トウヤの中に潜んでいる妖魔の気配が強くなっているのを紫珱は感じていた。


「貴様を喰らうなど……。まだ後だ。莉乃が先だ、莉乃の甦りが。その後でゆっくり喰えばいい、あの女もこいつも」


 見えない誰かとトウヤは喋っていた。肩で息をし、呼吸が荒い。


 身の内の妖魔が荒ぶっているのだろう。そう長いこと抑えられるわけがない。


「トウヤ、こっちを向け。おまえにまだ人の心があるのなら。俺を真っ直ぐに見れるはずだ。……どうした、余裕がないんだな」


「違うっ。喋るな!移動させるっ、こいつを運べ!連れて行け。───なぜ返事をしない……。あの女を連れ去ったときのようにできるはずだろ!僕のいうことをきけっ───来るだと⁉ なにが向かっていると……やめろっ、それはまだ喰うなっ」


 妖魔の支配がトウヤの身体を動かしていた。

 紫珱に迫るその顔は醜く歪み、飛びかかろうとする両手から人にはない鋭い爪が伸びていた。

 あと少しでその爪が霊獣に届くというとき、


「やめてっ‼」


 声と共に眩い閃光がその間を割くように走った。


 化け物の姿に変わりつつあったトウヤは、その輝きの力に弾き飛ばされた。


「トウヤ!」


 慌てて体勢を立て直しながらも、その声にびくりと動きを止めた。


「……莉乃?」

 トウヤは動揺しながら目の前で浮遊する小さな光を見つめた。


「莉乃なのか……? な、んで……。莉乃……その姿は………」


「トウヤ、復讐なんてやめて。私はそんなの望んでない……」


「───紫珱さま!」


 呆然と立ち尽くすトウヤの隙をつくように、その脇を通り過ぎる気配があった。

 精霊の気配を含んだ風と一緒に、山中の屋敷に捕えていたはずの美琴が霊獣の傍へと駆け寄っていた。


「紫珱さま! ……ひどい怪我」


「───美琴……⁉」


 その姿を目の前にするまで全く気配が感じられなかったことに驚いた紫珱だったが。


「そうか、この気配はリンのものだな?」


 美琴は頷いた。

「リンちゃんはラセツさんの指示で私を探していたそうです。───山の中で私と会うことができて、一緒にここまで。でもリンちゃんは妖魔に私の気配を悟られないようにと力を使いながら慎重に動いてくれて。今もまだ姿を潜めています。それからもう一人、囚われていた私を助けてくれた方が」


「……あれは莉乃なのか」


 自分とトウヤの間に割って入った光。

 前方で浮遊する小さな輝きを見つめながら紫珱が訊いた。


「そうです。莉乃さんは自らの意志で御魂だけに。そして残っている霊力で復讐を止めたいと言っていました」


 ♢♢♢

 この場所に辿り着く少し前、美琴の右手に吸い込まれた莉乃の御霊が再び外へ出た。

 手の甲に浮かんでいた朱色の葩印も消え、御魂()となった莉乃は美琴に言った。


「もうすぐよ。この先にトウヤと霊獣がいます。私がトウヤを引き付けるからあなたはその隙に霊獣の元へ走りなさい。風の精霊が加護してくれるはずです」


「精霊が?」


 ───美琴さま。

 風の中から自分を呼ぶ小さな声が聞こえた。

 この声は……。

「リンちゃん?どうしてあなたが……」


 ───美琴さま、このまま私と一緒に進んでください。説明はそれから。


 そうして莉乃の言葉の通り、美琴は紫珱の元へ辿り着くことができた。


 ♢♢♢


(あの女っ、なぜ⁉)

 美琴がどうやって逃げ出すことができたのか。トウヤは動揺していた。

「私があの子の縄を解いたわ」


 目の前に浮かぶ小さな光から発せられた言葉に驚愕する。


「私はあの肉体を手放した。もうほとんど朽ちていたの、あなたにもわかっていたでしょう」


「……違う。あと少しで……あの女さえ手に入れば莉乃は……」


「トウヤ」


「黙れっ!莉乃が僕の邪魔をするはずがない!───そうか、これは幻影だろ。……精霊の気配がする。奴らが見せてる罠だ!」


「目を覚ましてトウヤ!」

「───消えろっ」


 トウヤは浮遊する光を振り払う。


 ───おいおいどういうことだぁ?


 身の内で隠れている妖魔の声が響いた。


 ───裏切りかぁ?

 トウヤを嘲笑うような声音だった。


 ───ここまでお膳立てしてようやくいいところで。冗談だろ?


「……うるさい、黙れ」


 ───なぁ、俺がもっと力を分けてやるよ……。欲しいだろ、ぜんぶ思い通りにする力がさぁ。


(……そうだ、思い通りに。莉乃を……莉乃を……)


 ───そうか。それならおまえの眼玉一つと交換だ。……いいな?


「ああ……」


 復讐が叶うのなら。目玉の一つくらい喰わせてやる。


(誰にも邪魔はさせない!)


 こう思った次の瞬間、視界が徐々に暗くなっていく。

 妖魔の邪気がじわじわと左目に浸透していくのを感じた。



 ♢♢♢


「紫珱さま、血がこんなに……」

 美しかった白銀の毛並みが流血のせいで赤黒く染まり、目を逸らしたくなる状態だった。

(早く止血しないと。でもどうしたらいいのか……)

 とにかく紫珱の身体の自由を奪っている黒い網を何とかしなければと思い、美琴は手を伸ばそうとするのだが。

「駄目だ、美琴。これに触れるんじゃない。触ればおまえも怪我をする」

「そうです!美琴さま、妖魔の呪術網に触ってはなりません」

 紫珱の声と姿を消しているがリンの声が美琴を制した。

「でもこのままじゃ……」


 ここまで来て。私は───何もできないの?

 私にはなんの力もないの?

 紫珱さまを助けたいのに。

 紫珱さまに……こんなにも触れたいと思うのに。

 そして紫珱さまが負った傷も痛みも苦しみも……全部、私が代わってあげたいと想うのに。


「紫珱さま、私は……」


 泣きながら、美琴は霊獣に手を伸ばした。


「よせ!美琴っ」

 黑い網に触れた指先がピリピリと痛む。そのまま握り千切ろうと力を込めると皮膚が裂けていく痛みに変わる。

「やめるんだ美琴っ、手を放せ!」


(このくらい平気。だって私は……)


「───私はあなたが好きです、紫珱さま。私……あなたが大好きなんです。……あなたの白銀の毛並みも、ふさふさな尻尾も。寝起きにときどきふにゃって、寝ぐせみたいに曲がってることがあるお(ひげ)も。私とおんなじ色の眼も。ぜんぶ……全部……!」


「美琴!」


「だからこんなふうに傷つけられて怪我されて汚されるのっ、我慢できるわけないっ」


 涙が溢れるまま、泣きながら叫んでいたら、触れていた手先の痛みなど遠退いてしまったように思った。


「美琴……おまえ……」


「───美琴さまに光が!」


 驚いたようなリンの声。そしてこちらもやはり驚いたように自分を見つめる霊獣の双眸と目が合った。───そして、


 ……あれ?この光はなんだろう。

 莉乃の御霊の輝きより小さな光が幾つも浮き上がり、自分と紫珱の周りでふわふわと漂っている。

 ふと手元を見れば、今もまだ自分の涙がポロポロと零れ落ちるのがわかる。

 でもそれが───落ちる涙が光となってキラキラと浮かびだしていた。

 そして驚いたことに光が触れたところから霊獣を封じていた黒い網が徐々に消えていった。

 この光はもしかして。

 もしもこの光に力があるのなら……。

(お願い、紫珱さまを助けて!)


 強く祈ると光が集まり輝いて、一瞬にして呪術網は消え失せた。

 痛みのあった美琴の指先も傷ひとつなく、紫珱の出血も止まっていた。


「美琴。……精霊を喚べたのだな」


「私が……?」


 この光が精霊……。


「美琴が使役する光の精霊だ」


 以前、穂奈美から聞いていた。

 選ばれし者となったとき、霊獣がその者から言霊を得る代わりとして、その者───花嫁に授ける霊力があるのだと。

 その霊力には妖魔を感じて祓う力や、精霊を使役する力があると穂奈美は言っていた。


「これが私の………」

 姿は霊獣のままだが、紫珱の頷きと微笑みが美琴にはわかった。

「紫珱さま……」

 美琴は両腕を広げ霊獣を抱きしめた。自分から、抱くように。

 その身を毛並みの中へ埋めるように。美琴は紫珱をぎゅっと抱きしめた。

「美琴、俺の血でおまえが汚れてしまう」


「平気です」


「どこも怪我してないか?」


 こくこくと頷く美琴の頭に、紫珱は鼻をすり寄せながら言った。


「無事でよかった。俺を想ってここまで来てくれたのか。無茶をさせた……怖い思いも」


 美琴はゆっくりと首を振り、顔を上げながら言った。

「紫珱さまに伝えたいことがたくさんあるんです。私の気持ちも……言霊も、もっと知ってほしい。私は……紫珱さまの傍にいたい。何があっても離れたくない。私を選んでくれたあなたと生きていきたい……」


 美琴の両手が霊獣の頬の辺りに触れた。

 とても優しく、包むように。そして慈しむように。

 それだけで、なにか温かなものが流れてくるのを紫珱は感じた。

 そして美琴はそのままゆっくりと唇を紫珱の口元へ近付けて触れた。

 たとえその場所が自分の『朱の葩印』でなくても。紫珱からの口づけでなくても。

 息を込め、想いを込めて。


(今は私が……私から紫珱さまに渡したい。想いの力をぜんぶ……)


 生きる力にしてほしいから。


「───大好きです。……愛してます、紫珱さまを」


 美琴が呟いた途端、霊獣は人の形を成した。


「俺も同じ気持ちだ、美琴。───愛してる。美琴の言霊が響いて力が漲る。……ありがとう、美琴」


(紫珱さまの姿が、なんだかはっきりと目に映る)

 いつもどこかぼんやりとしていた輪郭は消えていた。

 衣服は血で汚れ所々裂けているが、紫珱が纏う在気は明らかに以前とは異なり、研ぎ澄まされた霊圧のようなものが感じられた。