♢♢♢
真紀乃が店の様子を見てくると言って出て行ってから、美琴はあれこれ考えて溜め息をついた。
(わたし、これからどうなるんだろう)
黎彩から使者が来るとは言ってたが。
霊獣や貴族とは無縁の生活を送っていた庶民の娘が得ている知識など皆無だ。
日々の暮らしで精一杯。
貴族や霊獣に想いを馳せて暮らしてなどいない。
今までも、これからも。
そのつもりだった。
なのに……。
美琴は頭が重くなるのを感じた。
真紀乃に食事を勧められたがまだ胸が重苦しく、とても食べれそうになくて断った。
障子の間からわずかに差し込む西日は弱まり、夕刻の終わりを告げているのがわかる。随分と長い時間、意識を失っていたようだ。
この部屋まで運んでくれたのは紫珱だと真紀乃が言っていた。
美琴は膝にかかる蜂蜜色の髪に触れた。
沙英の街でこんな髪色をした人間はいない。
紫珱の白銀の髪色も珍しい。
(でも……。霊獣でいたときの銀色の方が虹色の光と重なって綺麗だったなぁ)
「ミコト」
部屋の外から紫珱の声がした。
「入ってもいいか?」
緊張が美琴の全身を支配する。
美琴は深呼吸してから返答した。
「ど、どうぞ」
部屋に入った紫珱は身体を起こしている美琴を見て顔を顰めた。
「寝ていた方がいいと言ったはずだが」
「でもあの、後で……着替えもしたいので。……あ……あの、お菓子、美味しかったですか?」
もっとほかに先に、聞くことがあるはずだったと後から思った美琴だったが。
「ああ、美味かった」
紫珱は笑顔で答えた。
その笑みは驚くほど優しく人懐こくて。
美琴の緊張が少しほぐれた。
(やっぱり甘党なんだ)
美琴はそんなことを思いながら聞いた。
「霊獣はみんなお菓子を食べるのですか?」
「俺たちも普通に食事くらいする。腹も減るし菓子も食えば酒も飲む。丈夫で長寿だが不老不死ではない。ここは……とても懐かしい匂いがしてな」
紫珱は遠い目をして言った。
「子供の頃、母がよく菓子を作ってくれた」
「そうですか。ご両親はお元気なのですか?」
「ああ。父も母も健在だ。俺に領主を継がせてから田舎で隠居生活を満喫している」
(…………。……も、もっと何か話さないと!)
沈黙が続く気まずさに加えて、紫珱から痛いほどの視線を感じる。
「ぁあのッ、正式なっ、その………あなたとの婚儀はいつ頃になるのでしょうか?い、いろいろと……準備とかもありますし……」
とくに心の!
慌てた様子で訊く美琴に紫珱はしばらく思案していたが、やがて答えた。
「明日にでも。と言いたいところだが。さっきも言った通り、俺は出かけなきゃならない。詳しいことは黎彩からの使者に聞いてくれ。……あ、そうだ。ほら、」
カサコソと服の袂から白い包みを取り出すと、紫珱はそれを美琴の膝へ置いた。
「少しでも食べておけ」
開けてみると粉を煉った生地に甘く煮詰めた林檎を挟んで焼いた菓子が入っていた。
「夜食にしようと思ったが、おまえにやる。女将が心配していたぞ。昼から何も食べてないのだろ」
この季節、旬の林檎で作った菓子は美味く、店でも人気の品だった。
甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり食欲を誘う。
あんなに自分のことを見ていた紫珱の瞳が、今はどこか慌てた様子で彷徨っていることに美琴は驚いていた。
───もしかして、照れてるの?
「……ありがとう……」
また少し美琴の緊張が緩んだ。
「いいな、それ」
「え?」
「そんなふうに笑った顔がいいってことだ。それから「ありがとう」も。良い響きだな。その言霊、俺の中に沁みた。……だがな、」
紫珱は言葉を区切ると美琴の頭に優しく手を置いた。
「こんなふうに、触れて言われた方が、言霊の力がもっと俺の中に沁み込むのだがな」
紫珱の大きな手が、そこからゆっくりと撫でるように美琴の右耳へ触れて、そして片頬を包んだ。
鼓動が。
触れてくる紫珱に伝わってしまうのではないかと思うくらい速く響く。
紫珱の顔がなんだか近くなっているのは気のせいだろうか。
「───? あの、しおぅ……さま?」
「俺の名前、初めて呼んだな。ミコトの声はいいな。甘くて」
至近距離のささやきに、なんだか少し怖くなって美琴は目をそらし俯き、膝の上の両手をぎゅっと握った。
「そんなに震えなくても。美琴は面白いな」
おもしろい⁉
「茹で顔になるところが面白くて可愛い」
……ゆ、茹で………。
触れられている場所が燃えるように熱かった。
「やっぱりまだ熱があるじゃないか」
(だ、誰のせいですかッ……)
「寝ていろ」
「は、はいっ」
焦って、どうしていいのかわからなくなった自分の気持ちに動揺しながら、美琴は逃げるように布団の中へ潜り込んだ。
「そろそろ戻る。今夜は隣りの蜜華亭に泊まらせてもらうことになった。明日の朝、黎彩へ向かうが……美琴」
部屋の戸口に立った紫珱が振り向いて言った。
「よく休むんだぞ。おやすみ、美琴」
「……おやすみなさい」
美琴の返事に紫珱は小さく頷いて部屋を出て行った。
♢♢♢
店舗兼住宅になっている真紀乃の屋敷の客間で、紫珱は縁側から空を見上げた。
冬の夜空は風に流れる雲に邪魔され、瞬く星も輝く月も今夜は愛でられそうになかった。
月見酒といかないのは残念だったが、真紀乃が用意してくれた酒が程よく効いてきた頃、目の前の中庭に彼が音もなく現れた。
闇の中、淡い粒光を纏い浮かぶ少年がいた。
濃い茶色の髪と、闇色の瞳。
歳は十四、五歳に見える。
一見、儚げな雰囲気のある風貌だが、紫珱を見据える眼差しにはしっかりとした強い意思が感じられる。
「眠ったか?」
紫珱の問いに少年は頷き答えた。
「菓子を食べて落ち着いた様子でした」
「そうか、よかった」
「紫珱さまの選定の儀、無事に終えられたことお祝い申し上げます」
「ありがとう、ラセツ。美琴の言霊は純粋で温かい。俺は気に入った。留守の間、頼んだぞ」
「御意」
ラセツと呼ばれた少年は胸に手を当てて腰を折ると、現れたときと同じように音もなく闇の中に消えた。