♢♢♢


 ───美琴⁉


 闇夜空を翔けながら、消えた美琴の気配を探っていた紫珱が動きを止めた。

 美琴の声が聞こえたような気がして、紫珱は視線を彷徨わせた。


「紫珱様、傷の手当をさせてください」


 後を追いかけて来たラセツの言葉に紫珱は「いらない」と答え、しばらく目を閉じていた。

 獣の耳をぴくぴくと動かし、どんな小さな音も聞き逃さないようにと集中する。

 けれど耳を掠めていくのは冷たい風の音だけだった。


 気のせいだったのか……。いや、そんなはずはない。美琴の声なら必ず判る。

 そう思うのだが、美琴が目の前からいなくなってしまったことに動揺し、冷静な判断ができているのか自信がない。

 美琴を守れなかった自分自身に悔しさと憤りを感じている。

 美琴が見合い相手から祝いの品だと言って渡されたというあの手鏡には呪術がかけられていた。

 なぜもっと早くそれに気付けなかったのか。


 思えば心が別の感情に囚われていた。

 知らない男の存在が許せなかった。

 けれど同時にもしも───、もしも美琴が自分と出逢わなければ。

 そう考えてしまう。貴族でも獣でもない普通の人間の花嫁になったほうが幸せに過ごせるのではないかと。


 呼び声に応えてしまったばかりに、それまでの生活とは一変してしまった。───きっと、口には出さなくても、住み慣れた場所を離れることは心細かっただろう。

 そして怖いと思っていただろう。半分は獣の、こんな自分に嫁ぐことなど。


(でも、だからこそ俺は美琴が愛おしくて。大切で。幸せにしてやりたいと心から思うんだ)


 それなのに、妖魔が絡む騒動にまで巻き込んでしまった。


 見合い相手という存在に気持ちが乱れ隙ができたのだ。


 しかも呪術鏡を渡した鷹也は『トウヤ』であることに間違いない。


 美琴が選ばれし者となる前にトウヤと出逢ってしまったのは偶然なのか、それとも運命なのか。

 自分の留守中に偶然再会したのだと美琴は言っていた。

 けれどトウヤは美琴が一人になるのを狙っていたのだろう。

 髪を奪われたのもきっとそのときだ。

 莉乃の亡霊を操り、美琴を攫ったトウヤの目的は……。


 ───そんなこと、今はどうでもいい。


 紫珱はぶるんと頭を振った。

 考えるよりもまず動くのだ。

 美琴を見つけ、取り戻すために。

 今はそれだけに集中するのだ。


 感じる方角は東。墓地があった方角だ。

 莉乃の亡霊と初めて遭遇した場所。


 墓地がある小高い丘の裏手には更に高い山へと続く道がある。


 紫珱は声を感じた方向を定め、ラセツに言った。


「俺は墓地のある東へ向かい、そこから山中へ入る。おまえは今から北方の貴族に知らせてくれ。慶秦(けいしん)という名前の貴族に捜査の協力を申し込んである。わずかな手掛かりでもほしいと思っているのは彼等も同じようだから」


「……紫珱様。傷の癒えてない身での行動はお控えください」


「霊獣の姿に戻っているんだ。すぐに治癒する」


妖魔(トウヤ)の罠かもしれません」


「たとえそうであっても美琴の言霊を感じたのだ。俺は行く」


 美琴は言霊を交わした相手だ。

 呼び声に応えてくれたあのとき、美琴は自分に力を与えてくれた。

 それまでは同じ血筋の眷属以外、言葉を交わせなかった自分が、選ばれし者から与えられた言霊の力で普通に暮らす民達と話せるようになったのだ。

 言霊という『想いを伝える力』。

 それはたとえ離れていても、美琴と自分を繋いでいるものだ。

「俺の言霊はきっと美琴に届く。心は伝わると俺は信じている」


「わかりました……」


 ラセツは諦めたように小さく息を吐いた。


「頼んだぞ、ラセツ」


 ラセツは頷いて風の中に消えた。


 そして紫珱もそれを見届けると空高く翔けていく。


「───美琴!」


 強く想いながら名を呼び、白銀の獣は闇空を進んだ。


 傷の痛みが身体中に感じ、呼吸さえも苦しいけれど。


 美琴のことを想うだけで力が湧くから不思議だ。


(美琴、俺はおまえを必ず見つける)


 捜しだしてきっと助けるから。


 霊獣(紫珱)は風の速さで移動し、目的の山中へと下降していった。


 ♢♢♢


 地面に降り立ち、再び感じた気配に紫珱は辺りを見回した。


 「……美琴か?」


 鬱蒼とした山の中。暗闇しか見えるものはないが、獣の姿でいるときは人よりも感覚が鋭くなる。


 前方に人の気配を感じ、進んでいくと淡い光を捉えた。


 紫珱のよく知る蜂蜜色だ。

 ふわりと柔らかな美琴の髪色だ。

 その光の輪郭はうずくまる人のかたちを縁取っていた。


(美琴……?)


 両手で顔を覆いすすり泣く声に駆け寄りたくなったが、紫珱は寸前で思い留まった。


(あれは……違う)


 美琴ではないと感じた。


「おまえは誰だ」


 紫珱が問うとすすり泣きは止み、両手が外され顔がこちらに向いた。


「紫珱さま……」


 その姿も声も、美琴のものなのに。

 そして声には確かに美琴が持つ言霊と同じ響きがある。

 けれど同時に、その者からは異質な気配が僅かに漂う。


 紫珱を見つめる瞳には翳りがあった。


 美琴が持つ透明で純粋な光がその眼にはなかった。


(呪術で作りだされた囮か)


 紫珱はそう判断し、ゆっくりと偽物の美琴へと進んだ。