」

 紫珱が言った。


「そうです、帰ってゆっくり休むべきです」

 とラセツが。

「そうですよ、美琴さま。これでもうなんの心配もなく、お輿入れのことだけお考え下さい」

 続けてリンが言った。


「さあ、美琴───」

 返事をする間もなく、美琴は紫珱に抱き上げられた。


「雲蛇が速度を上げるぞ。怖かったら目を閉じていればいい。あっという間に家に着くから」


 風に包まれる気配と浮き上がる感覚。

 少し怖かったけれど、紫珱の腕の中にしっかりと抱かれていることに安心できた。

 ほっとした途端、これまでの疲労感が押し寄せてくるのがわかった。

 目を閉じたら、このまま眠りに落ちてしまいそうだ。


「……美琴、眠っていいぞ」


 美琴の状態を察したのか、紫珱が優しくささやいた。

 白銀の髪がキラキラと闇夜に輝き風に舞い、美琴の頬に触れる。

 そのくすぐったい感触に微笑んで、頷いて。

 美琴は眼を閉じて眠ることに決めた。